第9話_縁を結び、縁を断つ
陰陽寮の表門に、二度目の臨検の列が見えた。前列に女官長・桂江、後ろに役人と衛士、さらに書記局の若い書記たちが書板を抱えて続く。白梅の香が風に乗り、扇の骨が乾いて鳴った。
「出入口の管理、開始します」
咲凪は門柱に手を当て、深く息を整えた。簪は髪に、狐火の指輪は袖の内。明日美が木札を抱えて駆け寄り、事務的に告げる。
「札は三枚。“持入り”“持出し”“通過のみ”。色で分けます。――赤は“持入り”、青は“持出し”、白は“通過”。順路は左から右。掲示は頭上ではなく目線の高さ」
「了解」
大希が門の外に回り、来訪者へ最初の声をかける。
「おれ、橋は苦手で膝が笑う。だから、階段より平らな道を案内する。――臨検は左、用事は右」
弱みの先出しが、列の棘を丸くする。春奈は板卓の上で「入口票→通過→出口票」の矢印を太く描き、対立しそうな言葉は要約だけに削いだ。
桂江が門前に立ち、扇を半ば開いて微笑む。
「臨検の再手続きよ。門を開けて」
咲凪は一歩、前へ出て会釈した。
「門は“開けます”。ただし、“通す”のは順序だけです」
彼女は懐から誓紙の写し――白狐の透かしの薄葉――を出し、門柱の内側、高さ胸の位置に貼った。薄葉が光を返す。
〈誓:虚偽を禁ず/危険時は呼ぶ/自ら歩く〉
「本門の“鍵”はこの誓いに合わせます。――虚偽の申告は、ここで止まります」
翔が門外へ半歩出て、衛士の先頭と目線を合わせた。
「列を二本に。臨検は左、通常は右。――そして、すべての人に“礼”を先に」
短い言葉のあと、「助かる」を衛士と書記それぞれへ置いていく。ほんの一言が、硬い列の歯車を噛み合わせた。
「入口票を」
咲凪が手を差し出すと、桂江の供が巻紙を出した。“再臨検理由・携行物・持出制限”。明日美は一読し、角を揃えて朱で「受領」を押す。
「では“持入り”の列は赤。封蝋箱はこちら。香墨と朱印もこちらで預かり、必要時に返却」
「預かる?」
供が顔をしかめる。桂江は扇を下ろし、薄く微笑んだ。
「預かり札を発行するのね」
「はい。――“預かり”はあなた方を守る札でもあります。失くしたとき、虚偽を疑われないために」
明日美が即座に朱の小札を書き、供に渡した。供は渋々うなずき、箱を卓へ置く。
その頃、門の右列――“通過のみ”の列――に人の痞えが生まれた。裕斗が桶を抱えたまま先頭で立ち尽くす。
「す、すまん、俺が塞いでた」
「三歩下がって。桶は二つに。角度が敵です」
咲凪の合図に、翔が腕を軽く添えて桶を半身分だけずらす。水の重さが分散し、列がすっと流れた。裕斗はすぐに頭を下げる。
「悪い。次は先に聞く」
彼の率直な謝罪に、後ろの書記が緊張をほどいて微笑んだ。
「臨検、開始」
桂江の合図で、供が書庫へ向けて踏み入ろうとする。
咲凪は木札を掲げ、門のしきいに立った。
「“持入り”赤札の方は――門の内側で“香の筋”を確認します」
薄布の端を指先で撫で、白檀と油の層を嗅ぎ分ける。層が逆なら“外で調整”。順なら“内へ”。判定は三呼吸。
供のひとりが焦れて前へ出た。
「急げ。女官長を待たせるな」
「急ぐのは“虚偽”です。――手は早く、判は正確に」
咲凪は淡々と返し、春奈が「判の順」を一行で示す。〈入口票→香確認→預かり札→通過〉。
門の梁に、狐火が小さく灯った。翔が上を見上げるふりで、梁の欠けを指の腹で撫で、落ちかけた木片を外す。
「頭上、危険。――下働き、感謝する」
礼がまた一つ置かれ、人の肩の力が抜ける。
「では、私から」
桂江が一歩進み、扇を畳んで赤札を受け取った。咲凪はわずかに会釈し、薄布を桂江の袖の縁へ一度だけ触れさせる。白梅の香、その底に微かな油の点――しかし層は正しい。
「通過、白」
札が返され、桂江は微笑んで敷居を越えた。背後の供が続こうとしたとき、咲凪は静かに手を上げる。
