「鏡よ鏡、この世でわたしより美しい女性がいたら教えて?」
「椙子様、この世で最も美しい女性は、あなた様です」
鏡が答えると、「そうよね、当然よね」と鏡に映った顔を惚れ惚れと見つめた。シミひとつない真っ白な肌、艶々としたキメ細かな肌、赤ちゃんのお尻のようなプルンとした肌、細い眉と二重の瞼につぶらな瞳、すっと伸びた鼻筋、丸みを帯びた頬に続くシャープな顎。
完璧だわ!
独り言ちると、体のラインをチェックするために専用のワードローブ・クローゼットに向かった。そして、中に入り、四方の壁も天井も床もすべて鏡になっている特別な部屋の中央に立ってポーズを取った。正面、後ろ、横、斜め、上、下、すべての角度から体のラインをチェックした。168㎝、48㎏のしなやかなライン、際立つ腰のくびれ、そして、高いヒップトップ、それに、豊満なバスト。
完璧だわ!
また独り言ちた椙子はバストに手をやった。ずっしりと重たかった。それに、形が良かった。殿方の視線を一身に集めるこの膨らみは椙子の魅力を一層際立たせていた。
でもね、顔と体だけじゃないのよ。語学も完璧なの。英語は勿論、フランス語もドイツ語もイタリア語もスペイン語もポルトガル語もペラペラなの。それに、韓国語と中国語とペルシャ語も日常会話程度ならOKよ。だから自動翻訳機なんて必要ないの。
鏡に向かって自慢げにおしゃべりをしたあと、色々な言語を口にした。すべてネイティヴの発音だった。
完璧だわ!
またまた独り言ちた。
でもね、顔と体と語学だけじゃないのよ、
鏡に向かって念を押してから音楽専用ルームに向かい、中に入って、部屋の真ん中に置いてあるグランドピアノに近寄った。CFX。ヤマハピアノの頂点に立つフルコンサートグランドピアノ。2千万円近いこのピアノは父親からのプレゼントだった。「フェラーリよりも安いからね」と言ってカード一回払いで買ってくれたのだ。
パパって最高。カッコいい!
でも、それが当たり前と思っている椙子に感謝の意などなく、当然のごとくCFXの蓋を開け、チェアに座って鍵盤に指を置いた。するとメロディーが湧き出してきて、指が自然に動き始めた。『ピアノ協奏曲第一番ハ長調作品一五』。ベートーベン作の名曲だった。
この軽快なロンドが好き。
躍るような、流れるような、この旋律がたまらなく好き。
オーケストラと一体になった響きを思い浮かべながらこの旋律を弾くのが好き。
あ~、ベートーベン、あなたの音に包まれているこの瞬間がわたしの至福の時。
あ~、ベートーベン、わたしはあなたの虜よ。
だけど、ベートーベン、何故あなたはわたしの時代に居ないの?
何故わたしの目の前にいないの?
何故わたしに教えて下さらないの?
でも、わたしにはわかるの。
あなたが導いて下さっていることを。
あなたが見守っていて下さることを。
あ~、ベートーベン、いつまでもわたしの傍に。
心の中でベートーベンと会話をしながらピアノを弾き続けた椙子の目に潤いが満ちた。でも、それはベートーベンへの感謝ではなかった。自らへの賛辞だった。
今日も最高の演奏ができたわ。
わたし以上にこの曲を弾きこなせる人はいないの。
完璧という言葉はわたしのためにあるのよ。
またまたまた独り言ちた。
でもね、顔と体と語学とピアノだけじゃないのよ、
椙子はバイオリンを手に取った。本当はストラディバリウスが欲しかったのだが、流石にそれは買ってもらえなかった。仕方がないので、自分の小遣いで買えるものを探した。
すると、掘り出し物を見つけることができた。ヤマハYVN500S。椙子は試し弾きをするなり、その素晴らしい音色に感激して即購入した。
ストラディバリウスに敬意を表して作られただけあって最高なの。これで160万円は安いわよね。
椙子は肩幅ほどに足を開いて背筋を伸ばし、バイオリンと弓を構えた。
今日は何を弾こうかな?
今の気分は……、
目を瞑って、メロディーが湧き出るまで待った。すると、弦に置いた左手の指と弓を持った右手が勝手に動き出した。『カノン』だった。そして、『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』へと弾き継いだ。流れるような麗しきメロディーを、鼻をツンと上に向けたまま気高く弾き続けた。
弾き終わった椙子は、まるで目の前に観客がいるかのように礼儀正しくお辞儀をした。
完璧だわ!
