第34章_狐将の素性、明かす順番
評定は三日後――その刻限が近づくにつれて、家の外の空気がざわつき始めた。門前に立つ使いの足が増え、瓦版屋の版木は湿りを帯びる。綾女の縁から回った噂は「榊屋は狐に庇われた家」と言葉を変え、恐れと悪意が半分ずつ混じった色で街角を汚した。
「恐れで抑えても、長持ちはしない」
春奈が言い、段取りの紙を卓へ置く。
「“恐れ”ではなく“信頼”で。――素性の開示は“短く”“先に下働きへ”」
咲凪は白布を広げ、三つに欄を割った。〈入口:圧力の増大〉〈現象:噂と不安〉〈出口:短時間の開示で抑止〉。簪の歯で角を揃え、狐火の指輪を袖の底でそっと押さえる。
明日美が段取り表を読み上げる。
「場所は“狐の社”前。時間は“酉初”から“刻半”。――一、開示は“身分・目的・責任範囲”のみ。二、質疑は“要点三問”。三、先に“下働きと近隣の店”へ挨拶。四、瓦版屋には“要約紙”の写しを配る」
春奈は要約紙に二語を置く。〈短時間〉〈要点三〉。
大希は自分の弱みを先に置いた。
「俺、群衆の前で長く喋るとつかえる。……だから“並びと順路”を作るほうをやる。入は鳥居“こちら”、出は社務所“あちら”。『長く吐いて、短く進む』で誘導する」
「お願いします」
咲凪は白布の「出口」に小さく〈抑止=信〉と記す。
夕刻。狐の社の前は掃き清められ、灯は低く揃っている。社務所の前には桶の水と焙じ茶。翔は先に手桶を取り、掃き手の若い衆へ一つずつ礼を置いた。
「助かる。……今夜だけ、人の流れを“片回り”にしたい」
短い礼は早く広がり、若い衆は笑って頷いた。
酉の初め、広場に人が満ちる。奉公人、近隣の店、谷から来た世話人、そして瓦版屋。綾女の家の者も遠巻きに立ち、御祓役頭人の手の者が袖の陰で印籠をいじる。
春奈が掲示板に「開示の順」を貼り、声を通す。
「“身分・目的・責任範囲”。――三つだけです。質疑は三問まで。誰かを罰するためではなく、“不安を減らすため”の開示です」
咲凪は鳥居の根元に白布を敷き、三欄を皆に見えるように置いた。〈入口:噂と不安〉〈現象:圧力〉〈出口:短く開示〉。
翔が一歩、前へ出る。風が一度止まり、白い衣が夜の色に薄く縁取られた。
「俺は、白天狐の血を引く“狐将の若君”、名は翔(かける)」
ざわめきが膨らみかけ、すぐに沈む。続いた言葉が短かったからだ。
「目的は“被害を最小にすること”。――榊屋を特別扱いしない。“順序”で守る」
春奈が要約紙に二語。〈最小〉〈順序〉。
「責任範囲は“この社と、その縁の結び”。――“公事所の裁き”は人の道、俺は手を出さない。『紙』で決めることは、『紙』で決まる」
瓦版屋の筆が速く走り、見出しの素(もと)が紙に生まれる。
「三問まで、受ける」
最初の問いは、年配の職人から。
「狐将さま……いや、若君。俺らの“稼ぎ”に、口は出さねえか」
「出さない。――危ない橋の足場には、口を出す」
笑いが生まれ、張りつめていた肩が少し下りた。
二問目は若い母親。
「子が夜泣きの時、ここへ来てもよいのですか」
「来ていい。――ただ、灯は低く。紙は社務所に預け、名を結ぶ」
母親の目が潤み、彼女は深く頭を下げた。
三問目は、袖の陰から現れた御祓役頭人の使いだった。
「“狐将の若君”を名乗るなら、“印”を見せていただきたい」
広場の空気がざらりと動く。翔は頷き、咲凪へ目を送る。
「“社の誓紙(原本)”を」
咲凪は懐から撓(たわ)い紙を取り出し、鳥居の根元で開いた。そこには古い結び目と、淡く光る狐火の指印。
「『危険時は呼べ』『虚偽はつかない』『自分の足で歩く』。――三つの約束、双方の名」
狐火は自慢するように燃え上がらず、指先に短く鼓を打つだけ。社の榊が音もなく揺れ、古い風が入り、出た。
使いは印籠を持ち上げ、鼻で笑う。
「“印”は見えた。……ならば求む。“公印”の回復――封蝋室で“斜浅”とやらの騒ぎが起きたせいで、我らの手続きが滞っている。狐将の若君なら、“上”へ取りなせ」
春奈が即座に要約紙へ二語。〈回復要求〉〈外圧〉。
翔は首を横に振った。
「“上”の手続きは“紙”で正す。俺がするのは“場の安全”だけだ」
使いの口角が引きつる。
「“力”があるなら、使えばいい」
「“力”は“最小”に使う。――それが、俺の名乗りだ」
短い応答の連鎖が、場の芯を固めていく。
