第19話_公開香合裁定、結ぶ手と断つ手
巳の刻、夏の光はまだ白く、公事所の大庭は石の熱をため込む前の平らさを保っていた。見聞の列は格子の影のように長く、香司の紋を付けた羽織が風に鳴る。壇の上には評定役、左右に書記。正面には榊屋の白布、対して堂上家の紋。女官長・桂江は扇を伏せ、景虎は目だけを冷やしている。
「公開香合裁定、開く」
木槌の音が一つ。書記が筆を立て、香司が前に出る。
「本日の争点は三。――一、“禍津霊招来の術”の有無。二、香の“層逆転”の有無と意図。三、封蝋室および油屋における“帳外と追記”の連鎖」
明日美が白布の上に三つの札を立てる。〈入口〉〈現象〉〈出口〉。春奈は要約紙を広げ、対立の言い分を二行に削ぐ。
〈堂上家・桂江派〉「場を整えるための“添え”」「風と袖で見える逆層」
〈榊屋〉「添えが“先”となり層が逆」「風は一本、逆は三本=意図」
「まず、入口」
咲凪が一歩進み、香痕写しと油屋の売買帳写しを角を揃えて置く。
「封蝋室“白梅中”の欠け――南東“斜浅”。油屋の家印――同“斜浅”。“返答書封”の朱は二層。――入口、一本です」
香司が頷き、印の癖と朱の濃淡に印を打つ。
「現象」
香司は銀葉を温め、基準の白檀“初花”、沈香“羅国”、練香“雪の端”を焚く。続いて証香三つ。
「一、上に練油。二、羅国先行。三、封蝋油を含む丸味。――いずれも“逆”。風では起きぬ」
「反論を」
評定役の声に、桂江が扇を半ば開く。
「“場”を整えるために香を添えることはあるわ。――『逆』は見聞の未熟が作ることも」
「だから、三つ同時には起きぬ」
咲凪は淡々と返す。
「“学び始めた手”は“圧”を残す。反転写の筆圧、封蝋の浅い圧――紙も香も同じ癖」
香司が「同意」と短く添えた。
「では、“術”」
評定役の視線が咲凪へ向く。
「榊屋・咲凪。――そなたは“禍津霊招来の術”を用いたか」
「用いていません。私は“縁結び結線”で人と物の流れを再配線しました。――灯籠を接地し、炎の流れを一方向へ。『被害最小化』の術です」
春奈が要約紙に〈結線=誘導〉〈招来≠〉と書き、明日美が図で“灯籠の接地”を示す。
「証言」
大希が一歩出て、弱みを先に置く。
「俺は橋が苦手で高い所が怖い。――だから、下から“灯籠の並び”を見てた。結んだのは“灯の線”で、怪しい“呼び”は見てない」
率直さは場の硬さを解く。
ここで翔が進む。
「“断ち”の申し出。――家令に“逃げ道(軽減)”を」
家令は何度か喉を鳴らし、頭を下げた。
「封蝋室で、練油を白檀に馴染ませるよう命じられ……順を誤った。羅国を先に温め、練油を上へ。――それを証香に混ぜた。招来の術は見ていない」
評定役は木槌を置き、香司が印を打つ。
「混入、認定。――“術”の立証は成らず」
「では“出口”」
明日美が掲示の控えを出し、順番を三行で示す。〈混入認定→封蝋室再照合→管理監査〉。
春奈は対立の骨を最後に一行へ。
〈意図より結果〉
「“体面の挨拶”は意図の言葉。――紙は結果を記す」
評定役が壇上で短く息を吸い、判を持つ書記へ視線を落とした。
「暫定認定を改め、ここに告げる。――一、榊屋・咲凪に“禍津霊招来”の術なし。二、証香への混入は意図・過失いずれにせよ事実。三、封蝋室および書記局の記録に“帳外・追記・二層”の不正がある」
木槌が二度。ざわめきが立ち、風が一瞬、白くなった気がした。
「処分案」
書記が読み上げる。
「香材管理の監査を直ちに実施。女官長・桂江は“罷免”を視野に職務差止継続。家令は減俸の上、謹慎。――堂上家・景虎は官途の“停止”を検討」
桂江の扇が一度だけ硬く鳴り、彼女は微笑を崩さずに目を伏せた。
「風は、変わるもの」
「紙は、変わる“前”に記すものです」
咲凪の言葉は静かだが、白布の角のように揺れない。
ここで景虎が前へ出た。白檀の香は薄い。
「俺は――“Yes”と書いた。『君の足を止めぬ』と。今日、それを改めて“公の場”で言う。……堂上家の体面より、紙の順を選ぶ」
春奈が要約紙の余白に〈Q3:Yes(公言)〉と小さく書いた。
評定役が結びを宣しようとしたとき、桂江が扇を伏せたまま、静かに口を開いた。
「香は嘘を学ぶ、と言ったでしょう。――嘘を学び終えた手は、香を使わない」
「今日は、“学び始めた手”が混ぜました」
香司の補助役が応じ、印を最後に一つ。
「結び」
評定役が木槌を置く。
「本件、最終の判は明日。――ただし、『榊屋の名誉回復』の掲示は本日より。『婚姻と商いの混交は否』の再掲示も」
