第8話_黒墨の手紙
その夜、陰陽寮の書庫は雨の名残りを吸い込んだ紙の匂いで満ちていた。刻は戌の終い。灯は二つ。入口の脇に火除けの水瓶、中央に結界札の棚、奥に焼却用の灰壺。春奈は机の前に座し、両の袖を整えてから一枚の紙の前で手を止めた。紙は半ば炭になり、墨の筋が逆に浮く――燃え残り。
戸口で咲凪が草履を脱ぎ、静かに一礼して入る。簪は髪に、狐火の指輪は袖の内で脈をひそめる。
「お邪魔します。――呼ばれました」
春奈は頷き、紙片を灰壺の縁から持ち上げた。指先の癖は、燃やす所作をよく知っている。だが今夜は燃やさない。
「黒墨で書かれた手紙。焼いたのに、墨の層が残った。……私が、焼いた」
告白は小さな声だった。責めず、咲凪は水瓶の傍へ歩み、懐紙二枚を湿らせる。
「反転写をします。墨は炭で、炭は水で浮きます。――入口は“筆圧の深いところ”」
机の上に白紙を置き、湿らせた懐紙で炭化面をそっと押える。押しては離し、離しては押す。筆圧の深い溝に水が入り、黒が反転して薄い線になる。
「『明朝、書記局の印を借る。封は白梅。欠けは南東』」
春奈が読み上げ、唇を噛む。
「差出の名はない。――でも、文の癖は桂江様の机の側で見た“届け出書式”に似てる」
「名前がなくても、入口は“言い回し”で作れます」
咲凪は反転写を続ける。次の行が浮いた。
「『面改め 香の層 逆に仕立てること』」
春奈の肩がわずかに震えた。
「責めません」
咲凪は言い、湿りの少ない懐紙に替えた。
「焼きたい夜は、誰にもあります。――ここでは、焼きたくなるものを“要点”に置き換えるだけ」
春奈は目を閉じ、一呼吸で開く。
「要点は三つ。“印を借りる”“白梅の封”“層を逆に”。落とし所は、『書記局の“落款室”で印の貸し出し記録を確かめる』」
言い切ると、震えは止まった。
そのとき、書庫の入口で足音がふっと消えた。陰陽寮の夜番が戸の外でこちらの気配を伺っている。大希が戸を半分だけ開け、顔をのぞかせた。
「ごめん。……おれ、橋は苦手で足が遅い。でも、衛士詰所から“夜間記帳の側注”、もう一枚もらえた」
差し出された紙には、子の二つ――“堂上家の家令、封蝋室付近にて往来”とある。癖のない字。記録の匂い。
「助かります。入口は増えるほど、出口が太ります」
咲凪は反転写の紙束に側注を重ね、簪の歯で仮の結び目を作った。解けやすく、落ちない結び。
「春奈」
咲凪は呼び、視線を机の引き出しへ移す。
「あなたの机に“黒墨”があるはず。――今夜は燃やさず、使う」
春奈は黙って頷き、黒墨の小箱を出した。墨の色は深く、磨けば香が立つ。
「『反転写文(仮)』を清書して、私とあなたの名で持ち出し票を。目的は“書記局落款室の実地検分”。見張りに出す係は、あなたが“取りまとめ”の権で選ぶ。対立の意見は要約だけ。感情語は削ぐ」
春奈は短く笑い、筆を運ぶ。
「意見の要約は得意」
その言葉の後ろで、彼女の影が一瞬だけ濃くなる。黒墨の夜は、心の闇を映す。それでも、筆はまっすぐだった。
雨脚が戻るように、廊下の先で扇の骨が乾いて鳴る。白梅の香。桂江の気配は寮の反対側――それでも、机の木目がわずかに冷たくなる。
「来る前に、動線を作ります」
咲凪は書庫の棚の並びを一つずつ変え、入口から奥へ“一列通路”を作った。人の流れを一本にすれば、紙の出入りも一本になる。
「裕斗さん、火除けの水を“ここ”へ。倒れにくい角度で」
「お、おう」
彼は強い手付きで水瓶を持ち上げ、しかし角で滑りかける。咲凪が即座に足の置き場を指で示し、翔が瓶の底を軽く支えた。
「三歩下がれ。濡れた板は角度が敵だ」
「……悪い」
裕斗はすぐに頭を下げる。失敗を隠さない、その速さが場を守る。
反転写の最後の一行が浮いた。
「『堂上家 景虎 名は出すな』」