またまたまたまた独り言ちた。
でもね、顔と体と語学とピアノとバイオリンだけじゃないのよ、
部屋の隅に置いてあるドラムセットへと向かった。日本を代表する、いや、世界を代表するドラムメーカー『パール』の最高級セットだった。創立70周年を記念したマスターワークス。『Pearl』のロゴが燦然と光っていた。
わたしの白い肌に映えるパールカラーが気に入って、今年のお年玉で買っちゃったの。80万円くらいだったかしら。
椙子はチェアに腰を下ろして両手にスティックを持った。そして、左足をハイハットペダルに、右足をバスドラムペダルに置いた。
ワン、トゥー、スリー、フォー、
スティックでカウントを取ってドラムソロを始めると、得意にしているハイハットの裏打ちが小気味よく決まった。
このノリ最高! 次はローリングよ、
ウキウキしながら、スネアタムからハイタム、ロータム、そして、フロアタムへ、超高速ローリングの爆走が始まった。
乗ってきたわ。次はシンバルぶちかましよ、
スナップを効かせて左右のクラッシュシンバルとライドシンバルを滅多打ちにした。
乗ってきた、乗ってきた。髪を振り乱したわたしってセクシー?
荒い息を吐きながら、陶酔の世界に入っていった。
エンディングを迎えた。すべてのシンバルとタムを超高速で打ち鳴らしたあと、ドコドンッ♪ と決めた。すると嵐のような歓声と拍手が聞こえてきたような気がした。椙子はそれに応えてスティックをくるりんと回して、もう一度、ドコドンッ♪ と決めた。
完璧だわ!
またまたまたまたまた独り言ちた。
でもね、
言おうとして息が上がった。
ちょっと休まなくっちゃ、
思わず声が出た椙子は、呼吸を整えてタムタムの上にスティックを置いた。
すると、スカートが目に入った。ずり上がって超ミニになっていた。もう少しで見えそうだった。
あら恥ずかしい。こんな姿、パパとママに見つかったら叱られちゃうわ、
赤面した椙子は慌ててスカートを元に戻した。
これで大丈夫、
恥じらいが消えた椙子はもっと体を動かしたくなって、音楽専用ルームの横にある部屋に向かった。椙子専用のダンススタジオがあるのだ。
ピンクのレオタードに着替えて姿見に映すと、体のラインが自分でも見惚れるほど美しかった。
わたしって最高!
鏡に向かってウインクをした。
DVDをセットすると、映像と音楽が流れてきた。父親が大好きな映画『フラッシュダンス』だった。椙子はラストのダンスシーンが気に入っていた。アイリーン・キャラが歌う『What a Feeling』に乗って踊るジェニファー・ビールスのダンスが最高なのだ。
椙子は主人公になり切って踊り始めた。175㎝の彼女より身長がちょっと低かったが、踊りは負けていなかった。音楽に合わせてスピンを始めると、軸が安定してまったくぶれない完璧なスピンを決めた。それに気を良くして更に踊り続けた。
4分弱の曲が終わった。まったく息が切れていなかった。DVDを入れ替えると、安室のライヴが映し出された。椙子は彼女と一緒に歌い踊るのが大好きだった。安室と同じ踊りを、そして時にはバックダンサーと同じ踊りを踊り続けた。
あっという間に1時間が過ぎた。全身に汗を纏った椙子は泳ぎたくなり、水着を持ってプールへ向かった。この家には50メートルのプライベートプールがあるのだ。
プールサイドで回りを見た。警戒を怠るわけにはいかなかった。世界一の美女を狙うパパラッチはどこにでもいるからだ。
しかし、防備は完璧だった。敷地が広大な上に高い塀で囲まれているし、24時間高圧電流が流されている。侵入するのは不可能だった。
それでも椙子は警戒を解かなかった。両親の存在が気になったからだ。これからやろうとしていることが見つかったら大変なことになるので、五感を研ぎ澄まして気配を探り、その存在を確かめた。
いない、大丈夫だ。
プールサイドに水着を置き、レオタードを脱ぎ捨ててプールへ飛び込んだ。
あ~、幸せ。これ以上の開放感はないわ。
思わず吐息が漏れた椙子は生まれたままの姿で泳ぎ始めた。水はまだ冷たかったが、火照った体を冷やすには丁度良い温度だった。クロールからバタフライ、背泳ぎと一通り楽しんだ時、風に舞う桜の花びらを追いかけるようにフランソワがやってきた。
「あなたも泳ぐ?」
椙子が微笑みかけた。フランソワは〈どうしようかな?〉と思案するような表情を浮かべたが、次の瞬間、目をランランと輝かせた。何かを見つけたのだ。それに向かって一目散に走り出した。そして、それと一緒に逃げていった。
えっ、嘘でしょ。止めてよ、
体からサーっと血の気が引くのを感じたが、必死になってそれに抗った。
「戻ってきて!」
あらん限りの声でフランソワに呼びかけた。でも、彼は戻ってこなかった。レオタードと水着をくわえたまま、愛犬フランソワがどこかに行ってしまった。
どうすればいいの……、
椙子はプールの中で茫然となった。
軽子さんを呼ぼうか?
