第32章_白檀の部屋、姉妹の虚飾
申の刻、榊屋の奥。姉妹の部屋は白檀の香がいつもより濃く、障子の桟まで薫きしめたように甘かった。咲凪は敷板に白布を広げ、三つに欄を割る。〈入口:虚飾伝票〉〈現象:時刻と証言の矛盾〉〈出口:香痕と動線で確定〉。簪の歯で角を揃え、狐火の指輪を袖の底で静めた。
明日美が先に立ち、段取りを短く告げる。
「一、部屋内の“動線”を確認。二、伝票と“納入時刻”の照合。三、香痕写しの採取。――立会は下働き二名」
「入口は“紙”。現象は“匂い”。出口は“時間”」
咲凪が白布に三語を書き、簪の歯を軽く打つ。
几帳の奥から、琴葉と真珠が現れた。衣は浅葱と薄紅、指には絹の匂い。琴葉は扇で鼻先を払う。
「部屋を嗅ぎ回るの? 野暮ね。伝票なら、ここに“たくさん”あるわ」
卓に投げられた伝票はどれも整った筆致で、末尾に〈即日納入〉と朱で強く押されている。
「“即日”は便利な言葉です。でも、脚は一本しかありません」
咲凪は虚飾伝票の束から三枚を抜き、納入時刻の欄を指で叩いた。
部屋の隅で、下働きの娘が緊張して立つ。翔がその肩の高さへ視線を落とし、最小の礼を置いた。
「忙しいところ、助かる。――見たことだけでいい」
礼は短く、空気の角が丸くなる。娘は小さく頷き、袖口の黒い粉を指で示した。
「“朝餉前”に、白檀の粉が“廊下”に落ちてました。香を焚いたのは“卯刻”の少しあと……」
「ありがとう。“卯刻”」
明日美が板図の廊下に朱を入れる。〈卯刻:香粉〉。
咲凪は部屋の中央に小皿を置き、薄紙を張る。簪の歯で紙を一度なぞり、香の筋を“写し取る”。
「“香痕写し”。――香の層は“芯→油→煙”。“芯”の白檀が濃いのは、焚いて“間が短い”ということ」
春奈が要約紙に二語を置く。〈芯濃〉〈間短〉。
「“即日納入(夕刻)”の伝票なら、“朝の芯濃”とは一致しません」
琴葉が扇をぱたぱたと速める。
「朝も焚くし、夜も焚くし。香ぐらい自由でしょう?」
「自由です。――ただ“紙”と“匂い”の時計は嘘をつかない」
咲凪は虚飾伝票の一枚を指で折り、簪の歯で端を撫でた。墨の浸みが浅く、円の縁が硬い。
「“油気”。――紙が“札紙”ではなく“書付紙”。納品伝票の“正規紙”とは違います」
春奈が筆で追う。〈紙質相違〉。
真珠が拗ねた顔で口を尖らせた。
「でも“仕立て”は来たの。姉様のお友だちの“白梅装束所”が、ほら、即日で」
「装束所は“翌日仕立て”が規定。――即日は“例外許可”が要ります」
明日美が伝票の隅を指し示す。〈許可欄=空白〉。
「空白は“語る”。許可は落ちていない」
咲凪は白布の「現象」にもう一つ線を引いた。〈動線〉。
「“納入が夕刻”なら、午下は“出”の動線が多いはず。――廊下の板の粉は“卯刻”。“夕刻の粉”はありません」
下働きの若い男が手を挙げる。翔が目だけで促すと、彼は正直に言った。
「“夕刻”は、香の匂いが“薄かった”。掃き出しの粉も、なかった」
「助かる」
翔の礼がまた短く落ちる。
琴葉の扇がぴたりと止まり、次の瞬間、脇の花器が彼女の手で倒れた。青磁が砕け、白檀の香がさらに立つ。
「っ……! 証拠、証拠ってうるさいのよ!」
裕斗が飛び込む気配――が、一瞬止まる。
「先に聞く。俺は、何をする?」
「破片の“番”。――誰も怪我をしないよう“踏み止め札”を」
咲凪が即答すると、裕斗はすぐ頭を下げ、破片の周りへ“追い結び”で縄を張った。
「すみません、派手に……。片づけます、弁償も」
謝罪は速く、空気は戻る。
白布の上に、証跡が揃う。〈香痕写し=芯濃・卯刻〉〈伝票=即日・夕刻〉〈許可欄=空白〉〈紙質相違〉〈動線=夕刻痕跡なし〉。
「“即日納入”の三枚は、“朝の香”と矛盾。“夕刻の痕跡”がない。――“虚飾”です」
