第23章_谷の声を聴く夜
子の初め、谷の影はさらに濃くなり、鎮魂碑の灯だけが糸のように山腹へ並んでいた。昼間に“上へ”伸びようとした火は、今は揺れながらも低く留まり、風の筋は細く均されている。咲凪は白布の上に三つの欄を割った。〈入口:風層と水脈〉〈現象:灯の逆流・声〉〈出口:結線の張り直し〉。簪の歯で角を揃え、狐火の指輪を袖の奥で静める。
谷の世話人が二人、夜具の肩を掻き合わせながら現れた。顔のしわは深いが、目は曇らない。
「昼過ぎは“上へ”伸びた。今は落ち着いとるが、時々、子どもの泣く声みたいなのが混じる。碑を撫でると、手が冷える」
「ありがとうございます。順を見ます」
咲凪は膝をつき、碑と碑の間の地を手で撫でた。砂利の噛み合わせ、水の逃げ道、そして札柱の根に巻かれた紙垂の向き。
春奈が要約紙を広げ、二行で骨を書く。〈風=上層東へ/水=下層西へ〉。
「層が交差してる。灯が“上”を選ぶのは、ここ」
明日美は板図に一分だけ線を引き足した。〈風:二層→一層〉〈水:溝切り〉。
「“溝”を切れば水は西へ逃げる。風は“刷毛”で撫でてやるように、一方向に揃える」
「俺が“声かけ”で人を集める」
大希が手を上げる。
「俺は橋は苦手で高い所が怖い。でも、地面の上なら平気だ。……谷の者らに“短く”頼む。“穴を三つ、砂利を五つ”って」
弱みの先出しが夜気の角を丸くし、世話人たちはすぐに頷いた。五人、六人と人影が増える。
翔は最小被害の手順を選び、灯の列に沿って静かに歩いた。
「“断つ”のは三カ所。瘴の糸が太い場所だけ。――ほかは“結び”で回す」
「はい。結びます」
咲凪は碑間に細麻紐を一筋、二筋と渡していく。足元の石へ接地を取り直す“撓い結び”。ほどけやすく、落ちない。
監視役は離れた岩に腰を下ろし、帳面に筆を走らせていた。灯が低くなるたびに唇が歪む。
「“偶然が二度”。記録する」
「偶然が続くなら、仕組みがある」
咲凪は白布の余白に小さく書く。〈仕組=層順〉。
作業が一巡したところで、碑の列の奥から、確かに声がした。泣くとも笑うともつかぬ声。山の風ではない。世話人の一人が肩を震わせ、目を伏せた。
「戦の年、供出の名に漏れがあった。……戻らぬ米の名が、碑の裏に引っかかっとる」
遅れて、翔が小さく頷いた。
「“返らなかったもの”が、ここに結び目を作っている。――断つ前に、名を拾う」
春奈が筆を取り、世話人の口から出る名前を一枚にまとめる。行の間を広く取り、余白に矢印をつける。
「供出名簿と一致を取りたい。――明日、倉で“納品帳の写し”と突き合わせる」
明日美はその場で“名寄せ票”の型を作り始めた。〈名/量/返/欠〉の四欄。手順は、先に骨を置く。
「結線、二巡目に入ります」
咲凪は結び目を一つずつ指先で確かめ、碑の陰に溜まった冷気を“地”へ落としていく。狐火は使わない。温度は湯の湯気で足元にだけ与える。
「“熱”は焦らせる。――夜は“湿り”で足を動かす」
翔は太い瘴の糸を三本だけ断ち、切り口が暴れないように“緊結札”で押さえた。刀も札も、無闇に振らない。
やがて、灯の揺れは細かく、低く、同じ拍子になった。世話人が掌を合わせると、冷たい風は指の間でほどけていく。
「……声が、遠のいた」
「谷の“入口”が落ち着いた。――“現象”は収まり、“出口”が見える」
咲凪は白布に〈完了:第一列〉と記した。
その時、監視役が帳面から顔を上げ、わざとらしく印籠を鳴らした。
「記録に“現象の自然沈静”と書く。――明朝、倉の検分は“中止”させうる」
「“入口票”に権限の根拠を」
春奈が静かに返し、二行を書き足す。〈監視=記録権〉〈中止=要根拠〉。
明日美は検分手順書の末尾に小さく“立会者欄”を増やした。谷番/一行/監視役――三つの印。止めるなら、止めた“記録”が残る。
夜半、溝切りが終わり、砂利が落ち着いた。大希が両手を擦り、息を吐く。
