第22章_吊り橋の風、進路はひとつではない
翌朝、巳の刻。山肌の影が薄まり、谷口の空だけが遅れて青を見せ始めたころ、一行は吊り橋の手前に立った。風は下から上へ、谷気が吸い上げの筋を作っている。板は湿り、縄は新しく見えるのに、橋脚の根元だけが不自然に乾いていた。
明日美は最初に“入口票”を吊り橋の杭に結んだ。〈渡橋=検分中〉〈通過=停止〉。続けて板図を広げ、三行で骨を置く。
〈入口:橋の健全性〉〈現象:切断痕〉〈出口:迂回・荷綱渡し〉
「まず“現象”。――痕を見る」
咲凪は膝をつき、板の裏側から縄の芯を覗いた。簪の歯で繊維の向きをそっと撫でる。
「刃。――昨日の夕刻以降。乾きがまだ浅い」
翔は橋脚の石に手を置いて目を細めた。
「足場が“わざと”残してある。渡れると思わせるための“軽い罠”。……最小被害の手順としては“渡らない”が最善だ」
そこへ、監視役が印籠を掲げて前へ出た。
「郡より“迅速な通過”を命ぜられている。――検分は後回し、渡れ」
声は冷たく、足は橋に向かって迷いがない。
「渡らない」
咲凪は短く返し、白布に三行を記す。
〈費用対効果:渡橋=高コスト〉〈安全:不可〉〈倫理:同行者の命優先〉
「“順”は変えません。――入口は検分、現象は切断、出口は“他の道”」
大希が一歩前に出て、掌を見せる。
「俺は……高い所が苦手だ。欄干がないと、膝が笑う。だから、“渡れ”と言われても渡れない。けど、口は回る。谷番に“荷綱の代替渡し”を頼める」
弱みの先出しが空気の角を丸くする。谷番の老人はうなずき、倉の鍵を差し出した。
「荷綱ならある。――うちの“借用札”に書いていけ」
明日美が素早く借用札を書き、〈綱四条/木釘二十/滑車一〉を記す。老人の印が落ちる音が、谷に小さく響いた。
「迂回の選択肢は二つ」
明日美が板図に指を置く。
「一、尾根の“下通し”で岩棚づたい。二、川沿いの“荷綱渡し”で対岸の小道へ。――負担は“二”が小さい。ただし人手が要る」
「俺が声をかける」
大希は屯所へ駆け、炊き場や倉から手の空いた者に声をかけた。
「俺、橋はダメだ。だから“下で支える”側に回る。怖いのは俺だけじゃない。……一緒にやろう」
弱みの共有が、見知らぬ者の肩を緩めていく。すぐに四人、さらに三人と集まった。
「荷の結びは“ほどけやすく、落ちない”」
咲凪が縄の端を取り、簪の歯で結び目の角度を示した。
「“舟結び”で外れにくく、“追い結び”で荷の腰を止める。――結線札はここ、緊結札は“梁”」
翔は対岸に回る経路を先に歩き、危険箇所の石を払い、落ち葉を拾う。
「滑らない」
ただそれだけ言って戻ってくる。礼は後ではなく、先だ。
そのとき、裕斗が荷箱を一つ背に“よし、俺が先に渡る!”と足を踏み出しかけた。
「裕斗さん」
咲凪はその名を呼ぶだけで、指で“待て”の角度を作った。
「先に聞く」
彼はすぐに止まり、深く息を吐く。
「悪い。……“俺が”先に運ぶ、じゃない。“俺が”運べるように順を聞く、だな」
「はい。――順」
明日美が時刻割を示す。
「一巡目は“軽い箱”を女性と年寄りで。二巡目から“重い箱”。休憩比率は“二渡し一休み”。これで落荷ゼロ」
荷綱は川音をまたぎ、二本渡し。対岸には翔、こちらには咲凪。号令は春奈が取る。
「右、張る。――左、送る。……止め」
