薄紅の簪は狐将を呼ぶ――千年都で“証拠”と“契約”から始まる和風シンデレラ恋

第20話_落花の断罪、婚約破棄成る
午の前。公事所の評定所は、夏の白い光を障子でやわらげ、紙と朱の匂いをいつもより強くしていた。壇上に評定役、その左右に書記。香司の羽織は後列に退き、香盤の灰は平らに戻っている。大庭の熱はもう薄く、かわりに紙の音が規則正しく重なって、今日が“結び”であることを告げた。
  「判を告げる」
  木槌の音が一つ。書記が筆を立て、評定役が言葉を切り分けていく。
  「一、女官長・桂江――罷免。香材管理の監査において“混入”を認むる事実および部下への不当な指示につき、職に非ざらしむ。
  二、堂上家家令――減俸の上、謹慎。封蝋室における“二層の朱”および練油の混和の供述、真と認む。
  三、榊屋・咲凪――“禍津霊招来の術”の嫌疑、否。名誉を回復し、これを掲示三日。
  四、堂上家・景虎――公事の公正を損なう“口添え”の結果責を問う。官途、停止。期は別件評定の後に改めて定む」
  朱が落ちるたび、空気がひと段、静かに沈む。桂江は扇を伏せ、微笑の輪郭だけを残したまま動かない。景虎は目だけを正面に置き、家令は胸の前で手を握りしめた。
  「次に、“婚約の紙”」
  評定役の視線が咲凪へ移る。白布の上に置かれた書式に、明日美が小さく触れて角を揃えた。
  「榊屋よりの“破棄申し出”、理由は『虚偽と公文書偽造の関与』。根拠は公開質問状第三項――『足を止めぬ』。……受理する」
  書記が朱で「受理」の字を乗せ、掲示用の写しに同じ朱が落ちる。春奈は要約紙の余白に二行で刻んだ。
  〈破棄:榊屋より〉〈補填・名誉掲示〉。
  「補填について」
  明日美が一歩出て、板図で三段に示す。
  〈名誉回復の掲示(即日)〉〈損害補填の支払い(七日以内)〉〈誤報の訂正(瓦版・掲示)〉。
  「“混交否定”の掲示は御所門前・北市ともに再掲。――貼り高さは目線。紙の“骨”を残すためです」
  評定役は頷き、「適当」と短く添える。
  ここで裕斗が袖を正し、壇下から声を出した。
  「俺からも。……香座敷で、俺は荒立てた。競市でも先に突っ込んだ。けど、すぐ頭を下げた。――それも紙に残してくれていい。失敗は俺の責だ」
  場がわずかに緩み、書記の筆先がほんの少し柔らかくなった気がした。咲凪は横顔だけで頷く。反省の速さは、記録の強さになる。
  「最後に、榊屋・咲凪」
  評定役が正面を向く。
  「そなたの“術”は“結ぶ”。――“招来”していない。御所の夜、灯籠の接地により炎を一方向へ導いたこと、また“人の流れ”を結線して被害を最小にしたこと、いずれも“公の術”に反せず。……よって、今件の“ざまぁ”は紙の上にて成る」
  ざまぁ――その語が公の場で静かに言われると、人々は一瞬だけ息を呑み、次に短く頷いた。因果は、恣意ではなく手続きで下ろされた。
  散会の宣告の前、桂江が初めて扇を上げる。
  「香は嘘を学ぶ、と私は言ってきた。……それでも、人は“紙の骨”のほうを信じるのね」
  「香の筋も、紙の骨も、同じ一本でした」
  咲凪は淡く返す。
  「“学び始めた手”の圧が残った。――そして、圧は紙でも同じでした」
  桂江は一度だけ長いまばたきをし、扇を伏せた。
  木槌が二度。散会。
  翔は壇を下り、書記へ「助かる」を置いた。
  「急ぎの写し、感謝する」
  礼のひとことが働きの手を軽くし、判決謄本の交付はいつもよりわずかに早かった。明日美は受領印の位置を示し、春奈は掲示用の要点を“二行”に圧縮する。
  〈術なし/破棄受理〉
  〈罷免・官途停止〉
  掲示板の前では、瓦版屋の徒弟が短い見出しを彫っていた。
  〈落花の断罪〉〈榊屋の名誉〉〈官途停止〉
  「読める。――短い」
  老女がまた笑い、紙の前で一度だけ頷いた。大希は橋を避ける細道から戻り、息を弾ませつつも口は回る。
 「“骨三行”、配り終えた。……俺、橋は苦手だけど、道は知ってる」
  「ありがとう。入口は増やせました」
  咲凪が頭を下げ、狐火の指輪が衣の下で小さく鼓を打つ。
  評定所の外で、景虎が一人、白梅の影を踏んだ。
  「――官途は止まった。だが、“足を止めぬ”のYes は、消えない」
  「紙は“ほどける結び”です。――あなたが変えるなら、また紙で」
  咲凪の声は柔らかく、しかし逃げ道の方向を指し示す。景虎は短く頷き、「紙で」とだけ残した。白檀の香は薄い。
  榊屋へ戻ると、土間に新しい札が掛かった。
  〈名誉回復・掲示中〉〈婚約破棄・受理〉〈補填・七日〉
  明日美が紐の角を揃え、春奈が小さく添える。〈混交否定・再掲〉。裕斗は入口の白布を張り替え、下働きに「助かった」と頭を下げる。
  帳場では、判決謄本と補填受領印の位置が白布の上で一本に束ねられた。
  「入口――判の朱。現象――掲示と返戻。出口――“家の再建”」
  咲凪が息を整え、簪の歯で結び目を一度だけ締めた。ほどけやすく、落ちない結び。
  「費用対効果、安全、倫理。――順序、よし」
  夕刻、狐の社に短く詣でる。石段の苔は薄く乾き、鈴の音が浅く響く。仮契約の誓紙をそっと撫でると、紙は静かな温度で掌に応えた。
  「助かったのは君の“順”だ。俺は道を軽くしただけ」
  翔が隣で言い、落ち葉を一枚拾って石の角に添えた。
  「滑らない」
  「軽くなるから、順が通ります」
  同じ短い応酬が、今日の終いにも置かれる。
  社を辞すとき、風が一度だけ白梅の名残を運んだ。けれど香はもう、今日の判の朱ほど強くはない。因果は結ばれ、断つべきものは断たれた。
  帰り路、綾女の姿が屋敷の縁にあった。扇の骨は折れていないが、音は鳴らない。
  「紙で……負けたのね」
  「紙で守りました。――“順序”に戻れば、ほどけます」
  咲凪は淡く頭を下げ、彼女の通る道の端を空けた。
  夜、帳場の灯を一本だけ残し、掲示の控えを綴じる。狐火の指輪が衣の下で二度、柔らかく鼓を打った。
  「榊屋は沈まず。――紙は落ちない。人も、落とさない」
  咲凪は静かに呟き、白布を丁寧に畳む。
  明日の予定を明日美が一行で記す。
  〈入口:仕入網の再編/現象:遠出の許可申請/出口:都外の鎮定準備〉
  春奈は要約紙の新しい見出しに二語だけ置いた。〈怨霊騒乱〉〈遠征〉。大希は「橋は避ける道で行く」と笑い、裕斗は「先に聞く」を自分に復唱する。
  ――落花の断罪は済んだ。
  次は、都の外で荒ぶるものに“骨”を立て、香の筋ではなく、人の網で鎮める番。結ぶ手と断つ手は、まだ先へ。