咲凪は白布の「現象」に一語〈外圧〉を足し、「出口」の欄に〈分界〉と朱を置いた。
「“神事”と“公事”の分界。――『誓紙』は“社”、『裁き』は“公事所”。――“印”は“封蝋室の是正”で回復します」
瓦版屋が「分界」の二字を大きく写し、子どもが「ぶんかい」と口の中で転がした。
春奈が刻半の鈴を鳴らす。
「開示はここまで。――“要点三”は守られました」
明日美が人の流れを片回りに誘導し、大希が「長く吐いて、短く進む」を合図に出す。行き交う肩がぶつからず、灯は誰の背にも近すぎない。
散開の間に、翔は一人ひとりの下働きへ礼を置いて回る。
「桶、助かった」「掲示を書いてくれて、助かる」「子の手を離さずにいてくれて、助かる」
礼は短く、熱は長く残る。恐れでは生まれない種類の静けさが、社の周りに落ちた。
最後に、咲凪が鳥居の根元で白布を畳み、簪の歯で結び目を一度だけ締める。ほどけやすく、落ちない結び。
〈入口――圧力増〉〈現象――噂と外圧〉〈出口――短時間開示・分界明確〉。
狐火の指輪が衣の底で二度、柔らかく鼓を打った。
広場の端で、綾女が扇を傾けて見ていた。唇は笑っているが、目は笑っていない。彼女の背後、路地の影に御祓役頭人の駕籠と印の包み。
「“公印の回復”が先。――そう申したでしょう」
使いが吐き捨て、駕籠は夜の通りへ滑っていく。
咲凪は小さく息を吐き、翔と視線を交わした。
「恐れではなく、信で抑えた」
「うん。……次は“紙”で止める番だ」
春奈が要約紙の隅に一語を置く。〈是正〉。
明日美は次の段取りを短く告げる。
「明朝、公事所へ。――“封蝋室の是正計画(案)”提出。『交代日・貸出簿・印影管理』の三本柱」
大希は自分の弱みを先に口にし、しかし眼差しは明るい。
「人には回れる。……“駕籠筋”の通りをもう一度、聞いてくる」
裕斗は一歩出て、跳ねかけた足を止めた。
「先に聞く。俺は――何を運ぶ?」
「『誓紙』の写しと“掲示の控え”。――落とさないよう“追い結び”で」
「了解!」
社の灯は低く、揃って揺れた。
素性は明かした。抑止は恐れでなく、信頼で。
――そして、外からの「印」の圧力には、“紙”で応じる。次の場は、公事所だ。
評定は三日後――その刻限が近づくにつれて、家の外の空気がざわつき始めた。門前に立つ使いの足が増え、瓦版屋の版木は湿りを帯びる。綾女の縁から回った噂は「榊屋は狐に庇われた家」と言葉を変え、恐れと悪意が半分ずつ混じった色で街角を汚した。
「恐れで抑えても、長持ちはしない」
春奈が言い、段取りの紙を卓へ置く。
「“恐れ”ではなく“信頼”で。――素性の開示は“短く”“先に下働きへ”」
咲凪は白布を広げ、三つに欄を割った。〈入口:圧力の増大〉〈現象:噂と不安〉〈出口:短時間の開示で抑止〉。簪の歯で角を揃え、狐火の指輪を袖の底でそっと押さえる。
明日美が段取り表を読み上げる。
「場所は“狐の社”前。時間は“酉初”から“刻半”。――一、開示は“身分・目的・責任範囲”のみ。二、質疑は“要点三問”。三、先に“下働きと近隣の店”へ挨拶。四、瓦版屋には“要約紙”の写しを配る」
春奈は要約紙に二語を置く。〈短時間〉〈要点三〉。
大希は自分の弱みを先に置いた。
「俺、群衆の前で長く喋るとつかえる。……だから“並びと順路”を作るほうをやる。入は鳥居“こちら”、出は社務所“あちら”。『長く吐いて、短く進む』で誘導する」
「お願いします」
咲凪は白布の「出口」に小さく〈抑止=信〉と記す。
夕刻。狐の社の前は掃き清められ、灯は低く揃っている。社務所の前には桶の水と焙じ茶。翔は先に手桶を取り、掃き手の若い衆へ一つずつ礼を置いた。
「助かる。……今夜だけ、人の流れを“片回り”にしたい」
短い礼は早く広がり、若い衆は笑って頷いた。
酉の初め、広場に人が満ちる。奉公人、近隣の店、谷から来た世話人、そして瓦版屋。綾女の家の者も遠巻きに立ち、御祓役頭人の手の者が袖の陰で印籠をいじる。
春奈が掲示板に「開示の順」を貼り、声を通す。
「“身分・目的・責任範囲”。――三つだけです。質疑は三問まで。誰かを罰するためではなく、“不安を減らすため”の開示です」
咲凪は鳥居の根元に白布を敷き、三欄を皆に見えるように置いた。〈入口:噂と不安〉〈現象:圧力〉〈出口:短く開示〉。
翔が一歩、前へ出る。風が一度止まり、白い衣が夜の色に薄く縁取られた。
