第4話_仮面舞の夜
小満の夜、御所の前庭は水面のように冷たい光で満たされていた。松明は遠巻きに据えられ、中央は月と提灯だけが照らす。招待状に記された刻は酉の半ば、入場は東の潜り戸から、仮面は各自持参――咲凪は白檀を吸わせた薄い木面を袂に収め、明日美の書き付けを確かめた。入退場の動線、すれ違いを減らすための立ち位置、万一面紐が切れたときの結び替え手順。紙は掌で温度を帯び、心の拍を少し落としてくれる。
  潜り戸の手前で、女官の列が客の仮面を改めていた。列の端に立つ女官長・桂江の視線は薄氷のように冷ややかで、白梅の香を微かに纏っている。咲凪が一礼して木面を差し出すと、桂江は指先で面の縁を撫で、鼻先に寄せてから丁寧に返した。
  「香が勝ちすぎないように。殿上の風は繊細ですもの」
  「心得ます」
  咲凪は淡く答え、列に従って庭へ下る。
  砂利の上で足音が三つ重なった。義姉の琴葉と真珠、そして継母・綾女が、薄布を肩に掛けて近づいてくる。
  「まあ。町の商家でも御所は眩しいでしょう?」
  綾女は笑い、扇で咲凪の面紐を軽く弾いた。結び目がわずかに緩み、布が首筋に落ちる。
  「結びが甘いわ。あなたの“器用さ”でも、こういう場では剥がれるのね」
  琴葉が囁き、真珠がうふふと笑う。
  咲凪は返事をせず、面紐を解いて一から結び直した。蝶結びではなく、舞の動きでも緩みにくい舟結びへ。さらに余りを耳の後ろに回し、ほどくときは一本だけを引けばするりと解ける逃げ道を残す。
  「面紐は“緩まない”より“解ける”が先です。万一倒れたとき、顔を起こせませんから」
  静かに言うと、綾女の扇が一度だけ止まった。
  庭の中央では、仮面の客が円を描いて舞う。笛に合わせて裾が揺れ、仮面の目が月を映す。人の流れに微かな痞えが出始めたのを見て、咲凪は足の置き場を半歩ずらした。右から左へ、同じ角度で入ろうとする二つの流れがぶつかる。――なら、片方を一度だけ“屈ませる”。
  「明日美、あの松明を一尺下げられますか。陰が伸びれば、人は自然に避けます」
  「できます」
  明日美は即答し、小走りで番へ指示を飛ばす。松明の影が斜めに伸び、流れがふわりと右へ折れた。痞えが解け、円は元の均衡を取り戻す。
  「助かりました」
  背後で、下働きの若い女が小声で礼を言った。
  「こちらこそ。紐の予備をお借りできますか」
  咲凪が頼むと、女は笑って小箱を差し出す。そこへ翔が現れ、箱を受け取った女へ短く頭を下げた。
  「手早い手配をありがとう。場が保たれている」
  礼の一言に、女の肩の力がほどける。翔はそのまま、灯の端で手短に二、三の指示を出し、退出の道に人が溜まらぬよう係の立つ位置を半身分だけずらした。最小の手数で最大の効果――昨夜と同じやり方だ。
  仮面舞は佳境を迎え、客が面を持ち上げて互いの香を確かめ合う。香は重なれば濁る。咲凪は自分の木面の内側に残る白檀の筋を薄く息で扱き、香の層を浅く整えた。そこへ、桂江が静かに寄る。
  「咲凪さん。あなたの面、少し“香が強い”わ。――殿上の方々は繊細よ」
  「では、こちらで薄めます」
  咲凪は懐紙を取り出し、面の内側を一度撫でて香の層を均す。白檀は基調に、脂の匂いは削ぐ。桂江の睫がわずかに動いた。
  「香に“層”などあるのかしら」
  「あります。焚き初めと沈香の後尾では、鼻の置き場が違います」
  言葉は穏やかに、しかし具体のままに。桂江は笑い、その笑みのまま離れた。
  その時、舞の列の端で、面紐が一つぱちんと切れた。倒れかけた客の肩へ、咲凪は瞬時に手を差し入れ、舟結びの“逃げ糸”を一本引く。面はすぐに外れ、客は息を吸える体勢へ戻る。
  「失礼します。結び替えますので、肩を預けて」
  短い言葉で要を伝え、予備紐を通して結ぶ。結びは舟、余りは耳の後ろへ。手順は昨日の紙に描いた通り。客は深く礼をし、場の輪へ自然に戻っていった。
  「……目立つわね」
  背後で綾女の声。
  「人前で器用さを見せつけるのは、女の価値を下げることもあるのよ」
  咲凪は返さない。価値は“見せたか”ではなく“守れたか”で決まる。今は人の流れが整っている。
  庭の端で笛が一度、調べを変えた。入退場の合図だ。明日美が係の袖を軽く引き、出口の隊列を二筋に分ける。高位の客を左、一般を右。間に余白を作れば、すれ違いの摩擦は最小になる。翔は列の先頭で屈んだ女官に目線を合わせ、「助かる」と一言置いた。その一言が、彼女の次の一手を半歩早める。
  面の下の空気がいつもより乾いている。咲凪は舌を湿らせ、庭の中央へ一歩進んだ。白檀の香が一筋、風上から濃くなる。袖の内側をかすめたそれは、昨夜の灯籠の裏に残っていた筋と同じ配合。――視線を上げると、仮面の列の向こうに、景虎の姿があった。
  角張った顎、よく通る袍の光沢。彼は面を半ば持ち上げ、こちらを見た。次の瞬間、明らさまな舌打ちが白い息とともに漏れる。周囲の視線が一瞬だけ揺れ、すぐに何事もなかったように舞は続く。
  咲凪は足を止めない。呼吸を一定に保ち、紙の順序のように目の前の段取りを一つずつ片づける。出口の影の角度、並ぶ足の向き、面の結びの緩み。景虎の視線は背で受け流す。
  「咲凪」
  背後から静かに呼ばれて振り向くと、翔が客の列の合間に立っていた。
  「下働きが一人、足を挫いた。担いで出る道を確保したい」
  「では、灯を一つ消して陰を作ります。人は陰を避けますから」
  明日美が頷き、係へ合図を送る。灯がさらりと落ち、陰が伸びる。人の列が自然に開き、担架が通れる幅が生まれた。
  場は保たれた。だが、白檀の香はなお、どこかで濃く揺れている。桂江の袖? 景虎の袍? あるいは、別の“上”の筋? 咲凪は面の内側で目を細め、香の層の“混じり”を嗅ぎ分けようと呼吸を整えた。
 面の内側で呼吸を整えていると、袖口に冷たい感触が走った。義姉の真珠がわざと足を絡め、咲凪の手から面を落とさせる。木面は砂利を滑って桂江の足元へ転がり、白檀の香がふっと濃く立った。