「天沢」

 放課後、昇降口を出た瞬間に声をかけられた。
 もはや驚くことも意外に思うこともなく、追いついてきた速見くんを認める。

「なに?」

「あ、ごめん。これ」

 平然と応じてみせると、彼は古典のノートを差し出してきた。
 帰り際に教室で返そうとしたものの、わたしがすぐさま立ち上がったからタイミングを(いっ)したのだろう。
 それでわざわざ追いかけてくるなんて、本当に律儀な人だ。

「あ……もう写し終わったの?」

「うん、ばっちり。今日の数学の時間、何も聞かないで写した」

「今度は数学のノート貸してとか言うんじゃないの、それ」

「うそうそ、冗談だって」

 速見くんはいたずらっぽく笑った。
 今朝の気まずさも忘れたようなその態度に安心して、図らずも身構えていた心がほぐれる。

「古典さ、結構寝ちゃってて全然書けてなかったんだけど、天沢のノート本当に見やすくて助かった。ありがとう」

「全然いいよ、それくらい」

「じゃあ次の予約もしとこうかな」

「ちょっと。寝る気満々じゃん」

 軽口に笑って返すと、彼も楽しそうにまた笑う。
 教室でトランプをしていたときと変わらない様子に、ふと不思議に思った。
 わたしなんかと話していて退屈じゃないんだろうか。
 合わせてくれているだけ?
 そう思い至ると、何だか対等に顔を合わせているのも申し訳なくなってくる。

「じゃあ、わたし帰るね。ばいばい」

 慌てて切り上げ、背を向けた。
 早くその視界から逃れたかったのに、あろうことか「ちょっと待って」と呼び止められる。

「あのさ……何かあった?」

 音を立てた心臓がずしりと重たくなる。

「今日、ずっとひとりでいたみたいだから」

 意味が分からなかった。
 何でそのことを速見くんが気にしているのか。
 何で速見くんに心配されなきゃいけないのか。

 こういうとき、そんな些細なことに気づいてくれて嬉しいと思うものなんだろうか。
 わたしとしてはうっとうしい以外の何ものでもない。
 上から目線の同情ほど、図々しいものはないんだから。

「喧嘩でもしたとか」

「……ううん、別に大したことじゃないよ。どうして速見くんがそんなに気にするの?」

 努めて冷静に返すと、彼は何かをためらうように視線を彷徨わせた。
 すぐに意を決したらしくスマホを取り出す。

「聞いていいか迷ったけど、これって天沢だよね?」