第31章_家の帳場、数字は嘘をつかない
帰還から七日。午の刻の光は帳場の格子を斜めに切り、珠算の玉に小さな影を落とした。榊屋の大棚には、仕入帳・売掛帳・諸口の帳面が背文字を揃えて並ぶ。咲凪は板卓に白布をひき、三つに欄を割った。〈入口:貸借照合〉〈現象:外注費の偏り〉〈出口:支払停止・照会〉。簪の歯で角を揃え、狐火の指輪を袖の底で静める。
明日美が逆算表を脇に置き、短く息を整える。
「本日の順。――一、三か月分の外注費を“日付・支払・承認印”でまとめる。二、取引先別に“帳合照合”。三、支払停止届の作成。四、送達」
「了解。入口は“外注費”。現象が“偏り”なら、出口は“止める”」
咲凪は白布の余白に三行を落とす。〈日付〉〈印〉〈実績〉。
珠算が鳴る。借方は規則正しいのに、貸方の外注勘定が月の真ん中で急に太っている。しかも承認印の一つに見覚えのある欠け。
「“斜浅”」
咲凪は懐紙で印影を押さえ、簪の歯で縁を撫でた。
「封蝋室と同じ癖。――社(やしろ)経由の“親族会社”の印章と類似。名義は“綾女”」
明日美が即座に“外注一覧”の末尾に朱で〈綾女名義〉と注記する。
照合に進む。帳場端の小机に腰を下ろした大希が、最初に自分の弱みを置いた。
「俺、字の大群は詰まる。……でも、人には回れる。今から“相手先”に短い言葉で照会してくる。『発注日・作業日・納入物』――三つだけ」
「お願いします」
咲凪は“帳合照合票”を三十枚抜き、宛名を振る。
そこへ、衣擦れ。義姉の琴葉が白檀の薫物をきつく纏って入ってきた。後ろには真珠。
「外注、外注って、細かいわねえ。こっちは“顔”で払ってあげてるのに」
「“顔”は帳面になりません」
咲凪は目を上げ、白布の一段目を指で叩く。
「入口――請書。現象――“顔”。出口――“止める”」
真珠が唇を尖らせる。
「買い叩きの噂、もう回ってるわよ? 姉様(ねえさま)がお知り合いに“値切られたらしい”って」
明日美が短く割って入る。
「“買い叩き”は発注側の罪。――言葉が逆です。貼り紙の順も逆。今から訂正回覧を流します」
姉妹がふくれた顔で去ると、帳場に湯気の匂いが戻る。咲凪は承認印の列を一本一本追い、違和のある印影に紙片を挟む。
「“外注先・白梅装束所”の請書、作業日と納入日が“逆”。――装束所は“翌日仕立て”はしない」
明日美が指で示す。
「承認印が“斜浅”。――親族会社の“紹介”経由の可能性が高い」
白布の「現象」に二語。〈日付逆〉〈斜浅〉。
その時、店先で言い合いの声。大希が戻ったかと顔を上げると、別の客が帳場に飛び込んできた。
「さ、榊屋さん、聞いたよ。“値を叩いた”って! うちは――」
「違います」
咲凪は即答し、帳合照合票の見本を差し出す。
「“発注日・作業日・納入物”。三つ、読み合わせをお願いします。――“買い叩き”の噂は虚。今、出所を洗っています」
そこへ大希が駆け戻り、息を整えながら短く叫ぶ。
「回った。……『噂は“姉妹の部屋”発』。白檀の香跡が濃い。――でも、職人衆は“弱み先出し”で、戻ってくれる」
弱みを先に出す声は、空気を柔らかくする。客は頷き、照合票に名を記した。
午後、照合票の返りが揃い始める。半数は“作業実績あり”。しかし幾つかは、同じ筆跡で“納入物・空白”。
「“外注実体なし”。――帳面だけの外注」
咲凪は白布の「出口」に一語〈停止〉を置き、筆を走らせる。
「“支払停止届”を作ります。対象は“外注未実施・承認印斜浅”」
明日美は手早く様式を重ね、必要添付の順を口にする。
「一、請書写し。二、照合票。三、印影比較。四、臨時帳合の伺い。――“今日中”に送達」
義姉の部屋から白檀の香が濃く流れ、琴葉と真珠が怒りの足で戻ってくる。
「商家の顔に泥を塗るの?」
「泥は“外注実体なし”を作る指が塗った」
咲凪は淡く返し、白布に三つの検算を置いた。
〈費用対効果=偽外注は損〉〈安全=支払停止〉〈倫理=虚偽不可〉。
「今止めれば、家は沈まない。止めずに払えば、家は沈む。――数字は嘘をつかない」
姉妹は顔色を変え、何か言いかけたところで、奥から咳払い。綾女が几帳を押しのけて現れた。
綾女の衣は薄紅、帯は黒。目元は笑っていない。
「娘(むすめ)に帳場は早いのよ。……外注は“社交”。お前には分からない」
