第6話_嫁入り前の取引
三日後の昼前、榊屋の離れ座敷には、見慣れぬ紋の几帳が立てられていた。座敷の中央には朱の印箱、脇には結納の品目を記す細長い帳。白梅の香が薄く漂い、障子の外では下働きが足音を忍ばせて行き来する。――今日ここで、綾女は“縁談”の取引をまとめるつもりだ。相手は御所出入りの取引先頭、名は蔵人屋の桐江。刻は午の初め、場所は離れ座敷、用件は“娘の良縁を口実にした取引条件の上乗せ”。
  咲凪は襖の陰から一礼して入り、卓の端に控えた。簪は髪に、狐火の指輪は袖の内。懐には誓紙の写しと、昨今の仕入れ控え、それに明日美が整えた“契約条項の穴一覧”。費用対効果、安全、倫理――頭の内で順序を並べ直し、扇の音を待つ。
  綾女は端正に微笑み、扇で香を仰いだ。
  「桐江様。本日はお運び恐れ入ります。――娘のこと、何ぶん器用で働き者でございますの。帳場にも強く、香の扱いも心得がある。お家へ入れば、きっとお役に立ちましょう」
  桐江は目尻を下げ、帳場の紙束へ視線を滑らせた。
  「噂は聞いております。昨今は都も騒がしい。家を守る女手は固いほどよい」
  言葉は柔らかいが、その指先は朱の印箱に近い。今日の狙いは、縁談に名を借りた“前渡し条件”の書き込み――納入期前倒し、違約時の罰金、瑕疵担保の過重。紙は、油より滑る。
  「では、細々を取り決めましょう」
  綾女が合図すると、下座から裕斗が印判台を運んできた。彼は口を引きしめ、勢いよく台を置く。
  「印はここで――」
  「待って。まだ“入口”が立っていない」
  咲凪は声を抑え、印判台の前に紙を一枚差し込んだ。明日美の字で引かれた細い欄。〈第三者効〉の文字が、薄墨で控えめに踊る。
  桐江が片眉を上げる。
  「第三者効、とは?」
  「こちらに“誓紙”の写しがあります」
  咲凪は懐から白狐の透かしの薄葉を取り出した。誓紙そのものではない。ただ、署名欄に互いの名が記された写し――“危険時は呼ぶ・虚偽はつかない・自分の足で歩く”。
  「これは私的な誓いですが、内容は“虚偽を禁ずる”もの。――本日の契約に虚偽が混じれば、誓いの第三者効として“履行補助者の虚偽”に拡張されます。つまり、御家の使用人や取次が虚偽を含ませた場合も、私の側から“誓いに照らした異議申立て”が可能です」
  「ほう……」
  桐江の視線が紙から綾女へ滑る。綾女の扇が一瞬だけ止まった。
  「条項を拝見します」
  咲凪は差し出された草案に目を落とし、数字を音で数えた。納入期“月の初五日”、前渡し“半金”、遅延“日歩三分”。――日歩三分は高すぎる。
  「ここ、“日歩一分”でお願いします。加えて、瑕疵は『納入後七日以内に限る』ではなく『検収済みの範囲』へ。検収を遅らせれば七日などすぐ経つ。検収責任は御家にあります」
  桐江は扇の溝で顎をさする。
  「強いな」
  「強いのは数字です」
  咲凪が淡々と返すと、綾女の笑みがわずかに薄くなった。
  「娘、余計なことを言わないで」
  綾女は声を細くし、袖の陰で咲凪の肘を軽くつねった。痛みより、順序を乱す圧が辛い。咲凪は短く息を吐き、紙の角を整える。
  「“縁談”を装った商談である以上、損得は先に置くべきです。――家が沈めば、縁も沈みます」
  桐江はくぐもった笑い声を漏らし、筆をとって条項を二箇所書き換えた。
  「よい。では“前渡し半金”は留める。ただし、代償として“娘君の名を記した家札”を預かる。取引誠実の証として」
  綾女の目が光る。
  「ええ、もちろん」
  「待ってください」
  咲凪は即座に札束の上へ手を置いた。
  「“名を記した家札”の効力は重すぎます。紛失時、他家で無断に使われても、当家の責となる。代わりに“榊屋印の控札”を。印影は一致しますが、名は記しません。――証拠は十分、リスクは最小」
  桐江はしばし沈黙し、やがて頷いた。
  「では控札で」
  「よし、印だな!」
  裕斗が勢いよく印を持ち上げ――
  「待って」
  咲凪はその手首をそっと挟んで止めた。
 「“印前確認”。書き換え箇所に小印を。主文は最後です」
  「……悪い」
  裕斗はすぐに頭を下げ、小印を丁寧に置き直した。強さより、認めの速さが場を守る。
  その時、障子の桟が小さく鳴った。外から白梅の香が一筋。女中が控えめに顔をのぞかせ、文箱を両手で捧げ持つ。
  「奥様、御所より書状が」
  綾女の瞳が一瞬だけ輝き、扇の先で文箱を示す。
  「まあ。……桐江様、少々」
  綾女は文箱の蓋を開け、朱の封蝋を割った。丸印の南東に、ごく細い欠け。咲凪は視線を紙から離さず、簪の歯で心の中へ印影を写す。
  「“上”のご厚意ですって。――娘の身の行く末に、よい後押しがある、と」
  綾女の声に甘い毒が差す。桐江の目がわずかに潤い、扇が嬉々と鳴る。
  咲凪は静かに、誓紙の写しを文箱の横へ置いた。
  「虚偽を禁ずる誓いは、私個人ではなく“この家の取引に関わる者”にも及びます。――“上”の名が書にあるなら、その印影は役所で照合しましょう。正しい印なら強い。欠けが紛い物なら、弱い」
  綾女の笑みが固まった。桐江は息を飲み、文箱をそっと閉じる。
  「……印を」
  最後に主文の欄が空になった帳面へ、咲凪はゆっくりと印判台を進めさせ、綾女の前に置いた。
  「お母様。榊屋の“主”として、印を。――改竄の余地がないよう、角を合わせて」
  綾女は一拍ためらい、やがて印を押した。乾いた朱の音。条項は確定した。日歩一分、検収責任は相手、控札の預け。――最小の損で、必要な縁だけを結ぶ。
  取引が終わると、桐江は満足げに扇を閉じた。
  「賢い娘君だ。こちらも商いがしやすい」
  「ありがとうございます。私も“順序”が好きです」
  咲凪が会釈すると、桐江は笑い、帰り支度を整えた。
  客が去り、離れに静けさが戻る。綾女は扇を畳んだまま、膝の上で指を組んだ。
  「あなた、今日の言い分……誰に教わったの?」
  「帳面と、紙に」
  即答すると、綾女の口角がわずかに歪む。