「10歳年下だから君と同い年くらいだろう。今、東京に住んでいる。姓は高松ではない。両親が自殺したあとオフクロの妹に引き取られたから、その姓を名乗っている。徳島だ」

 えっ、徳島? 高知出身の高松さんの妹が徳島? 

 頭の中で糸がもつれて、こんがらがった。

「名前は〈えみ〉。絵が美しいと書く。両親の想いが詰まった名前だ。今は美術に関する仕事をしている。東京の美術館でキュレーターをしているんだ」

 キュレーターとは聞いたことのない言葉だったが、日本では学芸員と呼ばれていて、展覧会の企画や構成、運営などをする美術館の専門職だということを教えてくれた。

「妹に連絡を頼みたい。私が16世紀のフィレンツェに行って、もう二度と現実の世界に戻って来ないことを伝えて欲しい」

 しかし、わたしは即座に頭を振った。

「そんなことを言っても妹さんは信用しませんよ」

「大丈夫。私の妹だ。私のことをよく知っている。それに普通の女とは違う。あり得ないことでも理解することができる。だから大丈夫だ。ありのままを伝えて欲しい」

 確信に満ちた声だった。NOと言わせない強さがあった。すると、その強さが雲を蹴散らしたのか、月光が戻ってきた。

「それから、今まで貯めてきたお金や身の回りの物を妹に渡して欲しい」

 通帳やカードや印鑑をしまってある場所を告げられた。

「それと、部屋の中には私が描いた絵がいっぱい置いてあるから、それも妹に見てもらいたいんだ」

 それだけでなく、もし気に入ったものがあれば、1枚くれるという。

「引き受けてくれないか。妹の電話番号と私の住所と鍵を隠してある場所を書くから、それを預かって欲しい」

 ポケットから紙と黒チョークを取り出して、平らな石の上でそれらを書いた。そして、それを四つ折りにして差し出した。しかし、受け取らなかった。

「それを受け取ったら、電車に乗ることができません」

 未来へ行った松山さんの新聞のことを思い出していた。そのことを高松さんに詳しく伝えた。

「情報漏洩(ろうえい)と判断されたら乗れなくなるんです」

「でも、それは未来の情報を悪用しようとしたからだろう。これは違うよ。現在の情報を現在に持っていくだけなんだから」

 彼は折り畳んだ紙を押し付けたが、再び拒んだ。

「わたしも人間です。出来心で高松さんの貯金を奪うかもしれません。そうなると意味が変わってきます。過去で得た情報を悪用したことになるのです」

 言い終わると同時に彼が反論した。

「今仁君は貯金を奪ったりしない。そんなこと1ミリだって考えていないだろ」

 信用しているというようにわたしを見つめて、両肩を強く掴んだ。

「まあ、そうですけど。そんなことは絶対しないですけど。でも……」

 困り顔になっているであろうわたしをじっと見ていた高松さんが、小さく頷いた。

「わかった。君の危惧を否定するのは止める。慎重には慎重を期して、最悪のケースを想定した上で事に当たることにしよう。確かに、情報漏洩の疑いを回避するためには何も持たないのが一番だ」

 自らを納得させるようにまた頷いて、折り畳んだ紙をポケットにしまった。

「妹の名前は徳島絵美。東京の美術館でキュレーターをしている。この情報だけを持って帰ってくれ。それ以外は現実の世界に戻ってから君が探し当ててくれ」

 妹さんの連絡先も高松さんの住所も鍵の隠し場所も自力で探せという。

 一瞬、躊躇ったが、高松さんの手がわたしの両肩を強く掴んで「頼む!」と言った瞬間、「わかりました」と返事をしていた。この状況で断る事なんてできなかった。

「ありがとう」

 高松さんの両手から一気に力が抜け、両肩から手が離れた。もう話すことは何もないというように目を瞑って、頷いた。すると、別れを促すように雲が月にかかって薄暗くなった。

 わたしは彼の顔を見つめた。もう二度と会えなくなるかもしれない彼の顔をしっかりとこの目に焼き付けておきたかった。しかし、いつまでもそうしているわけにもいかず、「では、そろそろ行きます」と別れを告げ、電車に乗るために背を向けた。
 すると、「見送るよ」という声が聞こえて、高松さんが追いかけてきた。立ち止まったわたしはもう一度彼の顔を見つめたが、そのあとは無言で並んで歩いた。

        *

 少し行くと、城壁が見えた。フィレンツェの町を取り囲んで外敵の侵入を防御している城壁だった。わたしがその前に立つと、地下へと通じる通路が開いた。

「お元気で」

「君もな」

 僅かな月光の中、固い握手を交わして高松さんと別れた。背中に彼の視線を感じながら通路を下りて行った。

 改札口の直前で振り返って上を見た。高松さんが手を振っていた。わたしも振り返した。これで最後だと思うと、なんだかとても切なくなった。それでも、いつまでも感傷に浸っているわけにはいかないので、モニターの前に立った。〈情報漏洩〉という文字は現れなかった。その後、〈本人確認終了〉の表示が出たので改札を抜けることができた。これでなんとか帰れそうだと思うとほっとしたが、心残りがわたしを振り返らせた。
 しかし、地上へ通じる通路はどこにも見当たらなかった。その瞬間、〈永遠の別れ〉という言葉が頭に浮かんだ。一気に体が鉛のように重くなった。いや、それは体だけではなかった。心はそれ以上に重かった。でも、どうしようもなかった。もう後戻りはできないのだ。わたしは電車が待つプラットホームに向けて歩き出した。

 電車に乗り込もうとステップに足をかけた時、また未練がわたしを振り返らせた。しかし、改札口も消えていた。それは乗客が一人だけだということを知らしめるようだった。

 高松さん……、

 席に座って呟きを投げたが、彼の顔が窓に浮かび上がってくることはなかった。