薄紅の簪は狐将を呼ぶ――千年都で“証拠”と“契約”から始まる和風シンデレラ恋

第38章_家の奥、原印の箱
申の刻。榊屋の奥は、昼の熱を保ったまま音だけ冷えていた。検分の立会は三者――郡の書吏、衛士頭、そして社の書記。咲凪は式台の手前に白布をひき、三つに欄を割る。〈入口:原印の所在〉〈現象:香と時刻の矛盾〉〈出口:押収・保全〉。簪の歯で角を揃え、狐火の指輪を袖の底で静めた。
  明日美が段取り表を掲げる。
  「一、“時間表”の提示(昨夜の門札控え/夜回り帳/脚場検め記録)。二、“香痕写し”採取の順。三、箱物の開披は“原状写真→触診→開披”の三段。四、鎖錠品は“立会三者”で封緘」
  春奈が要約紙に二語。〈時間〉〈香〉。
  奥の間は白檀の匂いが薄く長い。琴葉と真珠が几帳の陰に並び、綾女は上座で扇を緩く振る。
  「家を引っかき回して、愉しいこと」
  「沈没を避ける作業です。短く終えます」
  咲凪は白布の「入口」に朱で〈原印〉と置き、式台の間取り図に小さく矢印を描く。〈匂い筋:奥→手前〉。
  まず、時間の針を据える。明日美が“時間表”を広げ、要点だけを読む。
  「二更(子刻)――“家人の動きなし”。三更(丑刻)――“北門外で駕籠”。四更(寅刻)――“戻り印なし”。――“原印移送”を裏づける記録は無い」
  郡の書吏が頷き、衛士頭が「時刻はこうだな」と復唱する。
  次に、匂いの針を据える。咲凪は香盤の薄紙を取り出し、簪の歯で紙面を軽くなぞって床の木目へ当てる。
  「“香痕写し”。芯・油・煙。――“芯濃”は“焚いて間が短い”。“廊下・卯刻”“奥の間・未刻”。筋はこう」
  春奈が要約紙に二語。〈芯濃=間短〉〈卯→未〉。
  「香ぐらい、朝も夜も焚きます」
  琴葉の扇が強く動く。
  「焚いてよい。ただ“時間”と“動線”は嘘をつかない」
  咲凪は畳の縁に鼻先を寄せ、香の層の薄い裂け目を指で示す。
  「“踏み改め”。――箱を“ここ”から“ここ”へ移した跡」
  押入れの奥に桐箪笥。引き出しを抜くと一段、底板の木目が周囲と違う。明日美が短く告げる。
  「“原状写真”」
  社の書記が板絵で写し取り、衛士頭が封蝋の印板を卓へ置く。
  「“触診”」
  咲凪は簪の歯で底板の角を撫で、軽く鳴らす。音が詰まる。
  「“空(から)”の下」
  そのとき、裕斗が廊下からひゅっと顔を出し――踏みとどまった。
  「先に聞く。俺は何をする?」
 「“廊下の出入り封じ”。――縄を『追い結び』で二本。足を止め、誰も踏まぬよう」
  「了解!」
  裕斗は素早く結び目を作り、両手を挙げて下がる。
  底板を外す。木屑の粉がふわりと立ち、白檀の芯が濃くなる。そこに、黒漆の小箱。角が擦れ、紐は固く締めてある。
  「“原状写真”――二」
  書記の板絵が重ねられ、三者で封を解く。紐の結びは“真結び”。咲凪は簪の歯で節を少し浮かせ、油煙の色を確かめる。
  「“最近に触れた手”。――油が新しい」
  蓋が上がる。内に納まるは朱の印台――榊屋の“原印”。縁にわずかな欠け。だが“斜浅”ではない。家の印の、古い癖。
  「“原印、在”」
  衛士頭が低く言い、郡の書吏が筆記に移る。
  「『原印押収』『在所=奥の間・桐箪笥底』『開披三者立会』」
  明日美が提出順の束から“押収目録”を抜き、欄を埋める。
  「返して」
  几帳の陰から真珠が一歩出る。顎は上がり、扇が震えている。