彼女の声は短く、迷いがない。加えて板に二語を大書して見せた。〈声=短〉〈動=同〉。書いて見せるだけで、集まった人々の動きがそろう。
第一箱が渡り切った。谷風が少し強くなり、縄がかすかに唸る。監視役が鼻で笑った。
「効率が悪い。橋を行けば済むことだ」
「“済む”のは“あなたの記録”です。――“人の命”は済まない」
咲凪は淡く言い、白布の余白に小さく書く。〈監視役:記録/我々:安全〉。
二巡目、川面から冷や気が上がる。大希が途中で息を切らし、正直に言う。
「ごめん、手が震えてきた。……代わってくれるか」
すぐに別の若者が替わり、彼は“声かけ”に回った。
「息を合わせよう。――長く吐いて、短く引く」
弱みを言った者ほど、次の場で強くなる。
日が高くなるころ、荷はすべて対岸へ移った。最後に人が渡る。春奈が号令を締め、縄を外すと、明日美は板図の上に新しい紙を置いた。
「〈迂回図〉。――通った道、危険箇所、休憩比率。あとで“誰かが同じ道を通る”ときの骨になる」
谷番は深く頷き、印を押した。
「ようやった。……渡る“前”に、ちゃんと聞いた。あんたらは“急がぬ”」
翔は老人へ礼を置く。
「助かったのは、あなた方の手だ。――この綱も板も。返す前に“乾かして”お返しします」
乾かし場を設え、濡れた綱を張って風を通す。咲凪は簪の歯で借用札の角を揃え、返却予定刻を記した。〈未刻返却〉。
昼餉のあと、監視役が袖を直し、印籠をわざとらしく見せた。
「郡よりの“仮許可”。――次は早く行け。記録に“遅延”と書くぞ」
「書いてください。理由は“切断痕検分・落荷ゼロ・迂回成功”。――紙は結果を記します」
春奈が二行で添える。〈遅延=理由〉〈記録=結果〉。
荷綱が乾き、返却に向かう途上。咲凪はふと吊り橋の根元を見た。石の陰、草に隠れるようにして、赤いものが半分埋まっている。
「止まって」
彼女は簪の歯で草をよけ、懐紙でそれをつまみ上げた。小さな丸い封蝋――朱の色が濃く、縁に欠け。
「“斜浅”。――封蝋室と同じ癖」
監視役の眼が細くなる。
「拾得物は、記録に」
「もちろん。“入口票”を書いてから」
明日美がすでに板の一角を確保していた。〈拾得:封蝋片/場所:橋脚根元/立会:谷番・監視〉。谷番の老人が印を置き、翔が短く礼を言う。
夕刻までに返却と礼を済ませ、屯所へ戻る。焚き火の上で湯が揺れ、風が温くなる。大希は自分で茶碗を二つこぼし、すぐに頭を下げた。
「悪い。手がまだ震えてる」
「大丈夫。――“言える”のが強さ」
咲凪は笑い、狐火の指輪を袖の内で静める。
夜、監視役が帳場の隅で帳面をまとめている。咲凪は白布の上に、今日の三つの紙を束ねた。〈迂回図〉〈荷綱借用札〉〈拾得封蝋片の記録〉。簪の歯で一度だけ締める。ほどけやすく、落ちない結び。
寝支度の直前、監視役が印籠を机に置いた。金の縁が灯に反射する。
「明日、納札倉の検分に行くと聞いた。……そこで“中止”を命ずる権限が、俺にはある」
「権限の“入口”を見ます」
咲凪は印籠を指し、角度を変えた。
「その印――“御祓役頭人”の落款ですね。郡の印だけではない。……“監視”という名の“妨害”の可能性」
監視役は一瞬だけ言葉を失い、机を指で叩いた。
「……明朝、倉にて」
足音が遠ざかる。焚き火の静かな音だけが残った。
咲凪は白布の端に小さく書いた。〈監視:御祓役頭人落款〉。
