第27章_怨霊主との対話、軽減嘆願
申から酉へ。谷の影が長く伸びて、鎮魂碑の列は山の胴へ静かな帯を描いていた。一次・二次の救出は終わり、封箱は三つ、倉の隅に重ねてある。咲凪は白布を膝上に広げ、三つに欄を割った。〈入口:返らなかった供出〉〈現象:怨嗟の結び目〉〈出口:名寄せと段階返済〉。簪の歯で角を揃える。
谷の世話人が手を合わせた。
「碑の裏に“返”の印が抜けた名が、まだ残っとる。夜になると、その名のところだけ風が冷える」
「名を拾い、返す“道”を作ります」
咲凪は即答した。狐火の指輪が袖の深いところで、ひとつ鼓を打つ。
鎮魂碑の背面は、昼よりも淡く湿っている。春奈は板を立て、要約紙に二行だけを置いた。〈名寄せ=一致〉〈返済=段階〉。
「陳述は双方、短く。――私が読み上げて“同じ紙”に載せます」
世話人は頷き、古い布袋から名簿を出した。大希は自分の弱みを先に置く。
「俺、橋は苦手だし、高い所は震える。けど、家々の事情を“聞く”ことはできる。……“受け取りが遅れた訳”を、恥にせず言ってもらう」
弱みの共有は、紙の角を丸くする。世話人の肩が少し下りた。
碑裏の窪みに、小さな冷えが集まっている。翔は風の流れを一巡見て、最小の言葉を置いた。
「“断つ”のは三筋。――怒りの糸だけ。痛みは断たない」
「はい。私は“結び直す”。名と品、名と返、名と“今”」
咲凪は細麻紐を指へ掛け、碑と碑の間に柔らかな結び目を作る。ほどけやすく、落ちない結び。地へ熱を落とすのは、湯の茶気だけだ。
暮れきる少し前、風が一度、逆に撫でた。碑の影が揺れ、土の中から湿った気配がせり上がる。春奈が息を飲み、短く読み上げる。
「陳述――『供出の米、返らず』」
それは声というより、紙に沈む墨のような響きだった。言葉の骨は、怒りよりも“取り残され”の寒さでできている。
咲凪は白布の一段目に名を置き、二段目に量、三段目に“返の印”。空白に簪の歯先を当て、己に短く言う。
「入口――名。現象――空白。出口――段階の線で埋める」
「段階案、出す」
翔が一歩前に出た。
「“返す”は一度ではない。――一、今宵の安全確保(灯・塩・湯)。二、七日以内の実返(米二升)。三、秋の収穫後の清算(村全体で均し)。“軽減嘆願”として、怒りの糸を一本、緩めてほしい」
言葉は短く、矢のように一直線だった。
碑影がざわりと鳴いた。春奈は双方の主張を一枚に重ねる。〈怨霊主=返らず〉〈谷=今は足りぬ〉〈一致点=返す意思〉〈相違点=“いつ・どれだけ”〉。
「“いつ・どれだけ”を紙で段階に刻みます」
咲凪は名寄せ結線を始めた。名簿の名前と、碑裏の薄墨の名を、一本の糸で一致させる。糸は細く、手の温度でわずかに伸びる。
「名の“読み”が違うところは、世話人の口で確かめる。――“音に合わせる”」
大希が家々の表札と呼び名を確かめて回り、吃音混じりの声で、それでも粘り強く一致点を探した。
やがて、碑の前に、低い影が立った。輪郭は朧で、肩だけがはっきりしている。怨霊主――この谷の“返らなかったもの”を束ねる影。
「返らぬのは“嘘”だったからだ」
墨の温度で滲む言葉。翔は一礼して、短く返す。
「“嘘”を紙で止める。――封蝋室の“癖”まで追って“嘘”を表に出す。今は“生きている子”を守るため、一歩、糸を緩めてほしい」
「緩めて、また嘘にされる」
