薄紅の簪は狐将を呼ぶ――千年都で“証拠”と“契約”から始まる和風シンデレラ恋

第26章_臨検の朝、救うべき順番
辰の刻。谷口の空はまだ淡く、湿りを含んだ風が草の穂先を一様に揺らしていた。屯所の前には、臨検を告げる札が一本。監視役が印籠を胸前に掲げ、郡の使い二名とともに立つ。背後には空の木箱が三つ、封蝋用の台と朱の皿。
  咲凪は白布を板卓に敷き、三欄を割る。〈入口:臨検〉〈現象:押収と遅延〉〈出口:並行処理〉。簪の歯で角を揃え、声を整える。
  「本日の順です。――臨検は“立会三者・目録・範囲限定”。同時刻、谷奥の集落で“土砂崩れ”の報せ。救出と臨検を並行します」
  監視役が袖を払って一歩前へ出る。
  「押収の優先順位は“札・記録・経路図”。郡の権限により、倉と屯所の“紙”は一切、当方で保管する」
  春奈が即座に要約紙を掲げ、二行に削る。
  〈押収=目録必須〉〈範囲=札・記録“のみ”〉
  「“工具・食糧・救出具”は対象外です。――範囲を限定します」
  「口先ではなく、紙で示せ」
  明日美が用意していた〈押収目録・様式〉を広げ、欄外に「対象外」を太字で加える。倉番と谷番、監視役の三名に署名欄を指し示す。
  そこへ、谷奥から駆け足。世話人の若者が泥を跳ね上げて飛び込んだ。
  「大きいのが落ちた! 裏山の“祠の脇”が崩れて、子どもが三人、家の中!」
  空気が硬くなる。翔が最小の言葉で場を割った。
  「救出、最優先」
  「異議あり」監視役が印籠を鳴らす。「臨検に先立つ“中止命令”は出ていない」
  咲凪は白布に三行を書き足す。〈費用対効果=救命最優〉〈安全=救出先〉〈倫理=命〉。
  「“順”は変えません。――臨検は続行。ただし“救出を妨げない範囲”で。臨検班と救出班に分けます」
  明日美が板図を二枚に分けた。
  〈臨検班〉――春奈(読み上げ・範囲限定)、倉番(保管状況証明)、監視役(記録)、谷番(立会)。
  〈救出班〉――翔(動線・安全管理)、咲凪(結線・避難路形成)、大希(声かけ・人集め)、裕斗(梃木・荷運び)。
  「さらに時刻割。」明日美は短く区切る。「“一刻以内”に一次救出、“二刻以内”に二次。臨検は“押収目録の作成完了まで”から先に動かない」
  監視役の目が細くなる。
  「押収は“即時”が原則だ」
 「“目録先行”が原則です」
  春奈が読み上げる。〈押収=目録→封〉。「封は“目録”がないと無効。――あなたの権限を守るためです」
  監視役は舌打ちを飲み込み、印を置いた。
  出立。谷奥への道は昨夜の雨でぬかり、踏むたびに薄い音がする。崩落地は祠の脇、崩れた土砂が斜面を滑り、板戸の手前で止まっている。家の中で幼い泣き声、壁が軋む。
  翔は山腹と屋根を見比べ、すぐに指を二本立てた。
  「入口は“上”。落ちてくる石を“断つ”。二人、上へ回り枝を“支点”にして梃木で角度を変える。――下は“押し”ではなく“引き”」
  「了解。声かけは俺」
  大希が自ら先に弱みを置く。
  「高い所は震える。上じゃなく“下の通り”で動く。……代わりに“声”で集める」
  集落の者らが集まり、彼は短い言葉で役を配る。「掘る三、引く二、赤子を受ける一。――長く吐いて、短く引く」
  咲凪は家の裏に回り、細麻紐を三筋、地面の杭に渡して“人の流れ”を一方向に結ぶ。
  「入口――家の裏。現象――逆流する人流。出口――右回りに“回す”」
  簪の歯で結び目を素早く作る。ほどけやすく、落ちない結び。避難の矢印を紙札に大書して戸口へ。
  「俺、行く!」
  裕斗が素手で土砂に飛び込もうとして、次の瞬間には踏みとどまった。
  「先に聞く。……俺はどこだ?」
  翔が即答する。
  「“梃木”。支点を作って角を上げる。――力は“横”に使え」
  「了解!」
  太い梃木を肩に、裕斗は祠の脇へ回る。梃木の足が滑らないよう、咲凪が“緊結札”を地杭に貼り、角を押さえた。
  掛け声が揃い、土砂が少しずつ退く。屋根の上から小石が転がり、翔の手の一閃で瘴の糸が一本、音もなく断たれた。
  「断つのは、これだけ」
  最小。必要にして十分。
  やがて板戸がわずかに動き、内から小さな手がのぞいた。
  「引く!」
  大希の掛け声で二人が紐を引き、裕斗が梃木をてこにして板を持ち上げる。咲凪は身体を差し入れ、子どもを一人ずつ外へ。泣き声は空気にほどけ、母親の腕で熱に変わった。
  一次救出完了。明日美は時刻割に印をつけ、二次救出に移る。家の中で倒れた梁をどうにかしなければならない。
  「梁は“引き下ろす”のではなく“支える”」
  翔の指示で、棟木の“死角”に支柱を立て、重量を逃がす。裕斗は汗で目を細めながらも、合図を待って動く。
  「今!」
  梁がわずかに浮き、二人目の子が外へ滑り出た。最後の一人は祠側の奥。咲凪は細紐を梁に回し、“結線”で荷重を分散させる。
  「ほどけやすく、落ちない」
  狐火の指輪が衣の下で、短く鼓を打つ。
  全員の無事が確認されたとき、陽はすでに高く、谷の風が熱を運んでいた。母親が土に額をつけ、何度も礼を言う。翔はその額に手を伸ばし、静かに言った。
  「助かったのは、皆さんの手です。交代の声がよかった」
  礼は短いが、確かに届く。
  臨検班へ戻ると、倉の前は札と紙で整然としていた。春奈が読み上げ役に徹し、「押収目録」の空白を許さない。
  「〈札=棚三・束七“逆向き”〉〈煤=棚五・束四〉〈油気=棚二・束二〉――以上を“仮封”。“用途記録”は写しのみ、原本は倉置き」
  監視役が食い下がる。
  「原本を持ち去らねば意味がない」
  「持ち去られた“記録”は“空白”を生む。――あなたの“記録権”を守るために、ここに“副本”を残す」
  春奈の声は落ち着き、要点だけを叩く。倉番と谷番が頷き、印が落ちる。
  そこへ、郡の使いが箱を三つ運び出し、封蝋を用意した。監視役が朱を含ませ、印を軽く押す。
  「待ってください」
  咲凪が身を屈め、封蝋の縁を簪の歯でなぞった。
  「“斜浅”。――欠けが、封蝋室で見た“癖”と同じ」
  明日美が即座に〈拾得封蝋片〉の写しを出し、照合の欄に“合”の字を入れる。