薄紅の簪は狐将を呼ぶ――千年都で“証拠”と“契約”から始まる和風シンデレラ恋

第29章_山稜の封、最後の継ぎ目
申から酉へと傾く空の下、山稜は薄い金に縁取られ、風の層が目で見えるほどに帯を引いていた。谷の灯は昨夜より低く、等間に息をしている。しかし山の背で、なお一筋だけ、逆へ吹き返す筋が残っていた。
  咲凪は山稜の肩に白布を広げ、三つに欄を割る。〈入口:風層と札の向き〉〈現象:山背の吹き返し〉〈出口:広域の再配線〉。簪の歯で角を揃え、狐火の指輪を袖の奥で静める。
  「“最後の継ぎ目”を見つけて、結び直します」
  明日美が板図を開く。そこには谷全体の簡易地形と風の筋が描かれ、欄外に一枚、紙が足されていた。
  〈風層段取り表〉――上層・中層・下層/各層の“送る方向”と“止める石”。
  「今日は“層順”を固定してから動く。上層は東へ払い、中層は南へ流し、下層だけを谷筋に落とす。……“出口”は一方向」
  春奈が要約紙を掲げ、二語で骨を置く。〈層=固定〉〈流=一〉。
  「読み上げは私が持ちます。動きは短く、同じに」
  大希は自分から弱みを先に置いた。
  「俺は高い所が怖い。……だから“上”には行かない。けど“下の通り”から人集めと声かけは任せてくれ。『穴三つ、砂利五つ、杭二』――短く配る」
  弱みの共有で、集まった人足の肩が緩む。谷番も頷き、若者らが鍬や杭を担いで列に入った。
  監視役は少し離れて帳面を広げ、印籠を胸前へ。
  「臨検は“続行”。――本日、封箱の追加“立合い押し”が郡より」
  「“入口票”に記す。――今は“風”が先」
  春奈が二語で刻み、臨検は明日未刻に回すことで合意の印を置かせた。
  稜線の小尾根に、昨日の結線が一本、湿りで緩みかけていた。咲凪は膝をつき、簪の歯で結び目の角度を正す。
  「ほどけやすく、落ちない。――“撓い結び”に戻す」
  翔は山背の方角へ視線を投げ、最小の言葉で告げる。
  「“断つ”のは二カ所。風を“殺す”のではなく“向きを変える”。――焼断は最小」
  狐火がひと挙、枯葉と細い瘴の糸だけを温く炙り、黒い筋を作ることなく筋を逸らす。
  明日美が段取り表に沿って号令する。
  「上層、払う。――中層、送る。……下層、落とす」
  春奈がそのすぐ後に短く復唱し、動作の拍子を固定する。〈声=短〉〈動=同〉。声が二重にかかるだけで、腕の角度が揃う。
  その折、裕斗が石の陰から梃木を担いで現れた。
  「俺、ここを“こじって”道を通す!」
  咲凪は振り返らず、指で角度だけ示す。
  「先に聞く」
  裕斗は息を呑み、即座に言い直した。
  「先に聞く。……俺はどこに“支点”を作る?」
  「ここ。――“横”に使って“上”を起こす」
  「了解!」
  梃木の足が滑らぬよう、咲凪は地杭に“緊結札”を貼る。裕斗は力を“横”へ流し、石の肩を半尺だけ上げた。風の帯がそこで素直に折れ、下層だけが谷へ落ちる。
  大希はふもとの道で短い言葉を繰り返す。
  「“穴三、砂利五、杭二”。――“長く吐いて、短く打つ”」
  人の流れが焦らずに回り、穴が三つ、砂利が五つ、杭が二本、指示通りに入る。彼は膝が笑い出す前に必ず言った。
  「代わってくれ」
  弱みを言える者が、場を強くする。
  中層の風に紛れて、どこかで紙の匂いがした。咲凪は山背の小さな石棚に目をやる。昨日、拾った封蝋片と同じ朱が、草に薄く散っている。
  「止まって」
  簪の歯で草を分け、朱の粉を懐紙に受ける。縁に“斜浅”。
  「封が“ここ”まで上がっている。……“通り道”が山背にある」
  春奈が要約紙に二語。〈封=上〉〈道=背〉。
  監視役は鼻を鳴らしたが、筆の先は止まらない。
  作業は酉の半ば、最も風が変わりやすい刻で一度、乱れた。上層が急に北へ翻り、灯の揺れが高くなる。
  「“断つ”」
  翔の一言で、狐火が二度だけ走る。焼くというより、“冷えを切る”ように。咲凪はすぐさま“撓い結び”を二つ増やし、接地を深くした。
  「入口――上層。現象――翻り。出口――“支点”の追加と“緊結”」
  春奈が復唱し、明日美が段取り表に朱を足す。〈上層:支点+一〉。
  やがて、風の帯が三層そろって穏やかに流れ始めた。谷の灯が低く揺れ、泣くような音は戻ってこない。世話人が掌を合わせ、肩の力が抜けた。
  「……山の息が“ひとつ”になった」
  咲凪は白布の「出口」に朱で〈安定〉と置き、簪の歯で結び目を一度だけ締めた。ほどけやすく、落ちない結び。
  そのとき、尾根の陰から小走りの足音。郡の小者が巻紙を掲げて駆け上がる。監視役が受け取り、印を確かめて読み上げた。
  「『御祓役頭人の名において、再臨検を行う。封箱の“即時移送”を命ず』」
  春奈は要約紙に二語。〈再臨検〉〈即移〉。
  明日美は即座に段取り表の余白にもう一本、枝を足す。
  〈対処:目録再確認/立会三者/“移送は目録完了後”〉
  「“即時”の中にも順序がある。“目録先行”。――郡の書吏の受理票が、こちらにはある」
  咲凪は〈回電写し〉を取り出し、監視役の前に置く。
  「『拘束命令は無効』『臨検は範囲限定で続行』。――“紙で決まっている”」
  監視役の唇が一度だけ歪む。だが印籠は下がり、筆が動き、巻紙の末尾に〈立会=三〉が追記された。
  最後の確認へ、咲凪と翔は山背の小尾根をもう一度だけ歩いた。狐火は使わず、落ち葉を拾い、石の角を撫でる。
  「“断つ”は終わり。……“結び”だけで保つ」
  「はい。――“人の息”で持たせる」
  谷のほうから子どもの笑い声が上がり、風にほどけていく。
  下山の前、白布の上に今日の紙を束ねる。〈風層段取り表〉〈作業記録〉〈拾得封蝋粉の記録〉。春奈は読み上げ、明日美が控えを整え、大希が“下の通り”へ回覧を回す。
  裕斗は梃木を肩に、珍しく跳ねずに言った。
  「先に聞く。……俺は、どこから運ぶ?」
  「“封箱”の“下”。――底板、滑らないよう“落ち葉”を敷いて」
  翔が落ち葉を差し出し、短く言う。
  「滑らない」
  日が山の端へ沈むころ、谷の灯は揃い、山稜は静かな影を伸ばした。
  咲凪は白布の三欄を指で叩く。
  〈入口――風層・札向〉〈現象――吹き返し〉〈出口――再配線・安定〉。
  狐火の指輪が衣の底で、二度、柔らかく鼓を打つ。
  ――山稜の封は座った。
  残るは“紙の封”――封蝋室の黒い継ぎ目。
  再臨検が来るなら、順で迎え、順で返す。紙で結び、人で守る。