第7話_朝餉の席の宣戦
卯の初め、榊屋の広間は白布の道と朝餉の香で満ちていた。卓には麦粥と漬物、湯気の立つ薄茶。座席は二列、客と家人を分ける札が明日美の手で等間に置かれている。入口では大希が笑みを浮かべ、来客の目をまっすぐ受けて短く言った。
  「おれ、橋は苦手で……高い所は膝が笑う。でも口は回る。席はこちらです」
  弱みを先に晒すその一言が、堅い客の肩をわずかにほぐす。春奈は脇で来意と所属を二語でまとめ、紙片に並べていく。目的は明快――堂上家・景虎からの再縁談の公開申入れ、それへの公開質問だ。
  刻が卯の半ばに達したとき、玄関に白檀の芯が差した。景虎が裾を払って上がり、左右に供回りが控える。袍の光沢は強く、目だけが乾いている。
  「榊屋の咲凪。――昨夜の非礼を詫びるとともに、家の名誉のため、再び縁を結ぶ申し入れをする」
  言葉は整っている。だが、卓の端に置かれた懐紙に封蝋油の筋が薄く写り、今朝もなお“混ぜ物”が手元にあることを告げていた。
  「お受けします。公開の場でのご申入れ。――ですので、公開の質問でお返しします」
  咲凪は静かに座を正し、白布の上に三枚の紙を並べた。順序は入口から出口へ。
  第一――調達帳の写し(入荷時刻と数量)。
  第二――昨夜の面改め記録(香の層の逆転三か所)。
  第三――衛士詰所の側注(“巡り一人増”と“堂上家の使い、公事所へ口添え”)。
  「質問は三つ。すべてYesかNoでお答えください。補足は後ほど春奈さんが要約に入れます」
  春奈が短く頷き、要約紙の余白に三つの欄を作る。
  「第一問。――堂上家の倉より“封蝋油”が出たのは、昨夜の亥の半ば以前(御所の面改めの前)ですか?」
  景虎の目が一度、左へ泳ぐ。袖の中で指が扇の骨を探し、見つからず、卓の縁をつまんだ。
  「……知らぬ」
  「Yes/Noで」
  「……No だ」
  春奈が“Q1:No”と書き入れ、(時刻矛盾の芽)と括弧を添える。
  「第二問。――昨夜、御所の回廊にて“白檀の香に封蝋油が混じる層の逆転”が三か所確認されました。うち一か所は女官長執務室の扉縁。堂上家の者がその回廊を通りましたか?」
  景虎は唇の端を上げた。
  「通った者もあろう。御所と堂上家の往来は珍しくない」
  「Yes/Noで」
  「Yes だ」
  春奈が“Q2:Yes(往来は認める)”と記し、矢印で“回廊経路”へ結ぶ。
  「第三問。――本件“再縁談”の申入れは、昨日の午の刻以前に文で示されています。ですが同日、堂上家の使いが“公事所へ口添え”した記録が衛士詰所に残っています。これは、縁談と並行して『榊屋の提出書類の扱い』に干渉した事実ですか?」
  景虎の顎がわずかに反り、白檀の芯が強まる。
  「家の体面を守るための挨拶だ。干渉ではない」
  「Yes/Noで」
  沈黙が一拍。供回りの一人が前に出かけたところで、翔が卓に軽く手を置いた。
  「ここは“言の順”。妨げるな」
  声は柔らかく、しかし動きを止める芯があった。翔はついでに下働きへ目を向け、「湯を頼む」と一言置く。礼に動く手が増え、広間の空気は暴れずに冷える。
  「……No だ」
  春奈の筆が“Q3:No(干渉ではないと言う)”と走り、横に小さく(側注:口添え記録あり)と併記された。
  咲凪は頷き、紙の順序を一段進める。
  「ありがとうございます。――では『矛盾』を一つずつ確認します。Q1 で『油の搬出時刻は面改めの前ではない』、Q2 で『回廊往来はYes』。にもかかわらず、回廊の三点で“層の逆転”が確認されました。混ぜ物が“慣れぬ手”でなされた痕跡です。Q3 で『口添えは干渉ではない』とされましたが、側注には“榊屋の提出、審査順の前倒しについて言及”とあります。――この三点が同時に真なら、御家は“知らずに”“偶然に”“前倒しの恩恵”を受けながら、“回廊の混ぜ物”と“面改めの混乱”に接したことになります。Yes/Noでお答えください。『それは合理的ですか』」
  景虎の喉仏が動く。沈黙。扇の骨の代わりに、指が卓布の縁を撫でる。
  「……合理かどうかは、貴様が決めることではない」
  「では、数字にしましょう」
  咲凪は調達帳の写しを立て、入荷の行に小片の札を挿した。
  「封蝋油の在庫は“未刻に減、申の終いに補充”。面改めは酉。御所回廊の折り返しは、衛士の側注で“雨中の巡り増”が子の初め。――“減→往来→混ぜ物→増→面改め”。順序はこうです」
  春奈が図解を一行で添え、明日美が紙束の角を揃える。
  卓の向こうで、綾女がわざと扇を鳴らした。
  「まあ、朝から難しいお話。皆さま、まずはお食事を」
  水を差す声。だが翔は椀を客の前へ進めながら、下働きに笑いを向けた。
  「支度が早い。助かる」
  労いが二つ置かれ、場の緊張が暴走せずに沈む。
  「景虎様」
  咲凪は視線を外さぬまま、短く呼んだ。
  「再縁談の条件を、公開の紙に落とします。第一、『虚偽が混じらぬこと』。第二、『商いの条項と婚姻を混ぜないこと』。第三、『御家の者が“口添え”で公事所の順を動かさぬこと』。Yes/Noで」
  景虎は笑った。
  「紙がそんなに強いのか」
  「はい。紙は“ほどける結び”です。――暴力と違い、解いて見せられる」
  沈黙。やがて景虎は、唇の笑みだけを残して肩をすくめた。
  「第一と第二は、よかろう。第三は……家の習いがある」
 「No ですね」
  春奈の筆が“条件③:No(家の習い)”と記した瞬間、広間の隅で大希が手を挙げた。
  「衛士詰所から、朝一で“添え書き”が増えた。『昨夜、堂上家の家令、封蝋室近くで往来』」
  弱みを先に開示してから手渡される紙は、相手の警戒を軽くする。追加情報は矢のように鋭くはないが、麻紐のように絡んで効く。
  景虎の視線が細くなる。
  「家令がどうした」
  「御家の“口添え”と“封蝋室の往来”が隣り合った記録です。