「膝は笑うけど、地面なら笑ってろって言える」
「言えるなら、動ける」
咲凪が笑い、世話人の湯呑を受け取った。湯気は薄く、器は厚い。夜の手の冷えには、こういう熱がいい。
ひと息ついたところで、碑の影から小走りの足音。谷の若者が札束を抱えて来た。
「倉の端で見つけた“余り”です。……古いのに、煤が新しい」
差し出された札の縁は、確かに薄黒く、指に細かな粉がつく。
「灯に近づけた“跡”」
咲凪が懐紙でそっと受け取り、簪の歯で角を撫でる。繊維の向きが表の矢印と逆。
「繊維向きと記載印の順が逆。――“作りの逆”は“流れの逆”を呼ぶ」
春奈が要約紙に〈札=逆〉〈縁=煤〉と二語で刻む。
「倉で“紙料の混入”を見るとき、まず“向き”と“煤”。……監視役にも“読み上げ”て伝える」
監視役は肩で笑い、帳面にまた筆を入れた。だが目は札の縁に止まっている。
丑の刻。結線は三巡目まで終わり、碑列は安定した。灯が一定の高さで呼吸し、風は一方向へ歩く。
翔は見回りの若者に必ず一言だけ置いていった。
「助かる。――交代を忘れるな」
礼が短く置かれるたび、交代の声が滑らかになる。
撤収前、咲凪は白布の上に今夜の紙を束ねた。〈名寄せ票・型〉〈作業記録〉〈札片の拾得〉。簪の歯で一度だけ締め直す。ほどけやすく、落ちない結び。
「入口――碑列の層順。現象――逆流と声。出口――結線と“名を拾う”。……明日は“紙垂の倉”。“混じり物”の通り道を紙で追う」
谷の世話人が深く頭を下げた。
「灯が落ち着けば、人の眠りが戻る。……あんたらの“順”は、ここでも通るんだな」
「“順”は人のためにあります。――紙も、香も」
咲凪は答え、灯をひとつ落とした。夜は静かに広がる。狐火の指輪が衣の下で短く鼓を打ち、遠い水音に紛れて消えた。
――札束の縁に煤。作りは“逆”。
明朝、倉で確かめる。入口を揃え、現象を洗い、出口を一本に。
子の初め、谷の影はさらに濃くなり、鎮魂碑の灯だけが糸のように山腹へ並んでいた。昼間に“上へ”伸びようとした火は、今は揺れながらも低く留まり、風の筋は細く均されている。咲凪は白布の上に三つの欄を割った。〈入口:風層と水脈〉〈現象:灯の逆流・声〉〈出口:結線の張り直し〉。簪の歯で角を揃え、狐火の指輪を袖の奥で静める。
谷の世話人が二人、夜具の肩を掻き合わせながら現れた。顔のしわは深いが、目は曇らない。
「昼過ぎは“上へ”伸びた。今は落ち着いとるが、時々、子どもの泣く声みたいなのが混じる。碑を撫でると、手が冷える」
「ありがとうございます。順を見ます」
咲凪は膝をつき、碑と碑の間の地を手で撫でた。砂利の噛み合わせ、水の逃げ道、そして札柱の根に巻かれた紙垂の向き。
春奈が要約紙を広げ、二行で骨を書く。〈風=上層東へ/水=下層西へ〉。
「層が交差してる。灯が“上”を選ぶのは、ここ」
明日美は板図に一分だけ線を引き足した。〈風:二層→一層〉〈水:溝切り〉。
「“溝”を切れば水は西へ逃げる。風は“刷毛”で撫でてやるように、一方向に揃える」
「俺が“声かけ”で人を集める」
大希が手を上げる。
「俺は橋は苦手で高い所が怖い。でも、地面の上なら平気だ。……谷の者らに“短く”頼む。“穴を三つ、砂利を五つ”って」
弱みの先出しが夜気の角を丸くし、世話人たちはすぐに頷いた。五人、六人と人影が増える。
翔は最小被害の手順を選び、灯の列に沿って静かに歩いた。
「“断つ”のは三カ所。瘴の糸が太い場所だけ。――ほかは“結び”で回す」
「はい。結びます」
咲凪は碑間に細麻紐を一筋、二筋と渡していく。足元の石へ接地を取り直す“撓い結び”。ほどけやすく、落ちない。
監視役は離れた岩に腰を下ろし、帳面に筆を走らせていた。灯が低くなるたびに唇が歪む。
「“偶然が二度”。記録する」
「偶然が続くなら、仕組みがある」
