第2話_帳簿と簪
翌日の午下、北市の喧噪は熱を残して揺れていた。榊屋の座敷には簾を半ばまで降ろし、帳場の机に帳簿と仕入札、昨夜の被害見積の紙束を広げる。墨は朝のうちに磨いだ。刷いたばかりの筆先が、薄く光る。
  咲凪はまず、勘定の流れを左から右へ視で追った。銀目、銅目、借方、貸方――指の節で軽く叩き、数の音を耳で確かめる。昨夜の焼け筋を写した紙片を、損料見積の下に差し込み、順序に番号を振った。費用対効果、安全、倫理の順に、提出資料の山が自然と等高線を描いていく。
  「座敷は片づいた?」
  襖の向こうから、継母・綾女の声がした。柔らかい布の擦れる音。扇の骨が一度だけ鳴る。
  「はい。被害は提灯六、屋根紙二。見積は明日美に渡す順で綴じました」
  答えると、綾女は端正な笑みを浮かべて座敷に入り、帳簿の端を指先でなぞった。
  「働き者ねぇ。――ところで、ここの桁、合っているのかしら」
  言いながら、彼女の爪が小数点の位置をそっとずらす。咲凪は筆を止め、無言で仕入札の控えと照合表を差し出した。
  「仕入札の単価はここ。帳簿の小数点が一つ右です。昨月から同じズレが繰り返されています」
  綾女の睫が一瞬だけ動く。
  「あなた、よく見える目をお持ちね」
  微笑は崩れない。けれど、扇の影で握られた力がわずかに強くなったのを、畳越しに感じた。
  「咲凪」
  外から声がして、のれんが揺れる。市井の連絡役・大希が、額の汗を拭いながら頭を下げた。
  「お、おれ、初対面が苦手で……それと、ちょっと吃る。高い所も怖い。けど、帳合の写し、もらってきた……す」
  彼は自分の弱みを先にテーブルへ置く癖がある。相手の腰を下げ、心を開かせるためだ。差し出された包みを受け取り、咲凪は丁寧に紐を解いた。取引先二軒の帳合写し。仕入れ数量、日附、印の欠けまで一致している。
  「助かりました。これで時系列が繋がります」
  大希は安堵の笑みを浮かべる。
  「屋根の修繕、梯子は任せる。……おれ、上で足すくむから」
  弱みを笑いにせず明かす、その率直さが紙より重い信用になる。
  昼過ぎ、玄関先に明日美が現れた。社の仕事帰りらしく、袂に細かな紙束が整然と収まっている。
  「提出の順番、こうします。――一、被害見積。二、仕入札控え。三、帳合写し。四、昨夜の焼け筋写し。五、帳簿の該当頁。役所は“根拠→現象→帳簿”の並びが好きです。判を押す位置に糸を通しておきます」
  彼女は淡々と段取りを述べ、紙束の角をそろえた。咲凪は頷き、筆で付箋代わりの小片に番号を書き、紙の右肩に貼る。
  綾女はその様子を黙って見ていたが、ふいに扇で笑みを隠した。
  「まあ頼もしいこと。けれど、役所は忙しいわ。うちの件など、順番待ちでいつになるやら」
  明日美は涼しく微笑む。
  「午刻の窓口、空き枠を取ってあります。書式も整え済みですから、即日受理で」
  沈黙が一拍。綾女は笑顔のまま扇を閉じた。
  咲凪は机の端に簪を外し、紙紐の上で軽く転がした。細い銀の歯が、結び目の甘い箇所を教えてくれる。縁を結び替える感覚は、紙を束ねる所作と同じだ。弱いところを先に補強する。順番を間違えない。
  「行ってきます」
  四人で座敷を出ると、玄関脇の陰で義姉の琴葉と真珠が囁いた。
  「書き立てて何になるの。お母様に恥をかかせるつもり?」
  咲凪は立ち止まらず、足の向きを変えるだけで人の流れから二人の視線を外す。反論は、書類の順と印の位置が代わりにしてくれる。
  公事所の石段は熱く、午後の光を白く跳ね返していた。明日美が受付へ紙束を滑らせ、必要な朱印の順を三語で示す。窓口の書記が感心したように眉を上げた。
  「提出順が整っているのは助かります。――帳合の写し、印影の欠けも一致。これは……受理」
  軽い音で判が落ちる。書記が顔を上げると、後ろに立つ咲凪へ小さく微笑んだ。
  「昨夜の騒ぎ、片づけが早かったそうだね」
  「皆さんが動いてくださったおかげです」
  咲凪は視線を外さずに答える。謝意は相手の足を軽くする。昨夜、翔が幾度も示した当たり前の動きが、今は自分の舌に宿っている。
  提出を終えた帰り道、石橋の上で大希が足を止めた。
  「……おれ、さっき高欄見るだけで膝が笑った」
  照れて笑う彼に、咲凪は「では真ん中を通りましょう」と言って、群衆の流れの中に安全な筋を作る。足並みが揃い、三人の歩幅が自然と一致した。
  榊屋へ戻ると、座敷の空気は朝より冷えていた。綾女が客の男二人を相手に、茶を勧めている。金の縁取りの袴、舌に残る白檀――御所に出入りする商人だ。
  「まあ、戻ったの」
  綾女は笑い、客へ咲凪を示す。
 「こちら、うちの娘。帳場をよく手伝ってくれるの」
  客が目を細めた。
  「噂は聞いておりますよ。――細かいところまで」
  細かい、の語尾に湿り気がある。咲凪は会釈し、座敷の隅に控えた。
  程なくして客が帰ると、綾女は茶器の音を少し強く鳴らした。
  「咲凪。家のために力を尽くすなら、余計なことはしないことね。役所だの、書類だの、ああいうのは“上”に任せておけばいいの」
  「“上”?」
  「そう、わたくしには頼れる方がいるの。あなたが小賢しく走り回るより、よほど早く話が通るわ」
  扇の影に、笑いとも溜息ともつかぬ息が落ちた。
  咲凪は返事を遅らせ、帳場の机に座って帳簿の角を直した。遅らせた一呼吸の間に、感情ではなく順序に答えを置く。
  「役所への提出は、榊屋のためです。桁のズレが重なれば、いずれ誰かが罰を受けます。――受けるべきでない誰かが」
  綾女の唇の色が、扇の影でわずかに冷えた。
  「言葉が過ぎるわ」
  「言葉より、数字が先にあります」
  静かに重ねると、床の間の花が小さく揺れた。
  そこへ、裏口から小走りの足音。明日美が掌に小さな袋を載せて戻ってきた。
  「これ、仕入札の控え。先方の保管箱から“複写”の扱いで預かりました。