第36章_家財目録、なくなる前に記す
同日の酉刻。北市の喧噪が引き、榊屋の広間には低い灯が等間に並んだ。売り立ての札を携えた競市頭の使いが昼過ぎに立ち寄り、「明朝、家財の出品」と口にしたのを皮切りに、店先に落ちた噂は足を生やした。綾女が独断で家財を売り払う――。
「なくなる前に、記します」
咲凪は板卓に白布を敷き、三つに欄を割った。〈入口:家財売却の動き〉〈現象:所在不明・出品の強行〉〈出口:目録作成・仮差止〉。簪の歯で角を揃え、狐火の指輪を袖の底で静める。
明日美が逆算表を広げ、短く息を整える。
「時間は三刻。――一、家財の“所在確認”と“状態”。二、印のある“所有根拠紙”の添付。三、“差押・仮差止”の申請書類作成。四、今から届ければ、公事所で“受理”がぎりぎり間に合う」
春奈は要約紙に二語を置く。〈所在〉〈根拠〉。
大希は自分の弱みから始めた。
「俺、高いところが苦手で、長い項目を一気に読むと詰まる。……だから“人”を回す。部屋ごとに“見た・触った・動かせない”の三語で、奉公人から口頭で聞き取る。それを“短い言葉”で紙にする」
「お願いします」
咲凪は白布の「入口」に朱で〈目録〉と置き、筆を取った。
まずは“座敷—表”。屏風、茶棚、香箪笥、帳場の脇机。下働きの娘が緊張した声で並べる。
「見た。触った。……香箪笥は“鍵なし”」
「“鍵なし”は“移動可”の印」
春奈が復唱し、明日美は“持出危険”に朱丸を付ける。
“座敷—奥”。箪笥三棹、衣桁二、鏡台一。琴葉と真珠の部屋からは白檀の匂いが濃く流れ、衣擦れと扇の音が混じった。
「部屋を嗅ぎ回るの?」
琴葉の声に、咲凪は短く返す。
「“紙”で回ります。――目録は“骨”です」
真珠は唇を尖らせ、扇で鏡台を軽く叩く。
「こんな古い鏡、いくらでも代えが利くわ」
「“所有の根拠”があれば、代えは利きません。――鏡台は先代の『嫁入目録』に記載」
簪の歯で古い控えの角をなぞると、薄墨の「鏡台 一式」の文字が浮いた。
そこで裕斗が、廊下から飛び込みかけ――踏みとどまった。
「先に聞く。俺は、何をする?」
「“台帳の控え”を“追い結び”で束ね、部屋ごとの“目印札”を柱に。――走るのは後でもできる」
「了解!」
裕斗は素早く頭を下げ、紐を結びながら柱に札を掛けていく。結びはほどけやすく、落ちない。
“蔵”。格子鍵を外すのは番頭。中には反物、古い帳本、祭具。
「反物――『奉納控え』の印あり」
明日美が“所有根拠”の添付欄に『奉納控写』と記す。
春奈は読み上げる。
「〈奉納反物 十反〉〈行燈 四基〉〈祭具箱 一〉――“祭具箱”は社の品。榊屋が動かしてはならない」
「“動かさない”の赤印を」
咲凪が指すと、大希は「動かさない」を大きな手で書き、蔵の内側に貼った。
「俺、字がきれいじゃないけど……“大きい字”なら読める人が増える」
弱みを先に置く声は、空気を柔らげた。
“納戸”。小箱の中から堅い感触。開けると、朱の小印が二つ。縁に“斜浅”。
「――“斜浅”。……封蝋室と同じ癖」
咲凪は懐紙で印を包み、簪の歯で欠けを確かめる。
「“親族会社”の印章台から移された可能性。目録の“印類”に別立てで計上」
春奈が二語を刻む。〈印類〉〈斜浅〉。
“台所”。銅鍋、釜、桶。ここで咲凪は腕をまくり、手ずから底を叩く。
「“実働”の道具は“売り立て不可”の主張が立ちます。――『営業資産』」
明日美が条文番号を小さく書き添え、春奈が「営業資産・生活必需」と読み上げる。
“帳場”。ここが心臓だ。算盤、帳面、印箱。印箱の底には古い“当主印”の欠けた台座。
「“原印”は奥の間のはず……」
咲凪が言いかけた時、奥障子の向こうで衣擦れ。綾女が姿を現した。
「夜に女が帳場を占める。――見苦しいこと」
「“沈没前”なので」