「入口は“倉”。――現象は“紙の混入”。
翌朝、巳の刻。山肌の影が薄まり、谷口の空だけが遅れて青を見せ始めたころ、一行は吊り橋の手前に立った。風は下から上へ、谷気が吸い上げの筋を作っている。板は湿り、縄は新しく見えるのに、橋脚の根元だけが不自然に乾いていた。
明日美は最初に“入口票”を吊り橋の杭に結んだ。〈渡橋=検分中〉〈通過=停止〉。続けて板図を広げ、三行で骨を置く。
〈入口:橋の健全性〉〈現象:切断痕〉〈出口:迂回・荷綱渡し〉
「まず“現象”。――痕を見る」
咲凪は膝をつき、板の裏側から縄の芯を覗いた。簪の歯で繊維の向きをそっと撫でる。
「刃。――昨日の夕刻以降。乾きがまだ浅い」
翔は橋脚の石に手を置いて目を細めた。
「足場が“わざと”残してある。渡れると思わせるための“軽い罠”。……最小被害の手順としては“渡らない”が最善だ」
そこへ、監視役が印籠を掲げて前へ出た。
「郡より“迅速な通過”を命ぜられている。――検分は後回し、渡れ」
声は冷たく、足は橋に向かって迷いがない。
「渡らない」
咲凪は短く返し、白布に三行を記す。
〈費用対効果:渡橋=高コスト〉〈安全:不可〉〈倫理:同行者の命優先〉
「“順”は変えません。――入口は検分、現象は切断、出口は“他の道”」
大希が一歩前に出て、掌を見せる。
「俺は……高い所が苦手だ。欄干がないと、膝が笑う。だから、“渡れ”と言われても渡れない。けど、口は回る。谷番に“荷綱の代替渡し”を頼める」
弱みの先出しが空気の角を丸くする。谷番の老人はうなずき、倉の鍵を差し出した。
「荷綱ならある。――うちの“借用札”に書いていけ」
明日美が素早く借用札を書き、〈綱四条/木釘二十/滑車一〉を記す。老人の印が落ちる音が、谷に小さく響いた。
「迂回の選択肢は二つ」
明日美が板図に指を置く。
「一、尾根の“下通し”で岩棚づたい。二、川沿いの“荷綱渡し”で対岸の小道へ。――負担は“二”が小さい。ただし人手が要る」
「俺が声をかける」
大希は屯所へ駆け、炊き場や倉から手の空いた者に声をかけた。
「俺、橋はダメだ。だから“下で支える”側に回る。怖いのは俺だけじゃない。……一緒にやろう」
弱みの共有が、見知らぬ者の肩を緩めていく。すぐに四人、さらに三人と集まった。
「荷の結びは“ほどけやすく、落ちない”」
咲凪が縄の端を取り、簪の歯で結び目の角度を示した。
「“舟結び”で外れにくく、“追い結び”で荷の腰を止める。――結線札はここ、緊結札は“梁”」
翔は対岸に回る経路を先に歩き、危険箇所の石を払い、落ち葉を拾う。
「滑らない」
ただそれだけ言って戻ってくる。礼は後ではなく、先だ。
そのとき、裕斗が荷箱を一つ背に“よし、俺が先に渡る!”と足を踏み出しかけた。
「裕斗さん」
咲凪はその名を呼ぶだけで、指で“待て”の角度を作った。
「先に聞く」
彼はすぐに止まり、深く息を吐く。
「悪い。……“俺が”先に運ぶ、じゃない。“俺が”運べるように順を聞く、だな」
「はい。――順」
明日美が時刻割を示す。
「一巡目は“軽い箱”を女性と年寄りで。二巡目から“重い箱”。休憩比率は“二渡し一休み”。これで落荷ゼロ」
荷綱は川音をまたぎ、二本渡し。対岸には翔、こちらには咲凪。号令は春奈が取る。
「右、張る。――左、送る。……止め」