春奈が二語で骨を置く。〈即日偽〉〈虚飾〉。
真珠が半歩退き、琴葉を見る。琴葉は口紅を噛み、扇で唇を隠した。
「……姉妹で“顔”を立てたのよ。社交のために“即日”って書いたら、何が悪いの」
「“顔”は“費用対効果・安全・倫理”の順で立てます。――“虚偽”は“家”を沈める」
咲凪は虚飾伝票の下へ、香痕写しを重ねる。二つの輪郭は、重ならない。
障子の外、衣擦れ。綾女が静かに入ってきた。薄紅の衣、黒の帯。目は笑っていない。
「若いのに、よく喋る口ね。……家の“顔”は誰が作るのかしら」
「“家の顔”は、ここで働く皆で作ります。――“紙”が骨、“礼”が筋」
翔が下働きへもう一度だけ礼を置く。
「助かったのは、君たちの“見たこと”だ」
綾女は白布の上を冷ややかに見下ろし、扇の骨で虚飾伝票を一枚だけ跳ねた。
「その紙の山で、家は商いができるの? “家督”は、静かに渡したほうがいいのよ」
部屋の空気がわずかに凍る。春奈が要約紙の隅に一語。〈家督移譲要求〉。
咲凪は白布の「出口」に二語を置いた。〈確定〉〈送達〉。
「虚飾伝票三枚は“支払停止”。香痕写しと合わせ、公事所へ“虚偽申述”の可能性として写しを送ります。――“家督”は“公開の場(家中評定)”で扱います」
綾女の唇がわずかに歪む。
「公開の場? お望みどおり。……親族衆と“明後日”、広間に並べましょう」
「承知しました」
明日美が即座に“評定申請”の書付を広げ、日時を朱で記した。
退がる寸前、咲凪は簪の歯で白布の角を一度だけ締める。ほどけやすく、落ちない結び。
〈入口――虚飾伝票〉〈現象――香と時刻の矛盾〉〈出口――支払停止・評定へ〉。
狐火の指輪が衣の底で、二度、柔らかく鼓を打つ。
白檀の部屋は甘い。だが、香は時計の針を隠せない。
数字は嘘をつかず、匂いは時間を語る。
次は、家中評定。――“顔”より先に、骨を出す。
申の刻、榊屋の奥。姉妹の部屋は白檀の香がいつもより濃く、障子の桟まで薫きしめたように甘かった。咲凪は敷板に白布を広げ、三つに欄を割る。〈入口:虚飾伝票〉〈現象:時刻と証言の矛盾〉〈出口:香痕と動線で確定〉。簪の歯で角を揃え、狐火の指輪を袖の底で静めた。
明日美が先に立ち、段取りを短く告げる。
「一、部屋内の“動線”を確認。二、伝票と“納入時刻”の照合。三、香痕写しの採取。――立会は下働き二名」
「入口は“紙”。現象は“匂い”。出口は“時間”」
咲凪が白布に三語を書き、簪の歯を軽く打つ。
几帳の奥から、琴葉と真珠が現れた。衣は浅葱と薄紅、指には絹の匂い。琴葉は扇で鼻先を払う。
「部屋を嗅ぎ回るの? 野暮ね。伝票なら、ここに“たくさん”あるわ」
卓に投げられた伝票はどれも整った筆致で、末尾に〈即日納入〉と朱で強く押されている。
「“即日”は便利な言葉です。でも、脚は一本しかありません」
咲凪は虚飾伝票の束から三枚を抜き、納入時刻の欄を指で叩いた。
部屋の隅で、下働きの娘が緊張して立つ。翔がその肩の高さへ視線を落とし、最小の礼を置いた。
「忙しいところ、助かる。――見たことだけでいい」
礼は短く、空気の角が丸くなる。娘は小さく頷き、袖口の黒い粉を指で示した。
「“朝餉前”に、白檀の粉が“廊下”に落ちてました。香を焚いたのは“卯刻”の少しあと……」
「ありがとう。“卯刻”」
明日美が板図の廊下に朱を入れる。〈卯刻:香粉〉。
咲凪は部屋の中央に小皿を置き、薄紙を張る。簪の歯で紙を一度なぞり、香の筋を“写し取る”。
「“香痕写し”。――香の層は“芯→油→煙”。“芯”の白檀が濃いのは、焚いて“間が短い”ということ」
春奈が要約紙に二語を置く。〈芯濃〉〈間短〉。
「“即日納入(夕刻)”の伝票なら、“朝の芯濃”とは一致しません」
琴葉が扇をぱたぱたと速める。