「“社交”は“費用対効果・安全・倫理”の順で決めます。――帳面は“社交”の結果が正しいかを測る物差しです」
咲凪は支払停止届の署名欄を示す。
「『当主代理』の欄、いったん私が置きます。――“家の沈没”を止める権限です」
綾女の眉がぴくりと跳ねた。
「誰が“当主”だと?」
「“評定の場”で決めます」
明日美が静かに支援する。
「『家中評定』の期日申請を本日出します。――論点は“利益相反”」
そこへ、翔が荷戸の前でひとつ礼を置く。
「下働きの皆さん、帳場の出入りに“ひと声”を。――助かります」
短い礼が広間の空気を柔らかくし、綾女の視線が一瞬だけ揺れた。
夕刻、支払停止届が二十通、封じられる。封蝋の縁は“斜浅”ではない。榊屋の正印は整い、欠けはない。
「送達」
咲凪は封を渡し、裕斗が両手で受ける。彼は突っ走りかけ――踏みとどまった。
「先に聞く。……どこから、どの順で?」
「“親族会社”の名義先は最後。最初は“実体なし”が判明した三先。――“受領印”が落ちづらい所から」
「了解!」
裕斗は“追い結び”で封袋を括り、軽やかに走る。
大希は一方で、昼にこじれた取引先へ頭を下げて回っていた。
「うちは“弱いこと”を先に言う商家です。――外注は“止めた”。値は“叩かない”。今日の印は“斜浅じゃない”」
弱みの共有は笑いを連れて戻り、三つの取引がその場で継続に転じた。
夜。帳場の灯は低く、揃って揺れる。照合票の空白は少しずつ埋まり、“外注実体なし”の束には朱の斜線が引かれて積まれていく。
咲凪は白布を畳む前に、三欄へ最後の一語を置いた。
〈入口――貸借照合〉〈現象――外注偏り・印影斜浅〉〈出口――支払停止・評定申請〉。
狐火の指輪が衣の底で二度、柔らかく鼓を打つ。
綾女は几帳の影からまだ見ている。目は笑わず、唇だけが薄く上がった。
「評定で、思い知らせてあげる」
「公開の場で。――数字と紙で」
咲凪は簪の歯で結び目を一度だけ締めた。ほどけやすく、落ちない結び。
数字は嘘をつかない。
白檀の香では隠せない。
家の舵は、今、帳場の上で切り替わった。
帰還から七日。午の刻の光は帳場の格子を斜めに切り、珠算の玉に小さな影を落とした。榊屋の大棚には、仕入帳・売掛帳・諸口の帳面が背文字を揃えて並ぶ。咲凪は板卓に白布をひき、三つに欄を割った。〈入口:貸借照合〉〈現象:外注費の偏り〉〈出口:支払停止・照会〉。簪の歯で角を揃え、狐火の指輪を袖の底で静める。
明日美が逆算表を脇に置き、短く息を整える。
「本日の順。――一、三か月分の外注費を“日付・支払・承認印”でまとめる。二、取引先別に“帳合照合”。三、支払停止届の作成。四、送達」
「了解。入口は“外注費”。現象が“偏り”なら、出口は“止める”」
咲凪は白布の余白に三行を落とす。〈日付〉〈印〉〈実績〉。
珠算が鳴る。借方は規則正しいのに、貸方の外注勘定が月の真ん中で急に太っている。しかも承認印の一つに見覚えのある欠け。
「“斜浅”」
咲凪は懐紙で印影を押さえ、簪の歯で縁を撫でた。
「封蝋室と同じ癖。――社(やしろ)経由の“親族会社”の印章と類似。名義は“綾女”」
明日美が即座に“外注一覧”の末尾に朱で〈綾女名義〉と注記する。
照合に進む。帳場端の小机に腰を下ろした大希が、最初に自分の弱みを置いた。
「俺、字の大群は詰まる。……でも、人には回れる。今から“相手先”に短い言葉で照会してくる。『発注日・作業日・納入物』――三つだけ」
「お願いします」
咲凪は“帳合照合票”を三十枚抜き、宛名を振る。
そこへ、衣擦れ。義姉の琴葉が白檀の薫物をきつく纏って入ってきた。後ろには真珠。
「外注、外注って、細かいわねえ。こっちは“顔”で払ってあげてるのに」
「“顔”は帳面になりません」
咲凪は目を上げ、白布の一段目を指で叩く。
「入口――請書。現象――“顔”。出口――“止める”」
真珠が唇を尖らせる。
「買い叩きの噂、もう回ってるわよ? 姉様(ねえさま)がお知り合いに“値切られたらしい”って」
明日美が短く割って入る。
「“買い叩き”は発注側の罪。――言葉が逆です。貼り紙の順も逆。今から訂正回覧を流します」
