第5話_雨の小路、二人だけの検分
翌日の夕霧は、御所脇の小路を静かに濡らしていた。時刻は申から酉へ移るあいだ、雨脚は細く、瓦の端で音だけを増やす。提出すべき紙は午のうちに回り切った。今は、昨夜の面改めから出口へ続く“人の動線”を確かめる刻だ。咲凪は簪を髪に確かめ、狐火の指輪を袖の内で一度撫でた。
石畳の継ぎ目には、雨水が細い川を作っている。足を入れる角度で飛沫の形が変わる。最短で抜けたい者の歩幅は大きく、警戒している者の歩幅は詰まる――咲凪は足跡の深さと向きで昨夜の混雑を頭に再現した。
「ここ、二度踏み直し。誰かが立ち止まって、肩を当てられている」
独り言のように呟いたとき、傘の骨が傍らに寄った。翔が雨水の筋をまたぎ、咲凪の斜め後ろに立つ。
「君の歩幅なら、ここは一歩で抜ける。二歩になったのは、前方に“避けられぬ障害”がいたからだ」
「昨夜の桂江の袖、あるいは……景虎の横入り」
答えると、翔は顎をわずかに動かし、路地の曲がり角を示す。そこには低い庇、風の回り道。白檀が雨に濡れて薄皮のように伸び、封蝋油が点となって残る。
「香の層が流れた筋が、角で折れている。上手く仕込まれた“混ぜ物”は、雨でこそ順序を見せる」
咲凪は懐紙を広げ、雨粒二つぶんだけ面へ晒し、紙の湿りを使って香の筋を薄く写した。紙はすぐ閉じる。匂いは逃げる。順序は残る。
路地をさらに進むと、蔦の絡む塀の下に浅い水溜り。そこに、昨夜の面の形が曖昧に写っていた。顎の角度、紐の擦れ。舟結びを解いたあとの“逃げ糸”の筋まで、水面が覚えている。
「ここで一度、面が外れた。……意図的か、事故か」
咲凪の問いに、翔は傘を傾けて光を落とし、指の腹で縁を撫でた。
「事故にしては“外し方”がきれいだ。君が教えた舟結びの解き方と同じ手順。なら、外したのは場を乱さぬため。――君か、君の手を見た誰か」
「下働きの娘です。列の呼吸が合わなくなったとき、私の結びを真似ていました」
「よく見ていた」
短い言葉に、咲凪は「私が教えたわけではありません」と軽く首を振る。見せるより、守るほうが早いと学んできた。
雨は細り、空の色は鼠へ寄る。路地の突き当たり、蔵の影に人が一人、腰を下ろしている。裾の泥、手のひらの擦り傷。昨夜、担架を手伝った若い係だ。
「大丈夫ですか」
咲凪が声をかけると、男は慌てて立ち上がった。
「す、すみません。……あの、昨夜は助かりました。面、すぐに外せて」
「あなたが“逃げ糸”を引いたから、です」
咲凪は懐から小さな紐を取り出し、舟結びの作り方を三手で見せる。
「緩みに見えて、倒れたときに強い。結びは“安全の逃げ道”から」
男は何度も頷き、手の中で結びを真似た。翔はその様子を見届けると、さりげなく地面の小石をどけ、足の置き場を作ってから礼を添えた。
「昨夜の運び、早かった。君が次も同じ速さで動けるように、ここは平らにしておく」
「は、はい……!」
ひとことの感謝が、人の体温を戻す。雨の重みが少しだけ軽くなる。
蔵の裏手へ回ると、下水の口に紙の切れ端が張り付いていた。朱の痕が雨に薄まり、しかし丸印の“欠け”だけは消えない。南東へ向かう細い欠け――封蝋室の印影と同じ癖。
「拾います」
咲凪が膝をつき、簪の歯で紙をそっと剥がす。濡れた紙は容易に破れるが、歯の角度を寝かせれば繊維を断たずに救える。
「貴女は、紙を助けるのが上手い」
翔の声に、咲凪は「費用対効果です」とだけ答えた。壊さずに済むなら、そのほうが全体の損は少ない。
角の茶店で雨宿りを乞うと、婆が湯気の立つ湯飲みを差し出してくれた。二人並んで軒先に腰をかける。屋根を叩く雨の細かい拍が、心拍と重なる。
「君は、昨夜の庭で多くを“整えた”。今夜は“確かめている”。――どちらも、俺は助かっている」
その言い方は、功を与えるでも叱るでもない。ただ事実として感謝を置く。咲凪は湯飲みを両手で包み、視線を雨の筋へ滑らせた。