咲凪は頭を下げず、白布の「現象」に〈出品強行〉と書いて筆を止めた。
「“目録”と“仮差止”。――今夜、出します」
「当主の許なしに“差止”? 笑わせる」
綾女は扇を傾け、番頭へ視線を滑らせる。番頭は一瞬、肩を揺らし――しかし咲凪の目と合うと、深く頭を垂れた。
「“目録作成”は家の守り事にて」
翔が静かに綾女の背後へ視線を置き、下働きへ短く礼を送る。
「今、動かさないでくれて、助かる」
礼は短く、場がわずかに落ち着く。
目録は刻々と厚みを増した。各部屋の一覧、所有根拠の控え、印影の写し。
「“提出順”を組みます」
明日美が束を四つに割る。
「一、〈家財目録〉。二、〈所有根拠〉。三、〈印類一覧(斜浅の印含む)〉。四、〈営業資産の区分〉。――“受理”を取りに行くのは今」
春奈は要約紙で全体を二語に縮めた。〈目録〉〈差止〉。
外は宵。公事所の灯はまだ起きている。
「行きます」
咲凪は簪の歯で白布の角を締め、束を懐へ収めた。裕斗が一歩、出る。
「先に聞く。俺は、何を運ぶ?」
「“添付の原本”と“控え”。――落とさないよう“追い結び”で」
「了解!」
裕斗は封袋を二重に括り、先を走る。翔はその背へ言葉少なく告げる。
「角、滑る。――足、短く」
短い助言が、転倒という最小でない被害を遠ざける。
公事所。夜の窓口に春奈の読み上げが通る。
「申請は“仮差止”。――理由は“出品強行の疑い”“所有根拠の散逸の恐れ”。添付は“目録・根拠・印類・営業資産区分”」
窓口の書役は紙束の角を確かめ、頷く。
「……順は正しい。――“受理印”を落とす」
そのとき、背後から早足の足音。綾女の縁の書役が印籠を掲げる。
「“当主の許なしの差止”は無効だ」
「“家の沈没回避”は“家中の共同の利益”。――仮差止の要件に適います」
明日美が条文の番号を落とし、咲凪は白布の「出口」に小さく〈受理〉と置いた。
同日の酉刻。北市の喧噪が引き、榊屋の広間には低い灯が等間に並んだ。売り立ての札を携えた競市頭の使いが昼過ぎに立ち寄り、「明朝、家財の出品」と口にしたのを皮切りに、店先に落ちた噂は足を生やした。綾女が独断で家財を売り払う――。
「なくなる前に、記します」
咲凪は板卓に白布を敷き、三つに欄を割った。〈入口:家財売却の動き〉〈現象:所在不明・出品の強行〉〈出口:目録作成・仮差止〉。簪の歯で角を揃え、狐火の指輪を袖の底で静める。
明日美が逆算表を広げ、短く息を整える。
「時間は三刻。――一、家財の“所在確認”と“状態”。二、印のある“所有根拠紙”の添付。三、“差押・仮差止”の申請書類作成。四、今から届ければ、公事所で“受理”がぎりぎり間に合う」
春奈は要約紙に二語を置く。〈所在〉〈根拠〉。
大希は自分の弱みから始めた。
「俺、高いところが苦手で、長い項目を一気に読むと詰まる。……だから“人”を回す。部屋ごとに“見た・触った・動かせない”の三語で、奉公人から口頭で聞き取る。それを“短い言葉”で紙にする」
「お願いします」
咲凪は白布の「入口」に朱で〈目録〉と置き、筆を取った。
まずは“座敷—表”。屏風、茶棚、香箪笥、帳場の脇机。下働きの娘が緊張した声で並べる。
「見た。触った。……香箪笥は“鍵なし”」
「“鍵なし”は“移動可”の印」
春奈が復唱し、明日美は“持出危険”に朱丸を付ける。
“座敷—奥”。箪笥三棹、衣桁二、鏡台一。琴葉と真珠の部屋からは白檀の匂いが濃く流れ、衣擦れと扇の音が混じった。
「部屋を嗅ぎ回るの?」
琴葉の声に、咲凪は短く返す。
「“紙”で回ります。――目録は“骨”です」
真珠は唇を尖らせ、扇で鏡台を軽く叩く。
「こんな古い鏡、いくらでも代えが利くわ」
「“所有の根拠”があれば、代えは利きません。――鏡台は先代の『嫁入目録』に記載」