春奈の喉がわずかに鳴る。咲凪は頷き、筆先で行末に小さな印を付けた。
「“名を出すな”は、逆に名の存在を示します。――入口に『沈黙』を置く」
明日美が駆け込んできて、息を整えながら合図をした。
「公事所、明朝“香司立会いの照合”を許可。順番は三番。――今夜のうちに『持ち込み票』を二枚作って」
「はい。入口票、二」
春奈は黒墨で票をしたため、角を揃えて朱の小印で留めた。黒と朱の対照が、夜に輪郭を与える。
「翔」
咲凪は視線で合図を送り、誓紙の写しを机の端に置いた。
「三つの約束のうち、一つ目――危険時は呼ぶ。今夜、呼びます」
「ここに」
翔は答え、灯の位置を半手分だけずらして影を浅くした。
「俺は“断つ”。入り込もうとする虚偽の手を、外側で切る。君たちは“結ぶ”。入口票と反転写で」
書庫の戸が外から二度、指で叩かれた。合図の回数は“味方”。大希が戸を引き、衛士詰所の若者を通す。
「香司から伝言。“反転写文、朝一で香座敷へ”。――それと、これ」
差し出されたのは、封蝋室で使う薄布の切れ端。油が染み、白檀の筋が浅く乗っている。
「入口、もう一つ」
咲凪は受け取り、懐紙に包んだ。結び目は小さく、しかし解けやすく。必要な時にだけほどき、証として出せるように。
「春奈さん」
咲凪は紙束を指で整えながら、真正面から呼んだ。
「責めません。――ただ、任せます。あなたにしかまとめられない“両派の言い分”があります」
春奈は胸の前で筆を握り、ゆっくりと頷いた。
「まとめます。『混ぜ物はあった/なかった』――主張の骨だけを。闇は、別の紙に移す」
黒墨の箱の蓋が静かに閉じられ、灯の火が一度だけ揺れた。
その時、廊下の向こうから白梅の香が濃くなり、扇の骨が近づく音がした。桂江だ。
「来る」
翔の声は低く、短い。咲凪は簪で紙紐の結び目をひとつだけ締め、入口から奥への“一列通路”に自分の体を斜めに置いた。
その夜、陰陽寮の書庫は雨の名残りを吸い込んだ紙の匂いで満ちていた。刻は戌の終い。灯は二つ。入口の脇に火除けの水瓶、中央に結界札の棚、奥に焼却用の灰壺。春奈は机の前に座し、両の袖を整えてから一枚の紙の前で手を止めた。紙は半ば炭になり、墨の筋が逆に浮く――燃え残り。
戸口で咲凪が草履を脱ぎ、静かに一礼して入る。簪は髪に、狐火の指輪は袖の内で脈をひそめる。
「お邪魔します。――呼ばれました」
春奈は頷き、紙片を灰壺の縁から持ち上げた。指先の癖は、燃やす所作をよく知っている。だが今夜は燃やさない。
「黒墨で書かれた手紙。焼いたのに、墨の層が残った。……私が、焼いた」
告白は小さな声だった。責めず、咲凪は水瓶の傍へ歩み、懐紙二枚を湿らせる。
「反転写をします。墨は炭で、炭は水で浮きます。――入口は“筆圧の深いところ”」
机の上に白紙を置き、湿らせた懐紙で炭化面をそっと押える。押しては離し、離しては押す。筆圧の深い溝に水が入り、黒が反転して薄い線になる。
「『明朝、書記局の印を借る。封は白梅。欠けは南東』」
春奈が読み上げ、唇を噛む。
「差出の名はない。――でも、文の癖は桂江様の机の側で見た“届け出書式”に似てる」
「名前がなくても、入口は“言い回し”で作れます」
咲凪は反転写を続ける。次の行が浮いた。
「『面改め 香の層 逆に仕立てること』」
春奈の肩がわずかに震えた。
「責めません」
咲凪は言い、湿りの少ない懐紙に替えた。
「焼きたい夜は、誰にもあります。――ここでは、焼きたくなるものを“要点”に置き換えるだけ」
春奈は目を閉じ、一呼吸で開く。
「要点は三つ。“印を借りる”“白梅の封”“層を逆に”。落とし所は、『書記局の“落款室”で印の貸し出し記録を確かめる』」
言い切ると、震えは止まった。
そのとき、書庫の入口で足音がふっと消えた。陰陽寮の夜番が戸の外でこちらの気配を伺っている。大希が戸を半分だけ開け、顔をのぞかせた。
