一花にバケツを顎で示され、は、とも、え、とも取れない中途半端に掠れた声がこぼれた。

「い、いや、でも……」

「やりなって、ほら」

 きゅ、と水道をひねった小夏が水の波立つバケツを差し出してくる。
 思わず、床でうずくまる彼女を見やった。
 顔を伏せたまま小さく肩を震わせている。
 ぽた、ぽた、と髪の先から絶えず雫が垂れていた。

「早く」

 身体が動かなかった。
 足はその場に縫いつけられ、全身が凍りついたように硬直している。

 空気を読まなきゃ。
 わたしに求められていることは明白。やるべきことも分かっている。
 倫理観も正義感もわたしを守ってはくれない。
 正しいことよりも、空気を読むことの方が大事なんだって。
 でも────。

 次の瞬間、本当に身体が凍りついたかと思った。

「え……?」

 ぽた、ぽた、とわたしの髪やスカートの裾からも水が滴る。
 じっとりとブラウスが張りつき、雫が肌を伝っていった。

 水をかけられた。
 そう気づいてから、遅れてその衝撃が訪れる。

「あ、ごめーん。手が滑った」

 そう言ったのは一花だった。
 いつの間にかバケツは彼女の手に移っている。

「あんた、ノリ悪いからつまんなくて」

 小夏たちの低俗(ていぞく)な笑い声がこだまする。
 わたしは言葉を失い、信じられない思いで呆然と立ち尽くしていた。
 文字通り冷水を浴びせられ、思考も感情も追いついてこない。

 その隙にうずくまっていた女子生徒が立ち上がった。
 びしょ濡れのまま慌ただしくトイレから飛び出していく。

「あ、逃げたー。つまんな」

「解散解散」

 真穂が吐き捨てると、それぞれも白けたような雰囲気になった。
 ガシャン、と一花がバケツを放り捨てる。
 わたしなんてもはや見えていないかのように、一瞥(いちべつ)もくれないでみんな出ていってしまった。

「…………」

 先ほどとは打って変わって静寂が落ちていた。
 ふと、鏡を見る。
 そこには髪も制服も濡れそぼった、惨めな女子生徒がひとり映っていた。
 紛れもない自分自身。

 ヘアアイロンで30分かけて丁寧にセットした髪も、校則に引っかからない薄づきのリップも、ぜんぶ台無し。

 ばっかみたい。
 何してんの、わたし。

 洗面台の上できつく拳を握り締める。
 髪から滴った水が手の甲で弾けた。

(どうしろって言うの)

 あんなの、いじめの一歩手前だった。いや、いじめそのものだ。
 その一線を越えたら、今後何があったって自分自身を許せなくなる。

 あの子のためじゃない。
 守りたかったのはわたし。
 だけど、結果的に同じことだ。
 一花たちからの評価を下げてしまったことには変わりない。