乗り込んだのは、HONDAジェットよりもはるかに大きな飛行機だった。

「ガルフストリーム社製のG650ERよ。世界最高峰のビジネスジェット機と言われているの。航続距離が13,000キロメートル以上あるから、世界各地の主要都市にノンストップで行けるのよ」

 エンジンはロールスロイス社製で、速度はマッハ0.925だと自慢げに話した。しかし、その顔はそれほど楽しそうではなかった。

「本当なら、今頃MRJに乗っていたはずなんだけど……」

 玉留がため息をついた。

「MRJって、あの三菱の……」

「そう。世界でただ一人個人で購入契約をしていたのがあたしなの」

 本当? 
 そんなこと聞いたことないよ、

 疑いの目を向けるとそれに気づいたのか、「口外しない約束なの。だから、誰もこのことを知らないわ」と内緒のウインクを投げた。

「口外しないって……。でも、今言ったじゃん」

 更に疑心の目を向けると、「口外の対象は人でしょう。あなたは犬だからいいのよ」と笑った。

 なんだって? 
 犬だからいい? 
 なんか馬鹿にされているみたいだ。
 冗談じゃない! 
 僕は名門美家の名犬フランソワなんだぞ! 
 他の犬とはレベルが違うんだぞ! 

 と不貞腐(ふてくさ)れてみたが、そんなことより、彼女の言っていることが本当に凄いことだと気がついた。だから、MRJを個人で購入できる彼女ってどれほどの金持ちなんだろう? と想像しようとしたが、見当もつかなかった。余りにも世間離れしすぎて、頭がくらくらしてきた。それで思考の方向をMRJのカタログ価格に切り替えた。古い記憶を呼び覚ますように大脳皮質に喝を入れると、記憶の引き出しが開いた。1機50億円だった。

「前金で一括支払いすると言ったらディスカウントしてくれたのよ。守秘義務があるから詳しくは言えないけどね」

 訊いてもいないのにベラベラとしゃべり始めた。

「HONDAジェットも考えたんだけど、ちょっと安すぎるでしょう。あれって6億円位だったかしら? 誰でも買える値段よね」

 誰でも買える? 
 おかしいんじゃない?

 呆れて開いた口が塞がらなかったが、余りのスケールの大きさに、大金持ちだと思っていた露見呂嗚流の存在が小さく思えてきた。

「小金持ちはロールスロイスやベントレー、ポルシェがいいところよね。中金持ちはHONDAジェットを買って喜んでいるレベルよね」

 そして、うふっと笑った。

 何がおかしいんだ?

「あたしのような超がつく大金持ちになると、そんなものでは満足しないの」

 じゃあ、どんな時に満足するんだ?

「誰も買えないものを買った時にだけ満足するのよ」

 ふ~ん、そうなんだ……、

 彼女の話を聞くのが馬鹿らしくなった。しかし、弟子入りする予定だった呂嗚流の関心が椙子に集中した今、新たな弟子入り先を探す必要に迫られていた。鼻持ちならなかったが、ぐっと堪えて彼女に取り入ることに決めた。
 それに、なんと言っても世界一の金持ちだ。それだけでなく、かなりの美人であることは間違いないし、スタイルも申し分ない。
 となれば、善は急げだ。早速、母親のアドバイスを実行することにした。聞き上手になるのだ。

 んん、

 顔面を真面目にして玉留に向き合った。

「玉留様、何故あなたは世界一の大富豪になれたのですか?」

 丁寧に訊いたつもりだったが、彼女の顔は一気に強張った。

「なれたのではなく、なったのよ」

 何もわかってないのね、というような軽蔑した表情に変わった。

 ヤバイ! 

 逆効果になった発言を悔やんだ。それでも瞬時に頭を切り替えて、必死になってリカバリー策を考えた。

「失礼いたしました。玉留様の余りのスケールの大きさに動揺してしまって……」

 すると、〈あら、そう?〉というように顔に笑みが浮かんだ。

 よし、機嫌が直った。

 ほっとしたが、同じ間違いをしないように慎重に言葉を選んで続けた。

「僕は玉留様を尊敬しております。爪の垢を(せん)じて飲ませていただきたいと思っております。玉留様に1ミリでも近づきたいと思っております。ですから、世界一の大金持ちになられたヒントをお教え願えないでしょうか」

 すべての歯が思い切り浮きかけたが、ぐっと噛みしめ、心底からそう思っているという表情を作って彼女を見つめた。

「いいわよ、教えてあげる」

 にこやかな笑みが浮かんだ。

「誰にでもできることを、誰もできないほど徹底したの」

 ん? 
 どういうことだ?
 禅問答か?

 思考が迷路をさ迷い始めたが、それが顔に出たのか、玉留が助け舟を出すように優しい声を発した。

「小さなことを徹底したのよ」

 小さなこと……、

 フランソワは食い入るように彼女を見つめた。

「最も小さな単位はなんだと思う?」

 少女のような可愛い顔になった。

「1円とか……、1秒とか……」

 自信がないのでか細い声を出すと、「その通りよ。1円と1秒を徹底したの」と少女のような顔で笑った。

 ん? 
 どういうことだ?

 フランソワの思考がまた迷路をさ迷い始めると、「あたしが大事にしている言葉を教えてあげる」と言ってうふっと笑った。そして右手を高く上げて指を鳴らした。

 すると、秘書がメモ帳を持ってきた。受け取った玉留はダイヤモンドが埋め込まれたボールペンをすらすらと走らせた。見ると、『1円の収入増、1円の支出減、1秒のスピードアップ!』と書かれていた。フランソワはそれを食い入るように見つめた。

 1円と1秒か……、
 小さなことを徹底する……、

 自らに言い聞かせるために呟いたフランソワに、玉留は生い立ちを語り始めた。