「次の方――“持入り”の封蝋箱、蓋に“南東の欠け”。――この印、昨夜“補修”されていますね」
供がびくりと肩を揺らす。明日美が補修痕の位置に小印を置き、朱で丸を打つ。
「補修印、“外で”再封。――内では開けません」
「なんだと」
「ここは“誓い”の門です。――虚偽は通さない」
門柱の誓紙が微かに光り、狐火の指輪が咲凪の袖で熱を帯びた。
列の後方でざわめき。大希が間に入り、弱みの笑みで声を抑える。
「高い声、苦手だ。俺の耳が驚く。――順番に、ゆっくり」
徒労感の色が薄れ、声は音階を下げた。春奈は要約紙の“騒擾の芽”の欄を一本線で消し、〈抑制=弱み先出〉と細注を添える。
「門の“鍵”は二つ」
咲凪は桂江へ向き直り、短く告げた。
「ひとつは“人の列”。もうひとつは“紙の列”。――どちらも、結ぶ手で管理します」
桂江は睫を伏せ、笑いを唇だけに残した。
「なら、私は“鍵穴”の形を変えるわ」
扇が一度、乾いて鳴る。供の一人が巻紙を掲げた。
「上申書。“緊急捜索の権限拡張”。――女官長権限により、門内での“即時押収”を許す」
空気が一段冷える。
明日美が巻紙を受け、三語で読み砕く。
「『緊急拡張・押収可・臨検優先』。――ただし、小字で『公事所印の併押必要』」
「併押?」
供が目を見張る。春奈は要約紙へ、“小字条件=公事所印”と太字で追記した。
咲凪は誓紙の写しを門柱から外し、角をぴたりと上申書に合わせた。
「“併押”が無ければ、権限は“虚”。――門は“虚偽”を通しません」
桂江の視線が一瞬だけ尖り、すぐ鈍く光に戻る。
「なら、印を連れてくるまで“待つ”のね?」
「はい。“通過”と“通常”は流します。――臨検の“持入り”は、印の併押が来るまで赤札で足止め」
門前の列は、赤・白・青の札で三層に分かれ、痞えの位置が目で分かる。翔は赤列の先頭に向かい、低く告げた。
陰陽寮の表門に、二度目の臨検の列が見えた。前列に女官長・桂江、後ろに役人と衛士、さらに書記局の若い書記たちが書板を抱えて続く。白梅の香が風に乗り、扇の骨が乾いて鳴った。
「出入口の管理、開始します」
咲凪は門柱に手を当て、深く息を整えた。簪は髪に、狐火の指輪は袖の内。明日美が木札を抱えて駆け寄り、事務的に告げる。
「札は三枚。“持入り”“持出し”“通過のみ”。色で分けます。――赤は“持入り”、青は“持出し”、白は“通過”。順路は左から右。掲示は頭上ではなく目線の高さ」
「了解」
大希が門の外に回り、来訪者へ最初の声をかける。
「おれ、橋は苦手で膝が笑う。だから、階段より平らな道を案内する。――臨検は左、用事は右」
弱みの先出しが、列の棘を丸くする。春奈は板卓の上で「入口票→通過→出口票」の矢印を太く描き、対立しそうな言葉は要約だけに削いだ。
桂江が門前に立ち、扇を半ば開いて微笑む。
「臨検の再手続きよ。門を開けて」
咲凪は一歩、前へ出て会釈した。
「門は“開けます”。ただし、“通す”のは順序だけです」
彼女は懐から誓紙の写し――白狐の透かしの薄葉――を出し、門柱の内側、高さ胸の位置に貼った。薄葉が光を返す。
〈誓:虚偽を禁ず/危険時は呼ぶ/自ら歩く〉
「本門の“鍵”はこの誓いに合わせます。――虚偽の申告は、ここで止まります」
翔が門外へ半歩出て、衛士の先頭と目線を合わせた。
「列を二本に。臨検は左、通常は右。――そして、すべての人に“礼”を先に」
短い言葉のあと、「助かる」を衛士と書記それぞれへ置いていく。ほんの一言が、硬い列の歯車を噛み合わせた。
「入口票を」
咲凪が手を差し出すと、桂江の供が巻紙を出した。“再臨検理由・携行物・持出制限”。明日美は一読し、角を揃えて朱で「受領」を押す。
「では“持入り”の列は赤。封蝋箱はこちら。香墨と朱印もこちらで預かり、必要時に返却」
