薄紅の簪は狐将を呼ぶ――千年都で“証拠”と“契約”から始まる和風シンデレラ恋

第21章_遠鳴りの鈴、山あいからの呼び出し
山あいに差し込む朝の光は、谷底の霧を溶かしながら少しずつ色を変えていく。咲凪は、まだ冷たい井戸水で顔を洗い、濡れた指先を手拭いで押さえた。屋敷の裏手からは、炊事場で立ち働く女中たちの包丁の音が、律儀な拍子を刻んでいる。
  そのとき、風に乗って小さな鈴の音が響いた。遠くで、しかしはっきりとした調子で、二度、三度と繰り返される。屋敷の者ならば誰もが知る――山あいの使者を知らせる合図だ。
  縁側に出て耳を澄ませると、廊下の奥から足音が近づく。現れたのは家令の藤尾で、いつもは無表情な顔に、わずかな緊張が走っていた。
 「お嬢様、山守衆からの呼び出しでございます」
 「山守衆……?」咲凪は眉を寄せた。「この時期に、何の用でしょう」
  藤尾は答えず、袖の中から小さな包みを差し出す。包み紙を開くと、薄く削られた木札と、紅い紐で結ばれた鈴が入っていた。木札には、墨で短く一文――《至急、黒杜峠》。
  黒杜峠。その名を聞いた途端、咲凪の脳裏に幼い日の記憶が過ぎった。父の商いに同行し、峠道で見た黒々とした樹海。その奥には、夜ごと人を惑わす霧と、姿を見せぬ何者かが棲むという噂があった。
 「準備を」咲凪は短く命じた。
  裏庭では、馬の鞍が締められ、行李がくくりつけられていく。翔はすでに出立の支度を整え、背負子を背負って現れた。
 「山守衆の呼び出しだって?」
 「そうよ。しかも黒杜峠。何かが起きているのは確か」
  翔はわずかに口角を上げた。「なら、急がないとな」
  春奈は縁側から二人を見つめ、唇を噛んでいた。彼女の瞳の奥に、うっすらとした影が差しているのを咲凪は見逃さなかったが、問いかける暇はない。
  屋敷の門を抜けると、朝の空気はひんやりとしていて、遠くの山肌には薄い靄がかかっていた。道の先、山あいから再び鈴の音が響く。その音色は、まるで何かを急き立てるように、咲凪の胸をざわつかせた。
 判決から十日。掲示の朱はすでに薄れ、榊屋の帳場には出納の墨が静かに重なっていた。黒杜峠の使者が残した木札を起点に、咲凪は机上の白布に三つの欄を割る。〈入口:呼び出し〉〈現象:鎮魂碑の逆流〉〈出口:出立・三日行程〉。簪の歯で角を揃え、声に出して自分の思考を並べる。
  「費用対効果、安全、倫理――順序よし」
  「行軍表、持ってきたよ」
  明日美が板図を広げた。三日行程、時刻割、経由村での負担最小化。欄外には“もしも”の枝が添えてある。〈吊り橋破損時:下道/荷綱渡し〉〈増水時:尾根越え・逆算+二刻〉。
  「入口一日目は北の尾根筋を採る。昼は谷口の番所で許可刻印、夜は水無谷の手前の屯所泊。二日目、谷内の“鎮魂碑列”で逆流の有無を確認。三日目、紙倉の検分と納品経路の洗い出し。――“経由村の負担”は最小に。差し入れは持参、炊き場は借りるだけ」
  翔が頷く。
  「頼みごとは短く、礼は長く。――人の力を“借りずに、でも一緒に”使う」
  大希が手を挙げる。
  「俺、先触れに回る。……高い所は苦手だ。橋は渡れないことがある。けど、口は回る。番所で“入口票”の段取り、もらってくる」
  弱みの先出しが空気を軽くした。咲凪は白布に〈先触れ:大希(高所×)〉と記し、すぐに“言伝の骨”を三行に落とす。
  〈霞京出立/御用の旨(仮)/経由村への負担軽減〉
  春奈は会合の端に座り、皆の主張を短く要約していく。〈尾根筋/橋×/番所併押〉〈紙倉検分/手順書〉〈鎮魂碑列/層順〉。筆は早いが、目は落ち着いていた。
  「私は夜になったら“黒墨の衝動”が来るかもしれない。――でも、今は要約を任務にする。燃やすより、残す」
  咲凪はただ首を縦に振った。責めない。役割を渡す。
  荷は最小構成。咲凪は印札束の中から“結線・緊結・封止”の三種だけを抜き、袋の口を簪の歯で一度だけ締めた。ほどけやすく、落ちない結び。
  「余計なものは持たない。――落とすのは紙ではなく、負担」
  裕斗が縄を肩に掛けて現れ、勢いのまま言う。
  「重い荷は俺が持つ。……先頭に立つ――」
  「立たないでください」
  咲凪が即答し、翔が笑みを含んで補う。
  「先頭は俺が“道の軽さ”を見る。君は“落ちた荷”を拾う役。――一番大事だ」
  「……了解。先に聞く」
  復唱が早い。場の歯車が滑らかに噛み合う。
  卯刻、榊屋を発つ。大路の出口で、翔は見回りの衛士に必ず「助かる」を置いた。
  「巡邏のおかげで、道が生きている」
  礼は短く、しかし一人ずつ。衛士の背が自然と伸び、通行札の提示も早まる。
  北へ。山裾の風は乾き、足下に小石が音を立てる。尾根へ上がる山路の手前で、大希が待っていた。
  「番所、通った。――“仮許可”は、出ない」
  「なぜ」
  「御祓役頭人の印が要る、って。……でも“側注”で、郡役所の印をもらえる道がある。『監視役』を一人付ける条件付き」
  春奈が即座に二語で拾う。〈仮許可=監視役〉。明日美は行軍表の欄外に枝を一本足した。〈監視役同行→出入口の札を厳密に〉。
  尾根道は、ふた筋の雲の影が追いかけっこをするように、明るさが交互に変わる。やがて、谷を渡る遠鳴りの鈴。二度、三度。水無谷の合図だ。
  谷口の番所では、谷番の老人が脇差ほどの木杖を手に待っていた。鼻梁の上の眼は曇らず、声は乾いている。
  「――鎮魂碑列が“上へ”火を吹いとる。碑の灯が、風に吸われず、空へ伸びる。声が混じるで、子どもらは近づけん」
  咲凪は頷き、白布に〈現象:上向き〉と書いた。
  「碑の“層順”を崩した可能性が高い。――紙札の繊維向きと記載印の順。まず“向き”を揃えます」
  春奈が番所の板卓で即席の合意紙を作る。〈炊き場貸与(自炊)/寝所は屯所端/道具借用は借用札〉。老人は細い指で印を押し、ため息をひとつ。
  「監視役が来とる。……書き付けでは“郡の同道”になっとる」
  現れた男は、細面で眼が鋭い。衣の袖に小さな金の縁取り。印籠を掲げる手の所作が、少し良すぎる。