第24章_紙垂の倉、静かな異物
午の刻、谷内の納札倉は陽の薄い場所にあった。杉皮を重ねた屋根は苔を含み、戸前には「湿(しめ)を嫌う」の札が控えめにぶら下がっている。咲凪は白布を板卓に広げ、三つに欄を割った。〈入口:納品帳・手順書〉〈現象:紙料の混入〉〈出口:経路の特定〉。簪の歯で角を揃え、狐火の指輪は袖の底で静める。
「倉番さん、まず“検分手順書”を読み合わせします」
明日美が一歩前に出て、あらかじめ用意してきた書付を掲げる。
〈一、立会三名(倉番・一行・監視)/二、束単位で抜取検査/三、繊維向き・墨の浸み・煤の有無〉
倉番は手の節が太い老人で、目だけが黒く若い。紙面を追い、唇の端がわずかに緩んだ。
「紙は“湿りに馴れる”。……順が決まってるのは助かる」
「署名を」
春奈が短く促し、倉番の名、咲凪の名、そして監視役の名の欄を指で示す。
「不要だ」
監視役は印籠をかすかに傾け、扇のように見せた。
「郡の“権限”がある。――中止を命ずることも」
「権限の“入口票”を。――この場の“立会”は、手順の一部です」
春奈は落ち着いた筆致で二行を書き添える。〈監視=記録権〉〈中止=要根拠〉。
明日美はすかさず手順書の末尾に“立会者欄”を増設し、倉番が名を入れる。視線が集まる中、監視役は鼻で笑いながらも、結局は字を置いた。
戸が開く。ひんやりした空気がまとまって流れ出る。紙の甘い匂いの奥に、かすかな油の匂い。束に差す紙垂(しで)が白く、棚の段は番号で整頓されている。
「入口、納品帳」
大希が倉番の机から帳面を借り上げる前に、正直に言った。
「俺は吃るときがある。急かされると余計に。……でも、読むのはゆっくり確かにやる」
倉番の肩が、少しだけ緩む。
「急かさん。――字は紙の呼吸だ。ゆっくり読め」
抜取検査。咲凪は一束ずつ、端の二枚を「表・裏」と声にしてめくる。簪の歯で、繊維の向きを撫で、墨の浸みの縁を読み、角で煤の粉を探る。
「“向き”が逆の束、一本。……札の“矢印”と反対」
「記す」
春奈の筆が走る。〈棚三・束七=向逆〉〈煤=微〉。
明日美は板図に“棚の見取り”を描き、逆向きの束に赤い印。
「次。――“墨の浸み”が浅い。油分が混じると筆圧で縁が硬くなる」
「“雪の端”の練に似た匂いがする」
翔が最小の言葉で補足する。鼻を近づけるのは一度だけ。
「三束目、縁に煤。――昨夜の碑列で拾った札片と同じ“粉の軽さ”」
「記す」〈棚五・束四=煤〉。
監視役がそこで割って入った。
「“偶然”だ。倉は広い。向きも煤も、たまたまだ。――検分はここで中止する。記録は“異常なし”」
明日美がすっと彼の前へ出る。
「手順書の“二”。束単位で“十束”までは最初の範囲。あなたの署名があります。――“中止”は“根拠”の記載と、三者の印が要る」
春奈が読み上げる。
「〈中止理由欄=空白〉」
倉番の老人は黙って腕を組み、棚のほうを顎で示した。
「若いの。紙は“混ぜ”が一番いけん。やるなら、やり切れ」
監視役は舌を打ち、袖の内に手を引っ込めた。
検分再開。
「“繊維向き”で一、二、三。――“矢印”と逆の束が同じ納品印」
咲凪が束の腹の朱を並べ、欠けの癖を比べる。
「“斜浅”。――御祓役頭人の親族が請ける札紙屋の印と似る」
倉番の目が細くなる。
「納入は“山科の紙問屋”。……御祓(おはらい)の縁者だ」
春奈の筆が跳ねる。〈元請=親族〉。
「納品帳の“行送り”を見せてください」
大希がページをめくる指を落ち着かせ、ゆっくり声に出す。
「“山科紙問屋→封蝋室→倉”。……“封蝋室”を“通る”」
咲凪は小さく息を吸った。
「“紙”が“封”を通る。――“混ぜ”がここで起きた可能性」
明日美は経路図の線を一本つなげ、朱で〈封蝋室〉と記す。
監視役が鼻を鳴らした。
