それはいつかのような憎まれ口でも、完璧な仮面に従った決め台詞でもない。
彼の心が紡いだ言葉だと、あたたかい響きから伝わってきた。
お陰で少し、素直になってしまう。
「ねぇ。わたしね、あんたには感謝してる」
ただの自己満足だったかもしれない。
もしくは、自分のためにわたしを犠牲にしようとしただけだったかも。
どっちだって構わない。
どっちにしても、彼が“自分”と向き合う機会を与えてくれた。
擦り切れたわたしの心は確かにそれで救われた。
「ありがとう……きっかけをくれて」
「……そんな大したもんじゃないよ、本当に。こっちこそ、あの日、乙葉と話せてよかった」
そんな言葉を耳に、扉の取っ手に指をかける。
そこで「あ」と振り向くと凜と見つめた。
「わたしも見捨てないから、千紘のこと」
思いのほかすんなりと口にできたその名前は、妙に馴染んで優しい響きをしていた。
彼は少し目を見張ったものの、茶化すことなく微笑みを和らげる。
完璧じゃなくたって、完全な“いい人”じゃなくたって、その存在が揺らぐわけじゃない。
速見くん、いや、千紘だったからこそわたしはこの選択をしたんだ。
扉を開ける。
その瞬間、水を打ったような静寂が落ちる。
好奇と不信感で突き刺さる視線、冷えきった教室。
(……分かってた、けど)
やっぱり足がすくむ。
だけど、いま踏み出さないとまた弱くてずるい自分の殻に閉じこもるだけ。
何も変われないまま、自分を嫌いになるだけ。
理解されたいわけじゃないけれど、自分の変化を諦めてしまうのとはわけがちがう。
わたしは思ったんだ。
一歩踏み出したい、って。
このままじゃ嫌だ。
覚悟を決めると、そっと息を吸う。
「おはよう」
重たい沈黙が続いていた。
品定めでもするかのような鋭い目。無言で反応を窺い合うぴりついた空気。
「…………」
……やっぱり、だめか。
一度爪弾きにされた羊が再び群れに受け入れられるような、都合のいい展開は訪れない。
結局当たって砕けたわけだけれど、骨を拾ってくれる人がいるということがせめてもの救いだ。
そう思って、うつむいたとき。
「おはよ」
「今日はいつもより遅かったね」
返ってきた言葉にはっと顔をもたげる。
亜里沙と杏だった。
何かが胸に込み上げてきて、思わず千紘を振り返る。
ただしっかりと頷いてくれた彼を認め、全身の強張りがほどけると同時に気づいたら破顔していた。
────現実は甘くないし、青春は苦い。
わたしたちは傷つき合い、傷つけ合い、もがきながら生きていく。
未完成で、痛みや矛盾に満ちているけれど愛しい日々を。
そこに綺麗ごとなんていらない。救われない嘘も、自分を苦しめる強がりも。