「助かったのは皆さんの動きです。私は順序を書いただけ」
「順序は誰にでも書けるものではない」
翔は湯飲みを置き、爪先で小石を一つ弾いた。弾かれた石は雨筋に落ち、流れをわずかに変える。
「君の“結ぶ手”が、流れを作った。俺の“断つ手”は、その後ろを軽くする」
「……なら、合わせましょう。入口と出口を」
咲凪は小さく笑い、懐の紙片――濡れた丸印の欠け――を包み直した。
雨が一段落した頃、茶店の前を一台の牛車が通った。御所印のある木箱を積み、白梅の香が尾を曳く。車輪が水溜りを割り、泥の飛沫が扇形に散った。飛沫の縁に、薄く油の虹がかかる。
「封蝋油、ですね」
「運びは裏門から。行き先は書記局の脇蔵」
翔の目が雨越しに細められる。
「今夜は追わない。証は“ここまで”で充分だ。動くのは、明日の朝の光の下で」
「はい」
雨煙の向こう、裏門の庇に桂江の影が一瞬揺れた気がした。白檀の芯。だが追わない。今は“確かめ”の夜。
茶代を置いて軒を出る。二人で雨上がりの小路を戻り、曲がり角ごとに足跡の深さと向きを確かめる。記録に落とす語は少なく、しかし要点は逃がさない。
「ここは“匂いの層、二”。ここは“歩幅、三つ分の詰まり”。ここは“逃げ糸の跡”。――全部、明日美の綴じに入れます」
「俺は、衛士の巡りを軽くしておく。『ありがとう』を三つ置けば、夜の見回りは四つぶん働く」
「四つぶん、ですか」
「人は、礼の分だけ早くなる」
ふっと笑みがこぼれ、咲凪は頷いた。
小路の出口、石段の一段目に乗ったとき、狐火の指輪が小さく熱を帯びた。簪が応じ、髪の根で微かな音がした。――呼べば、応える。
「翔」
名を呼ぶと、彼は「ここに」と答えた。雨粒が最後の一滴を落とす音と重なって、二人だけの検分はひと区切りついた。
石段を上がり切った先、御所の北回廊は雨上がりの匂いで満ちていた。
翌日の夕霧は、御所脇の小路を静かに濡らしていた。時刻は申から酉へ移るあいだ、雨脚は細く、瓦の端で音だけを増やす。提出すべき紙は午のうちに回り切った。今は、昨夜の面改めから出口へ続く“人の動線”を確かめる刻だ。咲凪は簪を髪に確かめ、狐火の指輪を袖の内で一度撫でた。
石畳の継ぎ目には、雨水が細い川を作っている。足を入れる角度で飛沫の形が変わる。最短で抜けたい者の歩幅は大きく、警戒している者の歩幅は詰まる――咲凪は足跡の深さと向きで昨夜の混雑を頭に再現した。
「ここ、二度踏み直し。誰かが立ち止まって、肩を当てられている」
独り言のように呟いたとき、傘の骨が傍らに寄った。翔が雨水の筋をまたぎ、咲凪の斜め後ろに立つ。
「君の歩幅なら、ここは一歩で抜ける。二歩になったのは、前方に“避けられぬ障害”がいたからだ」
「昨夜の桂江の袖、あるいは……景虎の横入り」
答えると、翔は顎をわずかに動かし、路地の曲がり角を示す。そこには低い庇、風の回り道。白檀が雨に濡れて薄皮のように伸び、封蝋油が点となって残る。
「香の層が流れた筋が、角で折れている。上手く仕込まれた“混ぜ物”は、雨でこそ順序を見せる」
咲凪は懐紙を広げ、雨粒二つぶんだけ面へ晒し、紙の湿りを使って香の筋を薄く写した。紙はすぐ閉じる。匂いは逃げる。順序は残る。
路地をさらに進むと、蔦の絡む塀の下に浅い水溜り。そこに、昨夜の面の形が曖昧に写っていた。顎の角度、紐の擦れ。舟結びを解いたあとの“逃げ糸”の筋まで、水面が覚えている。
「ここで一度、面が外れた。……意図的か、事故か」
咲凪の問いに、翔は傘を傾けて光を落とし、指の腹で縁を撫でた。
「事故にしては“外し方”がきれいだ。君が教えた舟結びの解き方と同じ手順。なら、外したのは場を乱さぬため。――君か、君の手を見た誰か」
「下働きの娘です。列の呼吸が合わなくなったとき、私の結びを真似ていました」