「嘘を“記録”で塞ぐ。目録と立会を置いた。封箱の軽さも“癖”も、都へ持ち帰る。……今日は“灯”を落とさない選択をしたい」
春奈は段階案を読み上げる。声は短く、揺れない。
冷えが一度、和らいだ。怨霊主の肩がほんの少し落ちる。
「“灯”“塩”“湯”。……今宵は、要る」
「初段、受理」
咲凪は白布に〈受理〉の朱を落とすと、縁側の世話人へ向き直った。
「谷の備蓄から“湯と塩”を。――灯は倉の予備を。『貸し出し札』で、七日後の“返”に紐づけます」
明日美がすでに貸出札の束を準備しており、氏名欄と“返の期日”を太字にした。貸し借りは“紙の骨”で行う。
その間にも、碑裏の名が二つ、三つと読み上げに応じて“合”の印を得ていく。大希は細かな事情を、恥としてしまわぬよう短い言葉で受け止めた。
「病で遅れた。……“今は米を持てない”。――『湯で返す』の段階に入れる」
段階の線が伸び、空白は小さくなっていく。
ところが、名簿の一角で、春奈の筆が止まった。
「“海野”……碑裏は“浦野”」
似た音、違う字。世話人は眉を寄せた。
「婚で名が変わった家(け)だ。昔の“供出”は旧の字」
「“音”で一致。――紙の上でも“旧名→現名”の結線を作る」
咲凪は矢印を引き、二つの名を一本に束ねた。名が一致した瞬間、碑の冷えがふと和らいだ。
翔は鎮魂碑の列の端に立ち、瘴の糸を一本だけ断つ。
「断つのは“嘘の結び目”。怒りの“本”は残す」
「助かるのは、その“最小”」
咲凪は静かに答え、狐火を使わずに縄の角を撫でた。ほどけやすく、落ちない。
酉の末、段階案は紙の上で骨を得た。
〈今宵:灯・塩・湯/立会・貸出札〉
〈七日以内:米二升返〉
〈秋後:清算・均し〉
春奈は読み上げ、怨霊主の影に向かって最後の行を置く。
「“軽減嘆願”――本日の怒りの糸を、一筋だけ緩める」
影は長い沈黙ののち、風の向きを半歩だけ変えた。碑の灯は低くそろい、泣くような音は遠のく。
「受理」
咲凪は白布に二度目の朱を落とし、名寄せ票の“欠”の欄に小さな点を打つ。完全ではないが、今夜を越える骨は立った。
世話人は深く頭を下げる。
「“紙の道”を作ってくれた。……怒りに踏みつけられん道だ」
翔は短く礼を返す。
「助かったのは、あなた方の“立会”だ」
引き上げる直前、石の間から小さな風が再び上がった。怨霊主の影が、ほんの一瞬、振り向く気配を見せる。
「“封”の癖。……嘘を、見ろ」
低い声が、紙に残るほどの厚みで落ちた。
「見ます。――都で“封蝋室”を照らし合わせます」
咲凪は答えて白布を畳み、簪の歯で一度だけ締める。ほどけやすく、落ちない結び。
屯所へ戻る途中、裕斗が肩で息をしながら笑った。
「俺、今日は“先に聞く”ができた。……怒りに飲まれないの、難しいけどな」
「難しいから、紙にする」
春奈が言い、対照表の隅に一語を添えた。〈継続〉。
明日美は時刻割へ朱を入れる。〈明朝:郡詰所で照会〉〈午下:倉の“貸出札”集計〉〈夕刻:碑列の再確認〉。
大希は自分から手を挙げた。
「家々に“段階案”を回す。――橋は渡らない。下の通りで、全部に届く」
谷に夜の色が降りる。灯は一定の高さにそろい、風は一方向へ歩いた。狐火の指輪が衣の底で二度、柔らかく鼓を打つ。
――“返らなかったもの”を、紙で返す。
怒りは残るが、嘘は断つ。
軽減嘆願は通った。次は、偽の上意を紙で正す番だ。