簪の歯で古い控えの角をなぞると、薄墨の「鏡台 一式」の文字が浮いた。
そこで裕斗が、廊下から飛び込みかけ――踏みとどまった。
「先に聞く。俺は、何をする?」
「“台帳の控え”を“追い結び”で束ね、部屋ごとの“目印札”を柱に。――走るのは後でもできる」
「了解!」
裕斗は素早く頭を下げ、紐を結びながら柱に札を掛けていく。結びはほどけやすく、落ちない。
“蔵”。格子鍵を外すのは番頭。中には反物、古い帳本、祭具。
「反物――『奉納控え』の印あり」
明日美が“所有根拠”の添付欄に『奉納控写』と記す。
春奈は読み上げる。
「〈奉納反物 十反〉〈行燈 四基〉〈祭具箱 一〉――“祭具箱”は社の品。榊屋が動かしてはならない」
「“動かさない”の赤印を」
咲凪が指すと、大希は「動かさない」を大きな手で書き、蔵の内側に貼った。
「俺、字がきれいじゃないけど……“大きい字”なら読める人が増える」
弱みを先に置く声は、空気を柔らげた。
“納戸”。小箱の中から堅い感触。開けると、朱の小印が二つ。縁に“斜浅”。
「――“斜浅”。……封蝋室と同じ癖」
咲凪は懐紙で印を包み、簪の歯で欠けを確かめる。
「“親族会社”の印章台から移された可能性。目録の“印類”に別立てで計上」
春奈が二語を刻む。〈印類〉〈斜浅〉。
“台所”。銅鍋、釜、桶。ここで咲凪は腕をまくり、手ずから底を叩く。
「“実働”の道具は“売り立て不可”の主張が立ちます。――『営業資産』」
明日美が条文番号を小さく書き添え、春奈が「営業資産・生活必需」と読み上げる。
“帳場”。ここが心臓だ。算盤、帳面、印箱。印箱の底には古い“当主印”の欠けた台座。
「“原印”は奥の間のはず……」
咲凪が言いかけた時、奥障子の向こうで衣擦れ。綾女が姿を現した。
「夜に女が帳場を占める。――見苦しいこと」
「“沈没前”なので」
咲凪は頭を下げず、白布の「現象」に〈出品強行〉と書いて筆を止めた。
「“目録”と“仮差止”。――今夜、出します」
「当主の許なしに“差止”? 笑わせる」
綾女は扇を傾け、番頭へ視線を滑らせる。番頭は一瞬、肩を揺らし――しかし咲凪の目と合うと、深く頭を垂れた。
「“目録作成”は家の守り事にて」
翔が静かに綾女の背後へ視線を置き、下働きへ短く礼を送る。
「今、動かさないでくれて、助かる」
礼は短く、場がわずかに落ち着く。
目録は刻々と厚みを増した。各部屋の一覧、所有根拠の控え、印影の写し。
「“提出順”を組みます」
明日美が束を四つに割る。
「一、〈家財目録〉。二、〈所有根拠〉。三、〈印類一覧(斜浅の印含む)〉。四、〈営業資産の区分〉。――“受理”を取りに行くのは今」
春奈は要約紙で全体を二語に縮めた。〈目録〉〈差止〉。
外は宵。公事所の灯はまだ起きている。
「行きます」
咲凪は簪の歯で白布の角を締め、束を懐へ収めた。裕斗が一歩、出る。
「先に聞く。俺は、何を運ぶ?」
「“添付の原本”と“控え”。――落とさないよう“追い結び”で」
「了解!」
裕斗は封袋を二重に括り、先を走る。翔はその背へ言葉少なく告げる。
「角、滑る。――足、短く」
短い助言が、転倒という最小でない被害を遠ざける。
公事所。夜の窓口に春奈の読み上げが通る。
「申請は“仮差止”。――理由は“出品強行の疑い”“所有根拠の散逸の恐れ”。添付は“目録・根拠・印類・営業資産区分”」
窓口の書役は紙束の角を確かめ、頷く。
「……順は正しい。――“受理印”を落とす」
そのとき、背後から早足の足音。綾女の縁の書役が印籠を掲げる。
「“当主の許なしの差止”は無効だ」
「“家の沈没回避”は“家中の共同の利益”。――仮差止の要件に適います」
明日美が条文の番号を落とし、咲凪は白布の「出口」に小さく〈受理〉と置いた。