「よく見ていた」
短い言葉に、咲凪は「私が教えたわけではありません」と軽く首を振る。見せるより、守るほうが早いと学んできた。
雨は細り、空の色は鼠へ寄る。路地の突き当たり、蔵の影に人が一人、腰を下ろしている。裾の泥、手のひらの擦り傷。昨夜、担架を手伝った若い係だ。
「大丈夫ですか」
咲凪が声をかけると、男は慌てて立ち上がった。
「す、すみません。……あの、昨夜は助かりました。面、すぐに外せて」
「あなたが“逃げ糸”を引いたから、です」
咲凪は懐から小さな紐を取り出し、舟結びの作り方を三手で見せる。
「緩みに見えて、倒れたときに強い。結びは“安全の逃げ道”から」
男は何度も頷き、手の中で結びを真似た。翔はその様子を見届けると、さりげなく地面の小石をどけ、足の置き場を作ってから礼を添えた。
「昨夜の運び、早かった。君が次も同じ速さで動けるように、ここは平らにしておく」
「は、はい……!」
ひとことの感謝が、人の体温を戻す。雨の重みが少しだけ軽くなる。
蔵の裏手へ回ると、下水の口に紙の切れ端が張り付いていた。朱の痕が雨に薄まり、しかし丸印の“欠け”だけは消えない。南東へ向かう細い欠け――封蝋室の印影と同じ癖。
「拾います」
咲凪が膝をつき、簪の歯で紙をそっと剥がす。濡れた紙は容易に破れるが、歯の角度を寝かせれば繊維を断たずに救える。
「貴女は、紙を助けるのが上手い」
翔の声に、咲凪は「費用対効果です」とだけ答えた。壊さずに済むなら、そのほうが全体の損は少ない。
角の茶店で雨宿りを乞うと、婆が湯気の立つ湯飲みを差し出してくれた。二人並んで軒先に腰をかける。屋根を叩く雨の細かい拍が、心拍と重なる。
「君は、昨夜の庭で多くを“整えた”。今夜は“確かめている”。――どちらも、俺は助かっている」
その言い方は、功を与えるでも叱るでもない。ただ事実として感謝を置く。咲凪は湯飲みを両手で包み、視線を雨の筋へ滑らせた。
「助かったのは皆さんの動きです。私は順序を書いただけ」
「順序は誰にでも書けるものではない」
翔は湯飲みを置き、爪先で小石を一つ弾いた。弾かれた石は雨筋に落ち、流れをわずかに変える。
「君の“結ぶ手”が、流れを作った。俺の“断つ手”は、その後ろを軽くする」
「……なら、合わせましょう。入口と出口を」
咲凪は小さく笑い、懐の紙片――濡れた丸印の欠け――を包み直した。
雨が一段落した頃、茶店の前を一台の牛車が通った。御所印のある木箱を積み、白梅の香が尾を曳く。車輪が水溜りを割り、泥の飛沫が扇形に散った。飛沫の縁に、薄く油の虹がかかる。
「封蝋油、ですね」
「運びは裏門から。行き先は書記局の脇蔵」
翔の目が雨越しに細められる。
「今夜は追わない。証は“ここまで”で充分だ。動くのは、明日の朝の光の下で」
「はい」
雨煙の向こう、裏門の庇に桂江の影が一瞬揺れた気がした。白檀の芯。だが追わない。今は“確かめ”の夜。
茶代を置いて軒を出る。二人で雨上がりの小路を戻り、曲がり角ごとに足跡の深さと向きを確かめる。記録に落とす語は少なく、しかし要点は逃がさない。
「ここは“匂いの層、二”。ここは“歩幅、三つ分の詰まり”。ここは“逃げ糸の跡”。――全部、明日美の綴じに入れます」
「俺は、衛士の巡りを軽くしておく。『ありがとう』を三つ置けば、夜の見回りは四つぶん働く」
「四つぶん、ですか」
「人は、礼の分だけ早くなる」
ふっと笑みがこぼれ、咲凪は頷いた。
小路の出口、石段の一段目に乗ったとき、狐火の指輪が小さく熱を帯びた。簪が応じ、髪の根で微かな音がした。――呼べば、応える。
「翔」
名を呼ぶと、彼は「ここに」と答えた。雨粒が最後の一滴を落とす音と重なって、二人だけの検分はひと区切りついた。
石段を上がり切った先、御所の北回廊は雨上がりの匂いで満ちていた。