申から酉へ。谷の影が長く伸びて、鎮魂碑の列は山の胴へ静かな帯を描いていた。一次・二次の救出は終わり、封箱は三つ、倉の隅に重ねてある。咲凪は白布を膝上に広げ、三つに欄を割った。〈入口:返らなかった供出〉〈現象:怨嗟の結び目〉〈出口:名寄せと段階返済〉。簪の歯で角を揃える。
谷の世話人が手を合わせた。
「碑の裏に“返”の印が抜けた名が、まだ残っとる。夜になると、その名のところだけ風が冷える」
「名を拾い、返す“道”を作ります」
咲凪は即答した。狐火の指輪が袖の深いところで、ひとつ鼓を打つ。
鎮魂碑の背面は、昼よりも淡く湿っている。春奈は板を立て、要約紙に二行だけを置いた。〈名寄せ=一致〉〈返済=段階〉。
「陳述は双方、短く。――私が読み上げて“同じ紙”に載せます」
世話人は頷き、古い布袋から名簿を出した。大希は自分の弱みを先に置く。
「俺、橋は苦手だし、高い所は震える。けど、家々の事情を“聞く”ことはできる。……“受け取りが遅れた訳”を、恥にせず言ってもらう」
弱みの共有は、紙の角を丸くする。世話人の肩が少し下りた。
碑裏の窪みに、小さな冷えが集まっている。翔は風の流れを一巡見て、最小の言葉を置いた。
「“断つ”のは三筋。――怒りの糸だけ。痛みは断たない」
「はい。私は“結び直す”。名と品、名と返、名と“今”」
咲凪は細麻紐を指へ掛け、碑と碑の間に柔らかな結び目を作る。ほどけやすく、落ちない結び。地へ熱を落とすのは、湯の茶気だけだ。
暮れきる少し前、風が一度、逆に撫でた。碑の影が揺れ、土の中から湿った気配がせり上がる。春奈が息を飲み、短く読み上げる。
「陳述――『供出の米、返らず』」
それは声というより、紙に沈む墨のような響きだった。言葉の骨は、怒りよりも“取り残され”の寒さでできている。
咲凪は白布の一段目に名を置き、二段目に量、三段目に“返の印”。空白に簪の歯先を当て、己に短く言う。
「入口――名。現象――空白。出口――段階の線で埋める」
「段階案、出す」
翔が一歩前に出た。
「“返す”は一度ではない。――一、今宵の安全確保(灯・塩・湯)。二、七日以内の実返(米二升)。三、秋の収穫後の清算(村全体で均し)。“軽減嘆願”として、怒りの糸を一本、緩めてほしい」
言葉は短く、矢のように一直線だった。
碑影がざわりと鳴いた。春奈は双方の主張を一枚に重ねる。〈怨霊主=返らず〉〈谷=今は足りぬ〉〈一致点=返す意思〉〈相違点=“いつ・どれだけ”〉。
「“いつ・どれだけ”を紙で段階に刻みます」
咲凪は名寄せ結線を始めた。名簿の名前と、碑裏の薄墨の名を、一本の糸で一致させる。糸は細く、手の温度でわずかに伸びる。
「名の“読み”が違うところは、世話人の口で確かめる。――“音に合わせる”」
大希が家々の表札と呼び名を確かめて回り、吃音混じりの声で、それでも粘り強く一致点を探した。
やがて、碑の前に、低い影が立った。輪郭は朧で、肩だけがはっきりしている。怨霊主――この谷の“返らなかったもの”を束ねる影。
「返らぬのは“嘘”だったからだ」
墨の温度で滲む言葉。翔は一礼して、短く返す。
「“嘘”を紙で止める。――封蝋室の“癖”まで追って“嘘”を表に出す。今は“生きている子”を守るため、一歩、糸を緩めてほしい」
「緩めて、また嘘にされる」
