第3話_狐将の条件
三日後の宵、霞京の北はずれにある狐の社は、風に鳴る鈴と干し藁の匂いで満ちていた。参道の石は昼の熱をまだ抱き、足裏に微かな温みを返す。咲凪は簪を髪に確かめ、懐の紙束――誓紙と控えの薄葉――を押さえ直した。待ち合わせの刻は酉の終い。灯は二つ。場所は社殿脇の手水場。行く理由は、昨夜の油の匂いと帳簿の桁ズレを一筋に縫い止めるため。そして、どう進むかの条件を定めるため。
  境内には先客がいた。翔が手水の柄杓を返し、袖口の雫を払っている。彼は咲凪の姿を見ると、まず手前の掃き跡へ目を遣り、次に社の奥への気配を探るように視線を滑らせた。危うさの順に確認する、その癖が頼もしい。
  「来たね」
  「遅れませんでした」
  短く交わすだけで、必要な情報は足りる。翔は社務の灯を一つ増やし、明かりの輪から外れた石段を顎で示した。誰の耳にも届きにくい位置だ。
  「まず伝える。昨夜、御所印の木箱が榊屋に入った。中は香袋。白檀の筋が濃い。――“上”に繋がる匂いだ」
  咲凪が口にすると、翔は頷き、手巾で指先を拭った。
  「こちらも同じ筋を嗅いだ。書記局の封蝋室から、油の在庫が少し減っている。帳簿の桁と、祭の火。目に見えぬ糸で結ばれている」
  社の鈴がひとつ鳴り、夜気が入れ替わる。翔は懐から細長い紙――白狐の透かしの入った誓紙――を取り出した。
  「仮契約を確かにする。条件は三つ」
  言葉は淡々としていたが、灯がその声を柔らかく掬った。
  「一つ。危険のときは必ず呼ぶこと。独りで抱えぬ」
  「はい」
  「二つ。虚偽はつかない。数字でも、心でも」
  「はい」
 「三つ。自分の足で歩く。俺の庇護を理由に、判断を放棄しない」
  咲凪は一呼吸置き、うなずいた。費用対効果、安全、倫理――自分の順序と矛盾しない。むしろ、背骨に通る約束だ。
  墨を磨る音が、背後から静かに近づいた。
  「遅くなりました」
  陰陽寮の書庫掛り、春奈が灯の輪に入る。黒髪の端に煤がわずかに残り、彼女がさっきまで焚き残りの紙と向き合っていたことを物語る。
  「会合の争点を要約してきました。――“帳簿の桁ズレ”、“香の匂い筋”、“御所印の木箱”。対立点は三つ。落とし所は、『紙で繋ぐ』こと。証拠の入口と出口を一本化すれば、相手の逃げ道が減ります」
  咲凪は受け取り、紙面の余白に補助線を引く。入口は仕入札、出口は役所の受理札。間に昨夜の焼け筋と油の在庫減。
  そこへ、鳥居の方から荒い足音。
  「おい、門の陰に不審な影が――」
  裕斗が勢いよく飛び込むや、水桶を足で蹴ってしまい、手水の水が石畳に広がった。翔が一歩で前に出て、濡れた石で人が滑る前に足の置き場を指で示す。
  「下がれ、三歩。濡れた面は角度が敵になる」
  短い指示に、裕斗は「あ、悪い」と即座に頭を下げて下がった。強さと同じ速さで過ちを認める、その素直さが場を守る。
  翔は誓紙を石台に置き、咲凪へ筆を渡した。
  「互いの名を記す。名は力の入口だ」
  灯の下で、咲凪は慎重に筆を運ぶ。――榊屋咲凪。続けて、翔が白天狐の名を記す。墨が乾く寸前、社の奥から風もないのに紙がふっと撓み、目に見えぬ指が記名に触れた。背筋が粟立つ。人ならざる何者かが、誓いを閲した。
  明日美が息を切らして駆け込んだのは、その直後だった。
  「ごめんなさい、遅れました。提出用の綴じ順、修正が要ります。役所の窓口が“最初の根拠は被害状況ではなく、取引記録を”と」
  彼女は紙束を広げ、糸に細工をして“解きやすい結び”を一度で解き、順番を差し替える。
  「入口を“取引”に、出口を“役所札”に。香は補強。――この順なら通ります」
  咲凪は頷き、簪で紐の締まりを確かめる。結ぶべきところと、解くべきところ。その見極めが、今夜は命綱だ。
  「約束は、守るためにある」
  翔が誓紙を両手で掲げると、紙の縁が淡く光った。狐火の指輪が脈を打ち、咲凪の簪が呼応する。三つの条件が静かに骨になる。
 誓紙を納めた瞬間、社の背後で細い笑い声がした。風ではない、紙や木が擦れ合う乾いた音。咲凪は簪の根を指で押さえ、視線だけで翔を見た。翔はわずかに頷き、灯の輪から半歩外れて気配を薄くする。
  「誰だ、出ろ!」
  裕斗が早口に声を張る。春奈が袖をつまんで制し、囁きを一行にまとめて渡した。
  「大声は要りません。“ここにいる前提で話を進める”。――それで、姿を出す理由を作る」
  翔がその意を汲み、静かな調子で言葉を置く。
  「御所の油に触れた者に告げる。こちらは入口と出口をもう結んだ。出て、帰り道を選べ」
  沈黙。次いで、狛狐の台座の陰から影が割れた。痩せた男がひとり、腰に下げた香袋を握っている。白檀の筋が夜気を焦がし、目の奥だけが不自然に乾いていた。
  「……頼まれたんだ。灯に“湿”を仕込めと。ほんの、試しだと」
  男の声は無理に低く、語尾が落ちるたびに視線が床を彷徨う。
  「誰に」
  咲凪は問いを三語に削った。
  「名は言えぬ。だが文は“上”から来た。封蝋の印が……」
  男が袋から小紙片を出す。油の染みが、朱の丸い影を半ば呑み込んでいる。
  翔は一歩踏み、逃げ道を先に置く。
  「全部を背負うな。入口は“命令”。出口は“供述”。君が言えば、軽くなる筋はある」
  男の喉が動く。春奈はすかさず、言い分の整理を始めた。
  「あなたは“油を買い、灯に仕込んだ”。理由は“頼まれたから”。頼んだ者は“上”。印は“封蝋室のものに似る”。――違いは?」
  「……ない」
  「なら、要点は三つで足りる」
  春奈は紙片に走り書きをし、男の前に返す。人に襲いかかる言葉を外し、残すべき骨だけを残す手際だ。
  「おい、その紙……」
  裕斗が身を乗り出す。翔が手の甲で静かに遮った。
  「今は結ぶ。断つのは次だ」
  言外の配役が明快だ。咲凪は簪で紙束の紐を持ち上げ、男の供述を書き足す欄を空けた。
  「あなたの言葉はここに“入口”として綴ります。