第33章_家督の座、公開の場で
明後日――と綾女が言ったその約束は、まるで試験の刻限のように家中へ染み渡った。広間の畳は朝から打ち直され、帳場からは帳合写しと照合票の束が運ばれる。梁の上まで白檀の香は届かない。今日は香ではなく、紙と声が場を満たす日だった。
午の初め、公事所からの立会人と旧来の親族衆が揃い、榊屋広間の上座に低い几帳が据えられる。綾女は薄紅の衣でそこに座し、琴葉と真珠は左右へ。咲凪は下座に白布を敷き、三欄に割った。〈入口:家督の適格〉〈現象:利益相反と虚偽〉〈出口:家の維持と統治〉。簪の歯で角を揃え、狐火の指輪を袖の底でそっと静める。
春奈が立ち、簡潔な書付を掲げる。
「『論点整理書』――一、家督の要件(資金の健全性・手続の遵守・奉公人の安寧)。二、利益相反(親族会社名義“綾女”と榊屋の発注関係)。三、虚偽申述の疑い(“即日納入”伝票および印影“斜浅”)。以上を“家中評定”の論点とします」
親族の一人が咳払いをし、「論点は三つだな」と復唱する。声に骨が通る。
明日美が提出順を短く告げる。
「一、〈外注一覧〉と〈照合票〉。二、〈香痕写し〉と〈動線図〉。三、〈登記写し(親族会社)〉。四、〈印影比較表〉。五、〈支払停止届控〉」
「了解」
咲凪は白布の「入口」に朱で〈評定〉と置き、視線を上座へ上げる。
「公開で進めます。――“Yes/No”で、答えの形を揃えてください」
最初の質問。
「親族会社“山科連(やましなづら)”の代表名義は“綾女”で、間違いありませんか。“Yes/No”」
綾女は扇を動かさない。
「……Yes」
春奈が即座に書付に朱を入れ、要約紙に二語。〈名義=綾女〉〈Yes〉。
第二の質問。
「山科連から榊屋への外注は、三か月で二十六口。そのうち“実体なし”が三、“即日納入”で“許可欄空白”が三。――“Yes/No”」
綾女は視線だけを横へ滑らせる。琴葉が扇で口元を隠し、真珠が足袋の先で畳を叩いた。
「……Yes」
親族衆の間にさざ波が走る。明日美が紙束の角を揃え、春奈が「二十六口・実体なし三・許可空白三」と読み上げる。
第三の質問。
「“外注先・白梅装束所”は“翌日仕立て”が規定。即日の場合は“例外許可”が要る。――許可は取得しましたか。“Yes/No”」
沈黙。扇の骨が一度だけ鳴る。
「……No」
咲凪は白布の「現象」に〈許可=無〉と置き、第四の質問へ畳みかけた。
「“即日納入”伝票の“承認印”に“斜浅”の欠けがある。封蝋室で確認された“癖”と一致。――承知していますか。“Yes/No”」
綾女の目が細くなる。
「印の欠けは、職人の癖。私の責ではないわ」
春奈が短く切る。
「“Yes/No”」
「……Yes(欠けはある)」
印の欠けの存在は、ここで公に確定した。
ここで咲凪は一息置き、広間の左右へ目を巡らす。奉公人たちが固唾を呑む。翔は控えの列から半歩だけ出て、下働きへ礼を置いた。
「この場を清めてくれて、助かる」
短い礼が、場の緊張をわずかに緩める。親族衆の数名が、肩の力を抜いた。
咲凪は第五の質問へ。
「“利益相反”――代表名義が“綾女”の親族会社に、榊屋が発注を集中させることは、“家”の利益と衝突しています。“Yes/No”」
「“相反”などしないわ。家の顔を保つために必要な“社交費”よ」
「“Yes/No”」
扇がぴたりと止まり、綾女は小さく舌を打った。
「……Yes(衝突の疑いはある)」
春奈が即座に朱を入れる。〈相反=Yes〉。
親族の長老格が口を開く。
「“疑い”ではなく“結果”を見せよ」
明日美が〈貸借照合〉の見開きを上座へ差し出す。
「“支払停止”した分を除く今期の収支は、停止なしの場合より“黒”が三分の一削れる見込みでした。――停止により“沈没”を回避」
「数字は嘘をつきません」
咲凪は白布の「出口」に〈維持〉と置いた。
ここで琴葉が声を荒げる。
「家の“顔”を潰すの!」
「“顔”は“骨”の上で笑うものです。――骨が折れていれば、顔は保てない」
真珠が続けて噛みつく。
「奉公人にまで“Yes/No”を言わせる気?」
「奉公人の安全は要件の一つ。――質問は上座に向けています」
折れない声に、二人の息が合わず、言葉が途切れた。
綾女は扇を畳み、扇骨の先で畳を一度だけ突いた。
「――それで、家督を“渡せ”と?」
「“今すぐ”とは言いません。――“評定の期日”までに、以下の“是正”をお約束いただけるなら」
咲凪は三枚の紙を並べる。
「一、“外注の再入札”。二、“親族会社との取引一時停止”。三、“承認印の管理の是正”」