「嘘を“記録”で塞ぐ。目録と立会を置いた。封箱の軽さも“癖”も、都へ持ち帰る。……今日は“灯”を落とさない選択をしたい」
春奈は段階案を読み上げる。声は短く、揺れない。
冷えが一度、和らいだ。怨霊主の肩がほんの少し落ちる。
「“灯”“塩”“湯”。……今宵は、要る」
「初段、受理」
咲凪は白布に〈受理〉の朱を落とすと、縁側の世話人へ向き直った。
「谷の備蓄から“湯と塩”を。――灯は倉の予備を。『貸し出し札』で、七日後の“返”に紐づけます」
明日美がすでに貸出札の束を準備しており、氏名欄と“返の期日”を太字にした。貸し借りは“紙の骨”で行う。
その間にも、碑裏の名が二つ、三つと読み上げに応じて“合”の印を得ていく。大希は細かな事情を、恥としてしまわぬよう短い言葉で受け止めた。
「病で遅れた。……“今は米を持てない”。――『湯で返す』の段階に入れる」
段階の線が伸び、空白は小さくなっていく。
ところが、名簿の一角で、春奈の筆が止まった。
「“海野”……碑裏は“浦野”」
似た音、違う字。世話人は眉を寄せた。
「婚で名が変わった家(け)だ。昔の“供出”は旧の字」
「“音”で一致。――紙の上でも“旧名→現名”の結線を作る」
咲凪は矢印を引き、二つの名を一本に束ねた。名が一致した瞬間、碑の冷えがふと和らいだ。
翔は鎮魂碑の列の端に立ち、瘴の糸を一本だけ断つ。
「断つのは“嘘の結び目”。怒りの“本”は残す」
「助かるのは、その“最小”」
咲凪は静かに答え、狐火を使わずに縄の角を撫でた。ほどけやすく、落ちない。
酉の末、段階案は紙の上で骨を得た。
〈今宵:灯・塩・湯/立会・貸出札〉
〈七日以内:米二升返〉
〈秋後:清算・均し〉
春奈は読み上げ、怨霊主の影に向かって最後の行を置く。
「“軽減嘆願”――本日の怒りの糸を、一筋だけ緩める」
影は長い沈黙ののち、風の向きを半歩だけ変えた。碑の灯は低くそろい、泣くような音は遠のく。
「受理」
咲凪は白布に二度目の朱を落とし、名寄せ票の“欠”の欄に小さな点を打つ。完全ではないが、今夜を越える骨は立った。
世話人は深く頭を下げる。
「“紙の道”を作ってくれた。……怒りに踏みつけられん道だ」
翔は短く礼を返す。
「助かったのは、あなた方の“立会”だ」
引き上げる直前、石の間から小さな風が再び上がった。怨霊主の影が、ほんの一瞬、振り向く気配を見せる。
「“封”の癖。……嘘を、見ろ」
低い声が、紙に残るほどの厚みで落ちた。
「見ます。――都で“封蝋室”を照らし合わせます」
咲凪は答えて白布を畳み、簪の歯で一度だけ締める。ほどけやすく、落ちない結び。
屯所へ戻る途中、裕斗が肩で息をしながら笑った。
「俺、今日は“先に聞く”ができた。……怒りに飲まれないの、難しいけどな」
「難しいから、紙にする」
春奈が言い、対照表の隅に一語を添えた。〈継続〉。
明日美は時刻割へ朱を入れる。〈明朝:郡詰所で照会〉〈午下:倉の“貸出札”集計〉〈夕刻:碑列の再確認〉。
大希は自分から手を挙げた。
「家々に“段階案”を回す。――橋は渡らない。下の通りで、全部に届く」
谷に夜の色が降りる。灯は一定の高さにそろい、風は一方向へ歩いた。狐火の指輪が衣の底で二度、柔らかく鼓を打つ。
――“返らなかったもの”を、紙で返す。
怒りは残るが、嘘は断つ。
軽減嘆願は通った。次は、偽の上意を紙で正す番だ。