彼女の声は短く、迷いがない。加えて板に二語を大書して見せた。〈声=短〉〈動=同〉。書いて見せるだけで、集まった人々の動きがそろう。
第一箱が渡り切った。谷風が少し強くなり、縄がかすかに唸る。監視役が鼻で笑った。
「効率が悪い。橋を行けば済むことだ」
「“済む”のは“あなたの記録”です。――“人の命”は済まない」
咲凪は淡く言い、白布の余白に小さく書く。〈監視役:記録/我々:安全〉。
二巡目、川面から冷や気が上がる。大希が途中で息を切らし、正直に言う。
「ごめん、手が震えてきた。……代わってくれるか」
すぐに別の若者が替わり、彼は“声かけ”に回った。
「息を合わせよう。――長く吐いて、短く引く」
弱みを言った者ほど、次の場で強くなる。
日が高くなるころ、荷はすべて対岸へ移った。最後に人が渡る。春奈が号令を締め、縄を外すと、明日美は板図の上に新しい紙を置いた。
「〈迂回図〉。――通った道、危険箇所、休憩比率。あとで“誰かが同じ道を通る”ときの骨になる」
谷番は深く頷き、印を押した。
「ようやった。……渡る“前”に、ちゃんと聞いた。あんたらは“急がぬ”」
翔は老人へ礼を置く。
「助かったのは、あなた方の手だ。――この綱も板も。返す前に“乾かして”お返しします」
乾かし場を設え、濡れた綱を張って風を通す。咲凪は簪の歯で借用札の角を揃え、返却予定刻を記した。〈未刻返却〉。
昼餉のあと、監視役が袖を直し、印籠をわざとらしく見せた。
「郡よりの“仮許可”。――次は早く行け。記録に“遅延”と書くぞ」
「書いてください。理由は“切断痕検分・落荷ゼロ・迂回成功”。――紙は結果を記します」
春奈が二行で添える。〈遅延=理由〉〈記録=結果〉。
荷綱が乾き、返却に向かう途上。咲凪はふと吊り橋の根元を見た。石の陰、草に隠れるようにして、赤いものが半分埋まっている。
「止まって」
彼女は簪の歯で草をよけ、懐紙でそれをつまみ上げた。小さな丸い封蝋――朱の色が濃く、縁に欠け。
「“斜浅”。――封蝋室と同じ癖」
監視役の眼が細くなる。
「拾得物は、記録に」
「もちろん。“入口票”を書いてから」
明日美がすでに板の一角を確保していた。〈拾得:封蝋片/場所:橋脚根元/立会:谷番・監視〉。谷番の老人が印を置き、翔が短く礼を言う。
夕刻までに返却と礼を済ませ、屯所へ戻る。焚き火の上で湯が揺れ、風が温くなる。大希は自分で茶碗を二つこぼし、すぐに頭を下げた。
「悪い。手がまだ震えてる」
「大丈夫。――“言える”のが強さ」
咲凪は笑い、狐火の指輪を袖の内で静める。
夜、監視役が帳場の隅で帳面をまとめている。咲凪は白布の上に、今日の三つの紙を束ねた。〈迂回図〉〈荷綱借用札〉〈拾得封蝋片の記録〉。簪の歯で一度だけ締める。ほどけやすく、落ちない結び。
寝支度の直前、監視役が印籠を机に置いた。金の縁が灯に反射する。
「明日、納札倉の検分に行くと聞いた。……そこで“中止”を命ずる権限が、俺にはある」
「権限の“入口”を見ます」
咲凪は印籠を指し、角度を変えた。
「その印――“御祓役頭人”の落款ですね。郡の印だけではない。……“監視”という名の“妨害”の可能性」
監視役は一瞬だけ言葉を失い、机を指で叩いた。
「……明朝、倉にて」
足音が遠ざかる。焚き火の静かな音だけが残った。
咲凪は白布の端に小さく書いた。〈監視:御祓役頭人落款〉。
「入口は“倉”。――現象は“紙の混入”。