「朝も焚くし、夜も焚くし。香ぐらい自由でしょう?」
「自由です。――ただ“紙”と“匂い”の時計は嘘をつかない」
咲凪は虚飾伝票の一枚を指で折り、簪の歯で端を撫でた。墨の浸みが浅く、円の縁が硬い。
「“油気”。――紙が“札紙”ではなく“書付紙”。納品伝票の“正規紙”とは違います」
春奈が筆で追う。〈紙質相違〉。
真珠が拗ねた顔で口を尖らせた。
「でも“仕立て”は来たの。姉様のお友だちの“白梅装束所”が、ほら、即日で」
「装束所は“翌日仕立て”が規定。――即日は“例外許可”が要ります」
明日美が伝票の隅を指し示す。〈許可欄=空白〉。
「空白は“語る”。許可は落ちていない」
咲凪は白布の「現象」にもう一つ線を引いた。〈動線〉。
「“納入が夕刻”なら、午下は“出”の動線が多いはず。――廊下の板の粉は“卯刻”。“夕刻の粉”はありません」
下働きの若い男が手を挙げる。翔が目だけで促すと、彼は正直に言った。
「“夕刻”は、香の匂いが“薄かった”。掃き出しの粉も、なかった」
「助かる」
翔の礼がまた短く落ちる。
琴葉の扇がぴたりと止まり、次の瞬間、脇の花器が彼女の手で倒れた。青磁が砕け、白檀の香がさらに立つ。
「っ……! 証拠、証拠ってうるさいのよ!」
裕斗が飛び込む気配――が、一瞬止まる。
「先に聞く。俺は、何をする?」
「破片の“番”。――誰も怪我をしないよう“踏み止め札”を」
咲凪が即答すると、裕斗はすぐ頭を下げ、破片の周りへ“追い結び”で縄を張った。
「すみません、派手に……。片づけます、弁償も」
謝罪は速く、空気は戻る。
白布の上に、証跡が揃う。〈香痕写し=芯濃・卯刻〉〈伝票=即日・夕刻〉〈許可欄=空白〉〈紙質相違〉〈動線=夕刻痕跡なし〉。
「“即日納入”の三枚は、“朝の香”と矛盾。“夕刻の痕跡”がない。――“虚飾”です」
春奈が二語で骨を置く。〈即日偽〉〈虚飾〉。
真珠が半歩退き、琴葉を見る。琴葉は口紅を噛み、扇で唇を隠した。
「……姉妹で“顔”を立てたのよ。社交のために“即日”って書いたら、何が悪いの」
「“顔”は“費用対効果・安全・倫理”の順で立てます。――“虚偽”は“家”を沈める」
咲凪は虚飾伝票の下へ、香痕写しを重ねる。二つの輪郭は、重ならない。
障子の外、衣擦れ。綾女が静かに入ってきた。薄紅の衣、黒の帯。目は笑っていない。
「若いのに、よく喋る口ね。……家の“顔”は誰が作るのかしら」
「“家の顔”は、ここで働く皆で作ります。――“紙”が骨、“礼”が筋」
翔が下働きへもう一度だけ礼を置く。
「助かったのは、君たちの“見たこと”だ」
綾女は白布の上を冷ややかに見下ろし、扇の骨で虚飾伝票を一枚だけ跳ねた。
「その紙の山で、家は商いができるの? “家督”は、静かに渡したほうがいいのよ」
部屋の空気がわずかに凍る。春奈が要約紙の隅に一語。〈家督移譲要求〉。
咲凪は白布の「出口」に二語を置いた。〈確定〉〈送達〉。
「虚飾伝票三枚は“支払停止”。香痕写しと合わせ、公事所へ“虚偽申述”の可能性として写しを送ります。――“家督”は“公開の場(家中評定)”で扱います」
綾女の唇がわずかに歪む。
「公開の場? お望みどおり。……親族衆と“明後日”、広間に並べましょう」
「承知しました」
明日美が即座に“評定申請”の書付を広げ、日時を朱で記した。
退がる寸前、咲凪は簪の歯で白布の角を一度だけ締める。ほどけやすく、落ちない結び。
〈入口――虚飾伝票〉〈現象――香と時刻の矛盾〉〈出口――支払停止・評定へ〉。
狐火の指輪が衣の底で、二度、柔らかく鼓を打つ。
白檀の部屋は甘い。だが、香は時計の針を隠せない。
数字は嘘をつかず、匂いは時間を語る。
次は、家中評定。――“顔”より先に、骨を出す。