咲凪は白布の余白に小さく書く。〈仕組=層順〉。
作業が一巡したところで、碑の列の奥から、確かに声がした。泣くとも笑うともつかぬ声。山の風ではない。世話人の一人が肩を震わせ、目を伏せた。
「戦の年、供出の名に漏れがあった。……戻らぬ米の名が、碑の裏に引っかかっとる」
遅れて、翔が小さく頷いた。
「“返らなかったもの”が、ここに結び目を作っている。――断つ前に、名を拾う」
春奈が筆を取り、世話人の口から出る名前を一枚にまとめる。行の間を広く取り、余白に矢印をつける。
「供出名簿と一致を取りたい。――明日、倉で“納品帳の写し”と突き合わせる」
明日美はその場で“名寄せ票”の型を作り始めた。〈名/量/返/欠〉の四欄。手順は、先に骨を置く。
「結線、二巡目に入ります」
咲凪は結び目を一つずつ指先で確かめ、碑の陰に溜まった冷気を“地”へ落としていく。狐火は使わない。温度は湯の湯気で足元にだけ与える。
「“熱”は焦らせる。――夜は“湿り”で足を動かす」
翔は太い瘴の糸を三本だけ断ち、切り口が暴れないように“緊結札”で押さえた。刀も札も、無闇に振らない。
やがて、灯の揺れは細かく、低く、同じ拍子になった。世話人が掌を合わせると、冷たい風は指の間でほどけていく。
「……声が、遠のいた」
「谷の“入口”が落ち着いた。――“現象”は収まり、“出口”が見える」
咲凪は白布に〈完了:第一列〉と記した。
その時、監視役が帳面から顔を上げ、わざとらしく印籠を鳴らした。
「記録に“現象の自然沈静”と書く。――明朝、倉の検分は“中止”させうる」
「“入口票”に権限の根拠を」
春奈が静かに返し、二行を書き足す。〈監視=記録権〉〈中止=要根拠〉。
明日美は検分手順書の末尾に小さく“立会者欄”を増やした。谷番/一行/監視役――三つの印。止めるなら、止めた“記録”が残る。
夜半、溝切りが終わり、砂利が落ち着いた。大希が両手を擦り、息を吐く。
「膝は笑うけど、地面なら笑ってろって言える」
「言えるなら、動ける」
咲凪が笑い、世話人の湯呑を受け取った。湯気は薄く、器は厚い。夜の手の冷えには、こういう熱がいい。
ひと息ついたところで、碑の影から小走りの足音。谷の若者が札束を抱えて来た。
「倉の端で見つけた“余り”です。……古いのに、煤が新しい」
差し出された札の縁は、確かに薄黒く、指に細かな粉がつく。
「灯に近づけた“跡”」
咲凪が懐紙でそっと受け取り、簪の歯で角を撫でる。繊維の向きが表の矢印と逆。
「繊維向きと記載印の順が逆。――“作りの逆”は“流れの逆”を呼ぶ」
春奈が要約紙に〈札=逆〉〈縁=煤〉と二語で刻む。
「倉で“紙料の混入”を見るとき、まず“向き”と“煤”。……監視役にも“読み上げ”て伝える」
監視役は肩で笑い、帳面にまた筆を入れた。だが目は札の縁に止まっている。
丑の刻。結線は三巡目まで終わり、碑列は安定した。灯が一定の高さで呼吸し、風は一方向へ歩く。
翔は見回りの若者に必ず一言だけ置いていった。
「助かる。――交代を忘れるな」
礼が短く置かれるたび、交代の声が滑らかになる。
撤収前、咲凪は白布の上に今夜の紙を束ねた。〈名寄せ票・型〉〈作業記録〉〈札片の拾得〉。簪の歯で一度だけ締め直す。ほどけやすく、落ちない結び。
「入口――碑列の層順。現象――逆流と声。出口――結線と“名を拾う”。……明日は“紙垂の倉”。“混じり物”の通り道を紙で追う」
谷の世話人が深く頭を下げた。
「灯が落ち着けば、人の眠りが戻る。……あんたらの“順”は、ここでも通るんだな」
「“順”は人のためにあります。――紙も、香も」
咲凪は答え、灯をひとつ落とした。夜は静かに広がる。狐火の指輪が衣の下で短く鼓を打ち、遠い水音に紛れて消えた。
――札束の縁に煤。作りは“逆”。
明朝、倉で確かめる。入口を揃え、現象を洗い、出口を一本に。