「封蝋室の“通過”は書記局の定めだ。――不審はない」
「“定め”と“結果”は別です。……結果が“逆”を作っている」
咲凪は淡く返し、逆向き束の端を二枚、懐紙に包んだ。拾得の記録はその場で。〈立会:倉番・監視〉が添えられる。
検分は棚の奥へ。風の通り道に置かれた束ほど“煤”が薄い。奥まった段には逆向きが多い。
「“置き順”も“逆”。――“早く出す”べき紙が奥」
春奈が二行に落とす。〈置=逆〉〈出=遅〉。
「“利益を抜く”ために“安価な紙”を先に出し、高価な正規紙を“寝かせた”」
明日美の言葉は短いが、板図の矢印がそれを証明する。
途中、倉番が咳払いをし、棚の影から布包みを取り出した。
「前の“納め”で戻した束だ。――粘りがなく、湿りに負ける。……だが、返品先が“封蝋”を通せ、と言ってな」
包みを開くと、紙の目が粗く、端が茶に変じている。指を当てると、たしかに腰が弱い。
「『札紙』ではなく『書付紙』の質」
咲凪は簪の歯で縁を撫で、墨をひとすじ落として浸みを見る。輪郭がすぐに広がり、中心が滲まない。
「“紙料が薄い”。――“札”としては不良」
春奈が要約紙に大きく一語。〈不良〉。
それでも監視役は食い下がった。
「“郡”の目から見れば、倉の“保管不備”もありうる」
「保管の“入口票”を」
明日美が倉番とともに、湿度記録と換気の時刻簿を並べる。
「〈午前・夕刻の換気〉〈湿度札=一定〉。……“保管”は適正」
翔は黙って棚の脚を起こし、風の通りを指で示した。
「滑らない」
短い一言で、倉が“仕事”をしていたことが伝わる。
検分は終盤に入り、逆向き束と煤の束、油気の束がそれぞれ“印”で束ねられた。紙の山は低いが、証の骨は十分だ。
「控えを」
咲凪は逆向き二枚、煤付き二枚、油気二枚をそれぞれ懐紙で包み、封を“二層”で閉じる。
「“封蝋室の通過”の痕がどこまで関わるか――都に戻って確かめる」
倉番が深く頷く。
午の刻、谷内の納札倉は陽の薄い場所にあった。杉皮を重ねた屋根は苔を含み、戸前には「湿(しめ)を嫌う」の札が控えめにぶら下がっている。咲凪は白布を板卓に広げ、三つに欄を割った。〈入口:納品帳・手順書〉〈現象:紙料の混入〉〈出口:経路の特定〉。簪の歯で角を揃え、狐火の指輪は袖の底で静める。
「倉番さん、まず“検分手順書”を読み合わせします」
明日美が一歩前に出て、あらかじめ用意してきた書付を掲げる。
〈一、立会三名(倉番・一行・監視)/二、束単位で抜取検査/三、繊維向き・墨の浸み・煤の有無〉
倉番は手の節が太い老人で、目だけが黒く若い。紙面を追い、唇の端がわずかに緩んだ。
「紙は“湿りに馴れる”。……順が決まってるのは助かる」
「署名を」
春奈が短く促し、倉番の名、咲凪の名、そして監視役の名の欄を指で示す。
「不要だ」
監視役は印籠をかすかに傾け、扇のように見せた。
「郡の“権限”がある。――中止を命ずることも」
「権限の“入口票”を。――この場の“立会”は、手順の一部です」
春奈は落ち着いた筆致で二行を書き添える。〈監視=記録権〉〈中止=要根拠〉。
明日美はすかさず手順書の末尾に“立会者欄”を増設し、倉番が名を入れる。視線が集まる中、監視役は鼻で笑いながらも、結局は字を置いた。
戸が開く。ひんやりした空気がまとまって流れ出る。紙の甘い匂いの奥に、かすかな油の匂い。束に差す紙垂(しで)が白く、棚の段は番号で整頓されている。
「入口、納品帳」
大希が倉番の机から帳面を借り上げる前に、正直に言った。
「俺は吃るときがある。急かされると余計に。……でも、読むのはゆっくり確かにやる」
倉番の肩が、少しだけ緩む。
「急かさん。――字は紙の呼吸だ。ゆっくり読め」
抜取検査。咲凪は一束ずつ、端の二枚を「表・裏」と声にしてめくる。簪の歯で、繊維の向きを撫で、墨の浸みの縁を読み、角で煤の粉を探る。