「俺は、白天狐の血を引く“狐将の若君”、名は翔(かける)」
ざわめきが膨らみかけ、すぐに沈む。続いた言葉が短かったからだ。
「目的は“被害を最小にすること”。――榊屋を特別扱いしない。“順序”で守る」
春奈が要約紙に二語。〈最小〉〈順序〉。
「責任範囲は“この社と、その縁の結び”。――“公事所の裁き”は人の道、俺は手を出さない。『紙』で決めることは、『紙』で決まる」
瓦版屋の筆が速く走り、見出しの素(もと)が紙に生まれる。
「三問まで、受ける」
最初の問いは、年配の職人から。
「狐将さま……いや、若君。俺らの“稼ぎ”に、口は出さねえか」
「出さない。――危ない橋の足場には、口を出す」
笑いが生まれ、張りつめていた肩が少し下りた。
二問目は若い母親。
「子が夜泣きの時、ここへ来てもよいのですか」
「来ていい。――ただ、灯は低く。紙は社務所に預け、名を結ぶ」
母親の目が潤み、彼女は深く頭を下げた。
三問目は、袖の陰から現れた御祓役頭人の使いだった。
「“狐将の若君”を名乗るなら、“印”を見せていただきたい」
広場の空気がざらりと動く。翔は頷き、咲凪へ目を送る。
「“社の誓紙(原本)”を」
咲凪は懐から撓(たわ)い紙を取り出し、鳥居の根元で開いた。そこには古い結び目と、淡く光る狐火の指印。
「『危険時は呼べ』『虚偽はつかない』『自分の足で歩く』。――三つの約束、双方の名」
狐火は自慢するように燃え上がらず、指先に短く鼓を打つだけ。社の榊が音もなく揺れ、古い風が入り、出た。
使いは印籠を持ち上げ、鼻で笑う。
「“印”は見えた。……ならば求む。“公印”の回復――封蝋室で“斜浅”とやらの騒ぎが起きたせいで、我らの手続きが滞っている。狐将の若君なら、“上”へ取りなせ」
春奈が即座に要約紙へ二語。〈回復要求〉〈外圧〉。
翔は首を横に振った。
「“上”の手続きは“紙”で正す。俺がするのは“場の安全”だけだ」
使いの口角が引きつる。
「“力”があるなら、使えばいい」
「“力”は“最小”に使う。――それが、俺の名乗りだ」
短い応答の連鎖が、場の芯を固めていく。
咲凪は白布の「現象」に一語〈外圧〉を足し、「出口」の欄に〈分界〉と朱を置いた。
「“神事”と“公事”の分界。――『誓紙』は“社”、『裁き』は“公事所”。――“印”は“封蝋室の是正”で回復します」
瓦版屋が「分界」の二字を大きく写し、子どもが「ぶんかい」と口の中で転がした。
春奈が刻半の鈴を鳴らす。
「開示はここまで。――“要点三”は守られました」
明日美が人の流れを片回りに誘導し、大希が「長く吐いて、短く進む」を合図に出す。行き交う肩がぶつからず、灯は誰の背にも近すぎない。
散開の間に、翔は一人ひとりの下働きへ礼を置いて回る。
「桶、助かった」「掲示を書いてくれて、助かる」「子の手を離さずにいてくれて、助かる」
礼は短く、熱は長く残る。恐れでは生まれない種類の静けさが、社の周りに落ちた。
最後に、咲凪が鳥居の根元で白布を畳み、簪の歯で結び目を一度だけ締める。ほどけやすく、落ちない結び。
〈入口――圧力増〉〈現象――噂と外圧〉〈出口――短時間開示・分界明確〉。
狐火の指輪が衣の底で二度、柔らかく鼓を打った。
広場の端で、綾女が扇を傾けて見ていた。唇は笑っているが、目は笑っていない。彼女の背後、路地の影に御祓役頭人の駕籠と印の包み。
「“公印の回復”が先。――そう申したでしょう」
使いが吐き捨て、駕籠は夜の通りへ滑っていく。
咲凪は小さく息を吐き、翔と視線を交わした。
「恐れではなく、信で抑えた」
「うん。……次は“紙”で止める番だ」
春奈が要約紙の隅に一語を置く。〈是正〉。
明日美は次の段取りを短く告げる。
「明朝、公事所へ。――“封蝋室の是正計画(案)”提出。『交代日・貸出簿・印影管理』の三本柱」
大希は自分の弱みを先に口にし、しかし眼差しは明るい。
「人には回れる。……“駕籠筋”の通りをもう一度、聞いてくる」
裕斗は一歩出て、跳ねかけた足を止めた。
「先に聞く。俺は――何を運ぶ?」
「『誓紙』の写しと“掲示の控え”。――落とさないよう“追い結び”で」
「了解!」
社の灯は低く、揃って揺れた。
素性は明かした。抑止は恐れでなく、信頼で。
――そして、外からの「印」の圧力には、“紙”で応じる。次の場は、公事所だ。