  「お母さまの“客”のために使うの。――“公印の回復”が先でしょう」
  春奈が要約紙に二語。〈虚偽申述〉〈目的外〉。
  「“公印の回復”は封蝋室の是正の後。――“原印の貸し出し”は要件にありません」
  「“夜明け前”に私が倉から出したの。……お母さまは関係ない」
  琴葉が畳を踏み鳴らして割り込む。
  「違うわ。私が“卯刻”に――」
  言葉が重なった瞬間、咲凪は“時間表”の上に指を置く。
  「“卯刻”――香粉が“廊下”。“未刻”――芯濃が“奥の間”。――“二人とも、違う”」
  春奈が二語で骨を置く。〈時刻矛盾〉〈陳述不一致〉。
  綾女が扇をぱたりと閉じる。
  「娘の戯言に付き合ってる暇はないわ。――上が“印”を求めているの」
  「“上”は“紙”で来ます。――“昨夜の回電”に“原印移送”はありません」
  明日美が回電写しを差し出す。郡の書吏が確認し、朱の点を一つ打った。
  その間に、もう一つの足が動く。天袋の扉がわずかに軋んだ。大希が先に弱みを置く。
  「俺、高い所が苦手。……けど、上に“箱の影”」
  「無理はしないで。――“梯子”」
  衛士が梯子を据え、大希は息を整えながら一段目だけ上がる。袖で汗を拭い、声を短くした。
  「“空箱”。――印を入れて見せる“飾り”」
  春奈が要約紙に〈偽装〉。
  押収は粛々と進む。原印は“密封袋”へ収め、封蝋で三者の印を落とす。榊屋の印は使わない。
  「“保全”。――“返還先”は公事所の“押印管理室”。“受渡時刻”は本日“酉初”」
  明日美が時間を書き込み、衛士頭が受け札に名を書いた。
  このとき、障子の陰から衣擦れが走る気配。真珠が出入口へ寄り、袖の奥を押さえる。
  「それ、出さないで」
  翔が半身で立ちふさがり、短く言う。
  「“ぶつからない”」
  肩の角度と視線だけで、真珠の足を止める。衝突は起きない。
  綾女は静かに立ち上がった。唇は笑っているが、目は笑っていない。
  「――では、“上”へ行くわ。堂上家に。話はそこで」
  扇骨が一度鳴り、衣が翻る。琴葉と真珠が続き、白檀の尾が間に残る。
  去る背中を見送り、咲凪は白布の「現象」に〈外部合流〉を足し、「出口」に〈押収/保全/回付〉と朱で置いた。
  「“原印”は押収済。“鎖錠”は本日“酉初”。――“家の外”が次の場」
  狐火の指輪が衣の底で二度、柔らかく鼓を打つ。
  広間へ戻る前、咲凪は畳の縁に鼻先を寄せ、もう一度だけ層を確かめる。白檀の芯はまだ若い――誰かが、たった今、意図して濃くした香。
  春奈が要約紙の隅に一語。〈撹乱〉。
  「撹乱は“紙”で減らす」
  明日美が“追加の掲示”を取り出す。
  『原印押収済――外部持出不可/返還先=公事所押印管理室』
  「掲示は“短く・大きく”。――境界を外に見せます」
  大希は自分の弱みを先に置き、それでも笑んだ。
  「人には回れる。……“堂上家へ向かった道”を聞いてくる」
  「お願いします」
  裕斗が封袋を抱え、結び目を二度確かめて頭を下げる。
  「『追い結び』、二重。……落とさない」
  翔は彼とすれ違いざま、短く礼を置いた。
  「助かる」
  白布を畳み、簪の歯で結び目を一度だけ締める。ほどけやすく、落ちない結び。
  〈入口――原印所在〉〈現象――香と時刻の矛盾/偽装箱〉〈出口――押収・保全・回付〉。
  ――家の奥は空になり、“原印”は紙の側に戻った。
  次は堂上家。外の“顔”に、内の“骨”を突きつける番だ。