「“向き”が逆の束、一本。……札の“矢印”と反対」
「記す」
春奈の筆が走る。〈棚三・束七=向逆〉〈煤=微〉。
明日美は板図に“棚の見取り”を描き、逆向きの束に赤い印。
「次。――“墨の浸み”が浅い。油分が混じると筆圧で縁が硬くなる」
「“雪の端”の練に似た匂いがする」
翔が最小の言葉で補足する。鼻を近づけるのは一度だけ。
「三束目、縁に煤。――昨夜の碑列で拾った札片と同じ“粉の軽さ”」
「記す」〈棚五・束四=煤〉。
監視役がそこで割って入った。
「“偶然”だ。倉は広い。向きも煤も、たまたまだ。――検分はここで中止する。記録は“異常なし”」
明日美がすっと彼の前へ出る。
「手順書の“二”。束単位で“十束”までは最初の範囲。あなたの署名があります。――“中止”は“根拠”の記載と、三者の印が要る」
春奈が読み上げる。
「〈中止理由欄=空白〉」
倉番の老人は黙って腕を組み、棚のほうを顎で示した。
「若いの。紙は“混ぜ”が一番いけん。やるなら、やり切れ」
監視役は舌を打ち、袖の内に手を引っ込めた。
検分再開。
「“繊維向き”で一、二、三。――“矢印”と逆の束が同じ納品印」
咲凪が束の腹の朱を並べ、欠けの癖を比べる。
「“斜浅”。――御祓役頭人の親族が請ける札紙屋の印と似る」
倉番の目が細くなる。
「納入は“山科の紙問屋”。……御祓(おはらい)の縁者だ」
春奈の筆が跳ねる。〈元請=親族〉。
「納品帳の“行送り”を見せてください」
大希がページをめくる指を落ち着かせ、ゆっくり声に出す。
「“山科紙問屋→封蝋室→倉”。……“封蝋室”を“通る”」
咲凪は小さく息を吸った。
「“紙”が“封”を通る。――“混ぜ”がここで起きた可能性」
明日美は経路図の線を一本つなげ、朱で〈封蝋室〉と記す。
監視役が鼻を鳴らした。
「封蝋室の“通過”は書記局の定めだ。――不審はない」
「“定め”と“結果”は別です。……結果が“逆”を作っている」
咲凪は淡く返し、逆向き束の端を二枚、懐紙に包んだ。拾得の記録はその場で。〈立会:倉番・監視〉が添えられる。
検分は棚の奥へ。風の通り道に置かれた束ほど“煤”が薄い。奥まった段には逆向きが多い。
「“置き順”も“逆”。――“早く出す”べき紙が奥」
春奈が二行に落とす。〈置=逆〉〈出=遅〉。
「“利益を抜く”ために“安価な紙”を先に出し、高価な正規紙を“寝かせた”」
明日美の言葉は短いが、板図の矢印がそれを証明する。
途中、倉番が咳払いをし、棚の影から布包みを取り出した。
「前の“納め”で戻した束だ。――粘りがなく、湿りに負ける。……だが、返品先が“封蝋”を通せ、と言ってな」
包みを開くと、紙の目が粗く、端が茶に変じている。指を当てると、たしかに腰が弱い。
「『札紙』ではなく『書付紙』の質」
咲凪は簪の歯で縁を撫で、墨をひとすじ落として浸みを見る。輪郭がすぐに広がり、中心が滲まない。
「“紙料が薄い”。――“札”としては不良」
春奈が要約紙に大きく一語。〈不良〉。
それでも監視役は食い下がった。
「“郡”の目から見れば、倉の“保管不備”もありうる」
「保管の“入口票”を」
明日美が倉番とともに、湿度記録と換気の時刻簿を並べる。
「〈午前・夕刻の換気〉〈湿度札=一定〉。……“保管”は適正」
翔は黙って棚の脚を起こし、風の通りを指で示した。
「滑らない」
短い一言で、倉が“仕事”をしていたことが伝わる。
検分は終盤に入り、逆向き束と煤の束、油気の束がそれぞれ“印”で束ねられた。紙の山は低いが、証の骨は十分だ。
「控えを」
咲凪は逆向き二枚、煤付き二枚、油気二枚をそれぞれ懐紙で包み、封を“二層”で閉じる。
「“封蝋室の通過”の痕がどこまで関わるか――都に戻って確かめる」
倉番が深く頷く。