「応じられないなら?」
「“家中評定”にて、家督の座の“仮停止”を求めます」
やり取りを記す春奈の筆は淀みなく、要約紙に三語が追加される。〈再入札〉〈停止〉〈是正〉。明日美は提出順の束から一枚を抜き、親族衆の前へ。
「『公開質問状(家中)』。先ほどの“十問”を記し、回答欄を設けています。“Yes/No”は空白にしません」
親族衆の何人かが身を乗り出し、紙面を覗き込む。短い言葉だから、心に残る。
このとき、広間の入口に人の影。郡の書吏が小走りに現れ、竹札を差し出した。
「“封蝋室”の“貸出簿の空白”――監察が“調査開始”の文を回しました。親族会社“山科連”との“通過日”が一致する箇所が見つかっています」
親族衆の視線が綾女へ集中する。綾女の扇の骨が、初めて小さく揺れた。
沈黙ののち、綾女は微笑の形だけ作った。
「――家のためを思えばこそ、私が“上(かみ)”と合うの。……分かるかしら」
その「上」という一語に、咲凪は白布の余白へ小さく線を置く。〈上=外部権力〉。狐火の指輪が衣の底で一度、微かに鼓を打った。
親族衆の長老が結語を告げる。
「本日の“公開の場”にて――利益相反の疑い、虚偽申述の疑い、承認印管理の不備、いずれも“是正”の対象と定む。『公開質問状』の“未回答”があれば、三日の後、“家督仮停止”の評定を開く」
槌の代わりに、竹札が畳に軽く打たれた。評定は区切られ、奉公人たちの肩がいっせいに落ちる。翔は彼ら一人ひとりに目を合わせ、短く礼を置いた。
「助かったのは、君たちの“働き”だ」
広間が片づけに移る頃、大希がそっと咲凪へ耳打ちする。
「――門の外で、“御祓役頭人”の駕籠を見た。綾女様の家の者が、駕籠の手と“印の包み”をやりとりしてた」
弱みを先に置くいつもの声色だが、言葉は確かだった。咲凪は白布の角を押さえ、春奈に目で合図する。春奈は要約紙の隅に一語を記した。〈合流の動き〉。
明日美は素早く段取りを引く。
「“駕籠筋”の見取り。――『門札の控え』を照合、“出入り時刻”の紙に落とす。今日中に“回覧”で共有」
「お願いします」
咲凪は「出口」に二語を添え、簪の歯で結び目を一度だけ締めた。ほどけやすく、落ちない結び。
〈公開質問状〉〈家督仮停止・三日後〉。
明後日――と綾女が言ったその約束は、まるで試験の刻限のように家中へ染み渡った。広間の畳は朝から打ち直され、帳場からは帳合写しと照合票の束が運ばれる。梁の上まで白檀の香は届かない。今日は香ではなく、紙と声が場を満たす日だった。
午の初め、公事所からの立会人と旧来の親族衆が揃い、榊屋広間の上座に低い几帳が据えられる。綾女は薄紅の衣でそこに座し、琴葉と真珠は左右へ。咲凪は下座に白布を敷き、三欄に割った。〈入口:家督の適格〉〈現象:利益相反と虚偽〉〈出口:家の維持と統治〉。簪の歯で角を揃え、狐火の指輪を袖の底でそっと静める。
春奈が立ち、簡潔な書付を掲げる。
「『論点整理書』――一、家督の要件(資金の健全性・手続の遵守・奉公人の安寧)。二、利益相反(親族会社名義“綾女”と榊屋の発注関係)。三、虚偽申述の疑い(“即日納入”伝票および印影“斜浅”)。以上を“家中評定”の論点とします」
親族の一人が咳払いをし、「論点は三つだな」と復唱する。声に骨が通る。
明日美が提出順を短く告げる。
「一、〈外注一覧〉と〈照合票〉。二、〈香痕写し〉と〈動線図〉。三、〈登記写し(親族会社)〉。四、〈印影比較表〉。五、〈支払停止届控〉」
「了解」
咲凪は白布の「入口」に朱で〈評定〉と置き、視線を上座へ上げる。
「公開で進めます。――“Yes/No”で、答えの形を揃えてください」
最初の質問。
「親族会社“山科連(やましなづら)”の代表名義は“綾女”で、間違いありませんか。“Yes/No”」
綾女は扇を動かさない。
「……Yes」
春奈が即座に書付に朱を入れ、要約紙に二語。〈名義=綾女〉〈Yes〉。
第二の質問。
「山科連から榊屋への外注は、三か月で二十六口。そのうち“実体なし”が三、“即日納入”で“許可欄空白”が三。――“Yes/No”」
綾女は視線だけを横へ滑らせる。琴葉が扇で口元を隠し、真珠が足袋の先で畳を叩いた。
「……Yes」
親族衆の間にさざ波が走る。明日美が紙束の角を揃え、春奈が「二十六口・実体なし三・許可空白三」と読み上げる。
第三の質問。
「“外注先・白梅装束所”は“翌日仕立て”が規定。即日の場合は“例外許可”が要る。――許可は取得しましたか。“Yes/No”」
