薄紅の簪は狐将を呼ぶ――千年都で“証拠”と“契約”から始まる和風シンデレラ恋

第35章_市井の連なり、買い叩きは許さない
翌朝の卯刻、北市はまだ店格子の半分しか上がっていないのに、値の噂だけは先に走っていた。綾女の縁が流した「榊屋は困って安売り」という一文が、瓦版の隅から市井の耳へと染み込んでいく。買い叩きの気配は、目には見えないが秤の皿をわずかに傾ける。
  咲凪は荷捌き所の隅に白布をひき、三つに欄を割った。〈入口:買い叩きの噂〉〈現象:値の恣意・心理の圧〉〈出口:関係の網と先払い返戻で均す〉。簪の歯で角を揃え、狐火の指輪を袖の奥で静める。
  「“顔”の交渉は短く、“紙”は先に置きます」
  明日美が頷き、逆算表を片手に段取りを示す。
  「一、前受金の“分割返戻”の条件紙を配布。二、代替仕入の動線を二筋つくる。三、掲示は『値は守る/支払は守る』の二行のみ」
  春奈が要約紙に二語を置く。〈値=固定〉〈支=順守〉。
  大希は、自分の弱みから口を開いた。
  「俺、数字を早口で言われると詰まる。……けど“人”は回れる。職人衆に“弱いとこ、先に言う”って伝える。『値は守る、支払は紙で』――短く配る」
  「お願いします」
  咲凪は白布の「出口」に〈網〉と小さく書き、前受金返戻の条件紙を束で手渡す。
  荷捌き所の端で、翔が荷車を押す若い衆に肩を合わせた。
  「坂を上がるときだけ、背で押す。――助かる」
  礼は短く、しかし熱が残る。若い衆は笑って頷き、荷車は音を立てずに角を曲がった。場の空気が少し、柔らかくなる。
  最初の交渉先は、木工の佐平。伝い聞きの噂に押され、単価を指で二分ほど下に示してきた。
  「“皆がそうしてる”ってわけじゃねえが……世の流れでな」
  「“流れ”を紙で留めます」
  咲凪は〈分割返戻〉の紙を卓に置いた。
  〈現行単価維持/前受金の一部を本日返戻/残は納入ごとに相殺〉
  「“値”は動かしません。“支払”は今日から動かします。……費用対効果・安全・倫理――三つの順で決めました」
  佐平は眉を寄せ、やがて息を吐いた。
  「……“値”が動かないなら、こっちも“手”を早くするだけだ」
  「助かります」
  翔が即座に礼を置き、段取りの「納入時刻割」を明日美が朱で足す。
  二先目は染職の文蔵。ここは露骨だった。
  「綾女さまのとこは“即日”で現金を積んでくれる。半値でも……」
  「“半値”は“沈没”の合図です」
  咲凪は染場の水筋図を差し出す。
 「今日、井戸の水位は“浅”。――染め直しのロスが出ます。“半値”は職人衆の体に乗ります」
  春奈が要約紙に二語を置く。〈半値=沈没〉〈水位浅〉。
  「榊屋は“値”を守ります。――代わりに“返戻”で今日の足を軽くします」
  文蔵は腕を組み、しばらく黙ってから頷いた。
  「“半値”の話は忘れる。……“返戻”の紙をもらおう」
  噂はなお尾を引いた。瓦版屋の若い衆が筆を持って走り寄る。
  「“値を叩かない”って、本当で?」
  「二行だけ、載せてください」
  明日美が用意していた貼り札を渡す。
  『榊屋――値は守る。支払は紙で守る。』
  「“短く、大きく”」
  春奈の助言に、若い衆は目を丸くして頷いた。
  昼下がり、買い叩きの先鋒が現れた。綾女側の回し者らしい口上役が、芝居がかった調子で言い放つ。
  「おやおや、こちらは“安価で気前よく”が今の市の流儀でございますのに」
  裕斗が一歩、出かけて――踏みとどまる。
  「先に聞く。俺は、何をする?」
  「“掲示”を三枚、荷捌き所と角の柱に。――『値は守る/支払は守る』。それから“返戻”の袋を“追い結び”で職人衆に」
  「了解!」
  裕斗は頭を下げ、走りながらも結び目を確かめる。
  口上役は肩をすくめ、最後の一押しに出た。
  「“顔”を潰してまで、値に固執なさる?」
  「“顔”は“骨”の上で笑います。骨が折れていれば笑えません」
  咲凪は白布の「現象」に〈心理圧〉と記し、静かに続けた。
  「“値”は市井の“網”で支えます。“支払”は紙で支えます。――榊屋は“沈まない”」
  翔が荷車の端を押して、短く告げる。
  「道を塞がないでくれると、助かる」
  礼が矢より速く、口上役の足が半歩退く。
  午後の半ば、網は目に見える形を取り始めた。大希が戻り、額の汗を拭いながら短く報告する。
  「“三筋”つながった。――木工・染・紙。……みんな、“弱いとこ先に言う”って言ったら、顔が変わった」
  「ありがとうございます」
  咲凪は白布の「出口」に〈網=三筋〉と朱を置いた。
  そのとき、店先に白檀の匂い。琴葉と真珠が華やかに現れ、取り巻きが囁く。
  「やっぱり“安くするらしい”」
  「“返戻”は“逃げ”だって」
  春奈が貼り札の前に立ち、二語だけを通す。
  「『値は守る』『支払守る』」
  長い説明はしない。要点だけが残る。
  綾女の使いが最後に一言、針を投げた。
  「“顔”を失った商家など、誰も相手にしませんよ」
  咲凪は静かに首を振る。
  「“顔”は市井に向いています。――値を守り、支払を守る“顔”です」
  夕刻、荷捌き所の帳場。返戻の袋が空になり、受領印が二十余、整って並んだ。印の縁はどれも“斜浅”ではない。
  「本日の収支、黒は薄いが“沈没”は回避。……“動かした”のは――支払」
  明日美が計を締め、春奈が要約紙に二語。〈沈没回避〉〈網機能〉。
  「ここまで、皆さんの“働き”で持ちました」
  翔が荷台の上から、下働き一人ひとりに目を合わせて礼を置く。
  「坂を押してくれて助かる。掲示を貼ってくれて助かる。袋を結んでくれて助かる」
  礼は短く、熱は長く残る。
  咲凪は白布を畳む前に、三欄の最後の一語を置いた。
  〈入口――買い叩きの噂〉〈現象――値の恣意・心理圧〉〈出口――分割返戻・代替動線・網三筋〉。
  簪の歯で結び目を一度だけ締める。ほどけやすく、落ちない結び。狐火の指輪が衣の底で二度、柔らかく鼓を打った。
  ――買い叩きは、許さない。
  値は紙で、関係は人で守る。
  次は“家財”だ。なくなる前に、記す。