「ごめん。……おれ、橋は苦手で足が遅い。でも、衛士詰所から“夜間記帳の側注”、もう一枚もらえた」
差し出された紙には、子の二つ――“堂上家の家令、封蝋室付近にて往来”とある。癖のない字。記録の匂い。
「助かります。入口は増えるほど、出口が太ります」
咲凪は反転写の紙束に側注を重ね、簪の歯で仮の結び目を作った。解けやすく、落ちない結び。
「春奈」
咲凪は呼び、視線を机の引き出しへ移す。
「あなたの机に“黒墨”があるはず。――今夜は燃やさず、使う」
春奈は黙って頷き、黒墨の小箱を出した。墨の色は深く、磨けば香が立つ。
「『反転写文(仮)』を清書して、私とあなたの名で持ち出し票を。目的は“書記局落款室の実地検分”。見張りに出す係は、あなたが“取りまとめ”の権で選ぶ。対立の意見は要約だけ。感情語は削ぐ」
春奈は短く笑い、筆を運ぶ。
「意見の要約は得意」
その言葉の後ろで、彼女の影が一瞬だけ濃くなる。黒墨の夜は、心の闇を映す。それでも、筆はまっすぐだった。
雨脚が戻るように、廊下の先で扇の骨が乾いて鳴る。白梅の香。桂江の気配は寮の反対側――それでも、机の木目がわずかに冷たくなる。
「来る前に、動線を作ります」
咲凪は書庫の棚の並びを一つずつ変え、入口から奥へ“一列通路”を作った。人の流れを一本にすれば、紙の出入りも一本になる。
「裕斗さん、火除けの水を“ここ”へ。倒れにくい角度で」
「お、おう」
彼は強い手付きで水瓶を持ち上げ、しかし角で滑りかける。咲凪が即座に足の置き場を指で示し、翔が瓶の底を軽く支えた。
「三歩下がれ。濡れた板は角度が敵だ」
「……悪い」
裕斗はすぐに頭を下げる。失敗を隠さない、その速さが場を守る。
反転写の最後の一行が浮いた。
「『堂上家 景虎 名は出すな』」
春奈の喉がわずかに鳴る。咲凪は頷き、筆先で行末に小さな印を付けた。
「“名を出すな”は、逆に名の存在を示します。――入口に『沈黙』を置く」
明日美が駆け込んできて、息を整えながら合図をした。
「公事所、明朝“香司立会いの照合”を許可。順番は三番。――今夜のうちに『持ち込み票』を二枚作って」
「はい。入口票、二」
春奈は黒墨で票をしたため、角を揃えて朱の小印で留めた。黒と朱の対照が、夜に輪郭を与える。
「翔」
咲凪は視線で合図を送り、誓紙の写しを机の端に置いた。
「三つの約束のうち、一つ目――危険時は呼ぶ。今夜、呼びます」
「ここに」
翔は答え、灯の位置を半手分だけずらして影を浅くした。
「俺は“断つ”。入り込もうとする虚偽の手を、外側で切る。君たちは“結ぶ”。入口票と反転写で」
書庫の戸が外から二度、指で叩かれた。合図の回数は“味方”。大希が戸を引き、衛士詰所の若者を通す。
「香司から伝言。“反転写文、朝一で香座敷へ”。――それと、これ」
差し出されたのは、封蝋室で使う薄布の切れ端。油が染み、白檀の筋が浅く乗っている。
「入口、もう一つ」
咲凪は受け取り、懐紙に包んだ。結び目は小さく、しかし解けやすく。必要な時にだけほどき、証として出せるように。
「春奈さん」
咲凪は紙束を指で整えながら、真正面から呼んだ。
「責めません。――ただ、任せます。あなたにしかまとめられない“両派の言い分”があります」
春奈は胸の前で筆を握り、ゆっくりと頷いた。
「まとめます。『混ぜ物はあった/なかった』――主張の骨だけを。闇は、別の紙に移す」
黒墨の箱の蓋が静かに閉じられ、灯の火が一度だけ揺れた。
その時、廊下の向こうから白梅の香が濃くなり、扇の骨が近づく音がした。桂江だ。
「来る」
翔の声は低く、短い。咲凪は簪で紙紐の結び目をひとつだけ締め、入口から奥への“一列通路”に自分の体を斜めに置いた。