姉妹がふくれた顔で去ると、帳場に湯気の匂いが戻る。咲凪は承認印の列を一本一本追い、違和のある印影に紙片を挟む。
「“外注先・白梅装束所”の請書、作業日と納入日が“逆”。――装束所は“翌日仕立て”はしない」
明日美が指で示す。
「承認印が“斜浅”。――親族会社の“紹介”経由の可能性が高い」
白布の「現象」に二語。〈日付逆〉〈斜浅〉。
その時、店先で言い合いの声。大希が戻ったかと顔を上げると、別の客が帳場に飛び込んできた。
「さ、榊屋さん、聞いたよ。“値を叩いた”って! うちは――」
「違います」
咲凪は即答し、帳合照合票の見本を差し出す。
「“発注日・作業日・納入物”。三つ、読み合わせをお願いします。――“買い叩き”の噂は虚。今、出所を洗っています」
そこへ大希が駆け戻り、息を整えながら短く叫ぶ。
「回った。……『噂は“姉妹の部屋”発』。白檀の香跡が濃い。――でも、職人衆は“弱み先出し”で、戻ってくれる」
弱みを先に出す声は、空気を柔らかくする。客は頷き、照合票に名を記した。
午後、照合票の返りが揃い始める。半数は“作業実績あり”。しかし幾つかは、同じ筆跡で“納入物・空白”。
「“外注実体なし”。――帳面だけの外注」
咲凪は白布の「出口」に一語〈停止〉を置き、筆を走らせる。
「“支払停止届”を作ります。対象は“外注未実施・承認印斜浅”」
明日美は手早く様式を重ね、必要添付の順を口にする。
「一、請書写し。二、照合票。三、印影比較。四、臨時帳合の伺い。――“今日中”に送達」
義姉の部屋から白檀の香が濃く流れ、琴葉と真珠が怒りの足で戻ってくる。
「商家の顔に泥を塗るの?」
「泥は“外注実体なし”を作る指が塗った」
咲凪は淡く返し、白布に三つの検算を置いた。
〈費用対効果=偽外注は損〉〈安全=支払停止〉〈倫理=虚偽不可〉。
「今止めれば、家は沈まない。止めずに払えば、家は沈む。――数字は嘘をつかない」
姉妹は顔色を変え、何か言いかけたところで、奥から咳払い。綾女が几帳を押しのけて現れた。
綾女の衣は薄紅、帯は黒。目元は笑っていない。
「娘(むすめ)に帳場は早いのよ。……外注は“社交”。お前には分からない」
「“社交”は“費用対効果・安全・倫理”の順で決めます。――帳面は“社交”の結果が正しいかを測る物差しです」
咲凪は支払停止届の署名欄を示す。
「『当主代理』の欄、いったん私が置きます。――“家の沈没”を止める権限です」
綾女の眉がぴくりと跳ねた。
「誰が“当主”だと?」
「“評定の場”で決めます」
明日美が静かに支援する。
「『家中評定』の期日申請を本日出します。――論点は“利益相反”」
そこへ、翔が荷戸の前でひとつ礼を置く。
「下働きの皆さん、帳場の出入りに“ひと声”を。――助かります」
短い礼が広間の空気を柔らかくし、綾女の視線が一瞬だけ揺れた。
夕刻、支払停止届が二十通、封じられる。封蝋の縁は“斜浅”ではない。榊屋の正印は整い、欠けはない。
「送達」
咲凪は封を渡し、裕斗が両手で受ける。彼は突っ走りかけ――踏みとどまった。
「先に聞く。……どこから、どの順で?」
「“親族会社”の名義先は最後。最初は“実体なし”が判明した三先。――“受領印”が落ちづらい所から」
「了解!」
裕斗は“追い結び”で封袋を括り、軽やかに走る。
大希は一方で、昼にこじれた取引先へ頭を下げて回っていた。
「うちは“弱いこと”を先に言う商家です。――外注は“止めた”。値は“叩かない”。今日の印は“斜浅じゃない”」
弱みの共有は笑いを連れて戻り、三つの取引がその場で継続に転じた。
夜。帳場の灯は低く、揃って揺れる。照合票の空白は少しずつ埋まり、“外注実体なし”の束には朱の斜線が引かれて積まれていく。
咲凪は白布を畳む前に、三欄へ最後の一語を置いた。
〈入口――貸借照合〉〈現象――外注偏り・印影斜浅〉〈出口――支払停止・評定申請〉。
狐火の指輪が衣の底で二度、柔らかく鼓を打つ。
綾女は几帳の影からまだ見ている。目は笑わず、唇だけが薄く上がった。
「評定で、思い知らせてあげる」
「公開の場で。――数字と紙で」
咲凪は簪の歯で結び目を一度だけ締めた。ほどけやすく、落ちない結び。
数字は嘘をつかない。
白檀の香では隠せない。
家の舵は、今、帳場の上で切り替わった。