「預かる?」
供が顔をしかめる。桂江は扇を下ろし、薄く微笑んだ。
「預かり札を発行するのね」
「はい。――“預かり”はあなた方を守る札でもあります。失くしたとき、虚偽を疑われないために」
明日美が即座に朱の小札を書き、供に渡した。供は渋々うなずき、箱を卓へ置く。
その頃、門の右列――“通過のみ”の列――に人の痞えが生まれた。裕斗が桶を抱えたまま先頭で立ち尽くす。
「す、すまん、俺が塞いでた」
「三歩下がって。桶は二つに。角度が敵です」
咲凪の合図に、翔が腕を軽く添えて桶を半身分だけずらす。水の重さが分散し、列がすっと流れた。裕斗はすぐに頭を下げる。
「悪い。次は先に聞く」
彼の率直な謝罪に、後ろの書記が緊張をほどいて微笑んだ。
「臨検、開始」
桂江の合図で、供が書庫へ向けて踏み入ろうとする。
咲凪は木札を掲げ、門のしきいに立った。
「“持入り”赤札の方は――門の内側で“香の筋”を確認します」
薄布の端を指先で撫で、白檀と油の層を嗅ぎ分ける。層が逆なら“外で調整”。順なら“内へ”。判定は三呼吸。
供のひとりが焦れて前へ出た。
「急げ。女官長を待たせるな」
「急ぐのは“虚偽”です。――手は早く、判は正確に」
咲凪は淡々と返し、春奈が「判の順」を一行で示す。〈入口票→香確認→預かり札→通過〉。
門の梁に、狐火が小さく灯った。翔が上を見上げるふりで、梁の欠けを指の腹で撫で、落ちかけた木片を外す。
「頭上、危険。――下働き、感謝する」
礼がまた一つ置かれ、人の肩の力が抜ける。
「では、私から」
桂江が一歩進み、扇を畳んで赤札を受け取った。咲凪はわずかに会釈し、薄布を桂江の袖の縁へ一度だけ触れさせる。白梅の香、その底に微かな油の点――しかし層は正しい。
「通過、白」
札が返され、桂江は微笑んで敷居を越えた。背後の供が続こうとしたとき、咲凪は静かに手を上げる。
「次の方――“持入り”の封蝋箱、蓋に“南東の欠け”。――この印、昨夜“補修”されていますね」
供がびくりと肩を揺らす。明日美が補修痕の位置に小印を置き、朱で丸を打つ。
「補修印、“外で”再封。――内では開けません」
「なんだと」
「ここは“誓い”の門です。――虚偽は通さない」
門柱の誓紙が微かに光り、狐火の指輪が咲凪の袖で熱を帯びた。
列の後方でざわめき。大希が間に入り、弱みの笑みで声を抑える。
「高い声、苦手だ。俺の耳が驚く。――順番に、ゆっくり」
徒労感の色が薄れ、声は音階を下げた。春奈は要約紙の“騒擾の芽”の欄を一本線で消し、〈抑制=弱み先出〉と細注を添える。
「門の“鍵”は二つ」
咲凪は桂江へ向き直り、短く告げた。
「ひとつは“人の列”。もうひとつは“紙の列”。――どちらも、結ぶ手で管理します」
桂江は睫を伏せ、笑いを唇だけに残した。
「なら、私は“鍵穴”の形を変えるわ」
扇が一度、乾いて鳴る。供の一人が巻紙を掲げた。
「上申書。“緊急捜索の権限拡張”。――女官長権限により、門内での“即時押収”を許す」
空気が一段冷える。
明日美が巻紙を受け、三語で読み砕く。
「『緊急拡張・押収可・臨検優先』。――ただし、小字で『公事所印の併押必要』」
「併押?」
供が目を見張る。春奈は要約紙へ、“小字条件=公事所印”と太字で追記した。
咲凪は誓紙の写しを門柱から外し、角をぴたりと上申書に合わせた。
「“併押”が無ければ、権限は“虚”。――門は“虚偽”を通しません」
桂江の視線が一瞬だけ尖り、すぐ鈍く光に戻る。
「なら、印を連れてくるまで“待つ”のね?」
「はい。“通過”と“通常”は流します。――臨検の“持入り”は、印の併押が来るまで赤札で足止め」
門前の列は、赤・白・青の札で三層に分かれ、痞えの位置が目で分かる。翔は赤列の先頭に向かい、低く告げた。



