席につく頃には教室内は元通り、朝のささやかな喧騒(けんそう)に包まれていた。
 そのうち千紘も隣の席に腰を下ろす。

 クラスメートたちの一見無関心を装った視線や囁くような噂話は、間違いなくわたしと彼に対するもの。
 いつまで続くか分からないけれど、怖くなんてなかった。
 根こそぎ払拭してやろう、信頼を取り戻そう、なんて必死にならなくても、ひとりじゃないと知っているだけですごく気持ちが軽い。心強い。

「おはよー」

 いつも通りの調子で教室に入ってきた辻くんは、それぞれ何人かと挨拶を交わしながらこちらへ近づいてきた。
 空いていた千紘の前の席を借り、わたしと彼それぞれにも「おはよ」と声をかけてくれる。

「やべ、もう来週テストだ……。ふたりとも勉強した?」

「まったく。誰かさんのせいでそれどころじゃなかったし」

 そう答えた千紘は、辻くんとわたしに一瞥(いちべつ)ずつくれた。

「え、まさかわたしのこと?」

「俺も含まれてる気がする」

「そう思うなら、そうなんじゃない?」

 頬杖をついていたずらっぽく口の端を持ち上げた千紘に、辻くんが「うわー」と声を上げる。

「ムカつく! すっかり人間界の住人になっちゃって。な、乙葉」

「うん、いまは間違いなく地上にいるよね」

「なに言ってんだよ」

 ふっと笑った彼につられて、わたしも辻くんも思わず笑ってしまう。
 本当、いままでどれだけの理想と幻想を肥大(ひだい)化させてきたんだろう。

「もう中身のない“いい人”はやめるって決めたんだ。笑いたくないときも無理に笑わない」

 ややあって穏やかながらきっぱりと告げられた言葉。
 それを聞いて、わたしは「うん」と頷いていた。

「千紘はそれがいいと思う」

「僕は、って何?」

 覚えのあるやり取りと彼の純粋な笑い声が、何だか嬉しくて楽しかった。

 誰かへの劣等感とか羨望とか妬みとか、そういう醜い感情は決してなくならない。
 わたしはそこまで器の大きい、できた人間じゃないから。
 でも、自分は自分。
 ぜんぶひっくるめてわたしという人間。

 そんな自分を、何だか昨日よりも少し許せた気がする。
 開き直ったことでむしろ張っていた気持ちが楽になったような感覚。
 価値も意義も、他人に左右されるべきじゃない。
 ほかでもないわたしの物語なんだから。

 どんな明日が来たって不思議と怖くない。
 わたしも“誰かさん”のお陰で、ひとりでも独りじゃないと信じられた。
 ────明日はもっと自分を好きになれる。
 いまは、そんな予感がしていた。



【完】