一瞬頭を過った考えを即座に否定した。お手伝いの軽子さんは口が軽い。間違いなくこのことをすぐにパパやママに話すはずだ。そうなったら大変だ。あられもない姿で泳いでいたことがバレてしまうに違いない。
ダメ、ダメ!
椙子は大きく頭を振った。
では、どうする?
プールの中でしばし考えたが、答えは一つしか思い浮かばなかった。
「フランソワ~」
囁くように愛犬を呼んだ。すると声が聞こえた。
クゥ~ン、
でも、姿は見せなかった。
どうしたの?
少し待ったが姿は現さなかった。仕方がないのでもう一度呼んだ。
「フランソワ~」
すると今度は家の陰から頭を出した。
えっ!
信じられない姿に目を疑った。ビキニのボトムを頭から被っていたのだ。それだけでなく、トップを口にくわえていた。
なんてことを……、
椙子は気絶しそうになった。それでも、ここで気を失うわけにはいかない。
「フランソワ~」
手招きをしながら、少し大きな声で呼びかけた。ところが、フランソワはニッと笑って家の陰に消えていった。わざと意地悪をしているのだ。わざと焦らしているのだ。そうすれば、いっぱい遊んでもらえるのをよく知っているのだ。
「このクソ犬!」
思わず、はしたない言葉が口から飛び出した。
あら、いやだ、わたしとしたことが、
慌てて口を右手で塞いだ。
んん、
「フランソワ~」
今度は甘~い声で呼びかけた。人間も犬もオスはすべてこの甘~い声に弱いのだ。
「フランソワ~~」
もっと甘~~い声で呼びかけた。すると、フランソワが姿を現した。尻尾を千切れるくらい振っていた。
単純な奴よ!
椙子は、ほくそ笑んだ。でも、それ以上は近寄ってこなかった。
もっと甘い声を出せっていうの?
なんというクソ、
んん……、
なんという頭のいい犬かしら。
自分が圧倒的に有利な立場にいることを知っているのね。
わかったわよ、あなたの期待に応えてあげるわよ。
椙子にとってこれ以上は考えられないというほど甘~~~い声で呼びかけた。
「フランソワ~~~」
すると、「ワン」とひと声吠えて、さっきより尻尾を振って、頭にボトムを被り、トップを口にくわえ、レオタードを前肢に引っ掛けたフランソワが近づいてきた。
「いい子ね~」
犬なで声で手招きをすると、フランソワが更に近寄ってきた。
もう少し……、
椙子はフランソワに向けて甘~いウインクをした。
その時だった。急に空が暗くなり、雲が飛ぶように走り始めた。
えっ?
何?
戸惑っていると、ゴ~という不気味な音が聞こえてきた。そして、この世のものとは思えない大きな塊が物凄いスピードで近づいてきた。
うそっ!
恐怖に襲われた。と同時に危険を感じた。
ヤバイ!
大きく息を吸ってプールの中に潜り、水中のパイプにしがみついた。水面を見上げると、黒い大きな塊が一気に通過していった。
ホッとしたのも束の間、今度は体の中から悲鳴が聞こえた。限界に達した肺が新鮮な空気を求めていた。慌てて水面に顔を出して胸いっぱいに吸い込んだ。すると、目に衝撃の光景が映った。ボトムを被ってトップをくわえ、レオタードを前肢に引っ掛けたフランソワが空に昇っていく姿が見えたのだ。
竜巻と共に去りぬ!
椙子は、あんぐりと口を開けた。