沈黙。扇の骨が一度だけ鳴る。
「……No」
咲凪は白布の「現象」に〈許可=無〉と置き、第四の質問へ畳みかけた。
「“即日納入”伝票の“承認印”に“斜浅”の欠けがある。封蝋室で確認された“癖”と一致。――承知していますか。“Yes/No”」
綾女の目が細くなる。
「印の欠けは、職人の癖。私の責ではないわ」
春奈が短く切る。
「“Yes/No”」
「……Yes(欠けはある)」
印の欠けの存在は、ここで公に確定した。
ここで咲凪は一息置き、広間の左右へ目を巡らす。奉公人たちが固唾を呑む。翔は控えの列から半歩だけ出て、下働きへ礼を置いた。
「この場を清めてくれて、助かる」
短い礼が、場の緊張をわずかに緩める。親族衆の数名が、肩の力を抜いた。
咲凪は第五の質問へ。
「“利益相反”――代表名義が“綾女”の親族会社に、榊屋が発注を集中させることは、“家”の利益と衝突しています。“Yes/No”」
「“相反”などしないわ。家の顔を保つために必要な“社交費”よ」
「“Yes/No”」
扇がぴたりと止まり、綾女は小さく舌を打った。
「……Yes(衝突の疑いはある)」
春奈が即座に朱を入れる。〈相反=Yes〉。
親族の長老格が口を開く。
「“疑い”ではなく“結果”を見せよ」
明日美が〈貸借照合〉の見開きを上座へ差し出す。
「“支払停止”した分を除く今期の収支は、停止なしの場合より“黒”が三分の一削れる見込みでした。――停止により“沈没”を回避」
「数字は嘘をつきません」
咲凪は白布の「出口」に〈維持〉と置いた。
ここで琴葉が声を荒げる。
「家の“顔”を潰すの!」
「“顔”は“骨”の上で笑うものです。――骨が折れていれば、顔は保てない」
真珠が続けて噛みつく。
「奉公人にまで“Yes/No”を言わせる気?」
「奉公人の安全は要件の一つ。――質問は上座に向けています」
折れない声に、二人の息が合わず、言葉が途切れた。
綾女は扇を畳み、扇骨の先で畳を一度だけ突いた。
「――それで、家督を“渡せ”と?」
「“今すぐ”とは言いません。――“評定の期日”までに、以下の“是正”をお約束いただけるなら」
咲凪は三枚の紙を並べる。
「一、“外注の再入札”。二、“親族会社との取引一時停止”。三、“承認印の管理の是正”」
「応じられないなら?」
「“家中評定”にて、家督の座の“仮停止”を求めます」
やり取りを記す春奈の筆は淀みなく、要約紙に三語が追加される。〈再入札〉〈停止〉〈是正〉。明日美は提出順の束から一枚を抜き、親族衆の前へ。
「『公開質問状(家中)』。先ほどの“十問”を記し、回答欄を設けています。“Yes/No”は空白にしません」
親族衆の何人かが身を乗り出し、紙面を覗き込む。短い言葉だから、心に残る。
このとき、広間の入口に人の影。郡の書吏が小走りに現れ、竹札を差し出した。
「“封蝋室”の“貸出簿の空白”――監察が“調査開始”の文を回しました。親族会社“山科連”との“通過日”が一致する箇所が見つかっています」
親族衆の視線が綾女へ集中する。綾女の扇の骨が、初めて小さく揺れた。
沈黙ののち、綾女は微笑の形だけ作った。
「――家のためを思えばこそ、私が“上(かみ)”と合うの。……分かるかしら」
その「上」という一語に、咲凪は白布の余白へ小さく線を置く。〈上=外部権力〉。狐火の指輪が衣の底で一度、微かに鼓を打った。
親族衆の長老が結語を告げる。
「本日の“公開の場”にて――利益相反の疑い、虚偽申述の疑い、承認印管理の不備、いずれも“是正”の対象と定む。『公開質問状』の“未回答”があれば、三日の後、“家督仮停止”の評定を開く」
槌の代わりに、竹札が畳に軽く打たれた。評定は区切られ、奉公人たちの肩がいっせいに落ちる。翔は彼ら一人ひとりに目を合わせ、短く礼を置いた。
「助かったのは、君たちの“働き”だ」
広間が片づけに移る頃、大希がそっと咲凪へ耳打ちする。
「――門の外で、“御祓役頭人”の駕籠を見た。綾女様の家の者が、駕籠の手と“印の包み”をやりとりしてた」
弱みを先に置くいつもの声色だが、言葉は確かだった。咲凪は白布の角を押さえ、春奈に目で合図する。春奈は要約紙の隅に一語を記した。〈合流の動き〉。
明日美は素早く段取りを引く。
「“駕籠筋”の見取り。――『門札の控え』を照合、“出入り時刻”の紙に落とす。今日中に“回覧”で共有」
「お願いします」
咲凪は「出口」に二語を添え、簪の歯で結び目を一度だけ締めた。ほどけやすく、落ちない結び。
〈公開質問状〉〈家督仮停止・三日後〉。