明日美が白布の上の紙をまとめ、掲示の順を朱で示した。
列が動き、熱が段々とほどける。翔は下働きに「助かる」を置いてゆき、裕斗はすれ違いざまに香盤を支えた手へ「悪い、助かった」と頭を下げる。
咲凪は白布の角を揃え、簪の歯で一度だけ結び目を締めた。ほどけやすく、落ちない結び。狐火の指輪が衣の下で二度、柔らかく鼓を打つ。
――出口は一本に結ばれた。
残るは判の一打ち、そして“婚約破棄”の紙。結ぶ手と断つ手の両方で、落花を見届ける。
評定の散会を告げる木槌が去ったあとも、大庭の石は小さく呼吸していた。香の薄雲は崩れ、代わりに紙の音が風に混じる。掲示板の前では、瓦版屋の徒弟が三行だけを大書して貼った。
〈術なし〉〈混入認定〉〈管理監査〉
人の口は長くならず、目は短い行に戻る。春奈が要約紙の末尾に、さらに二語を添えた。〈名誉回復〉〈混交否定〉。明日美は貼り順を調整し、〈名誉回復〉を最上段、〈混交否定〉をその次に置く。順序が骨を立てる。
「出口の“掲示”完了。――残りは『明日の判』と『婚約の紙』」
明日美が白布をたぐり、角をそろえる。
「“婚姻と商いの混交は否”の再掲示、御所門前と北市に。
巳の刻、夏の光はまだ白く、公事所の大庭は石の熱をため込む前の平らさを保っていた。見聞の列は格子の影のように長く、香司の紋を付けた羽織が風に鳴る。壇の上には評定役、左右に書記。正面には榊屋の白布、対して堂上家の紋。女官長・桂江は扇を伏せ、景虎は目だけを冷やしている。
「公開香合裁定、開く」
木槌の音が一つ。書記が筆を立て、香司が前に出る。
「本日の争点は三。――一、“禍津霊招来の術”の有無。二、香の“層逆転”の有無と意図。三、封蝋室および油屋における“帳外と追記”の連鎖」
明日美が白布の上に三つの札を立てる。〈入口〉〈現象〉〈出口〉。春奈は要約紙を広げ、対立の言い分を二行に削ぐ。
〈堂上家・桂江派〉「場を整えるための“添え”」「風と袖で見える逆層」
〈榊屋〉「添えが“先”となり層が逆」「風は一本、逆は三本=意図」
「まず、入口」
咲凪が一歩進み、香痕写しと油屋の売買帳写しを角を揃えて置く。
「封蝋室“白梅中”の欠け――南東“斜浅”。油屋の家印――同“斜浅”。“返答書封”の朱は二層。――入口、一本です」
香司が頷き、印の癖と朱の濃淡に印を打つ。
「現象」
香司は銀葉を温め、基準の白檀“初花”、沈香“羅国”、練香“雪の端”を焚く。続いて証香三つ。
「一、上に練油。二、羅国先行。三、封蝋油を含む丸味。――いずれも“逆”。風では起きぬ」
「反論を」
評定役の声に、桂江が扇を半ば開く。
「“場”を整えるために香を添えることはあるわ。――『逆』は見聞の未熟が作ることも」
「だから、三つ同時には起きぬ」
咲凪は淡々と返す。
「“学び始めた手”は“圧”を残す。反転写の筆圧、封蝋の浅い圧――紙も香も同じ癖」
香司が「同意」と短く添えた。
「では、“術”」
評定役の視線が咲凪へ向く。
「榊屋・咲凪。――そなたは“禍津霊招来の術”を用いたか」
「用いていません。私は“縁結び結線”で人と物の流れを再配線しました。――灯籠を接地し、炎の流れを一方向へ。『被害最小化』の術です」
春奈が要約紙に〈結線=誘導〉〈招来≠〉と書き、明日美が図で“灯籠の接地”を示す。
「証言」
大希が一歩出て、弱みを先に置く。
「俺は橋が苦手で高い所が怖い。――だから、下から“灯籠の並び”を見てた。結んだのは“灯の線”で、怪しい“呼び”は見てない」
率直さは場の硬さを解く。
ここで翔が進む。
「“断ち”の申し出。――家令に“逃げ道(軽減)”を」
家令は何度か喉を鳴らし、頭を下げた。
「封蝋室で、練油を白檀に馴染ませるよう命じられ……順を誤った。羅国を先に温め、練油を上へ。――それを証香に混ぜた。招来の術は見ていない」
評定役は木槌を置き、香司が印を打つ。
「混入、認定。――“術”の立証は成らず」
「では“出口”」
明日美が掲示の控えを出し、順番を三行で示す。〈混入認定→封蝋室再照合→管理監査〉。
春奈は対立の骨を最後に一行へ。
〈意図より結果〉
「“体面の挨拶”は意図の言葉。――紙は結果を記す」
評定役が壇上で短く息を吸い、判を持つ書記へ視線を落とした。
「暫定認定を改め、ここに告げる。――一、榊屋・咲凪に“禍津霊招来”の術なし。二、証香への混入は意図・過失いずれにせよ事実。三、封蝋室および書記局の記録に“帳外・追記・二層”の不正がある」
木槌が二度。ざわめきが立ち、風が一瞬、白くなった気がした。
「処分案」
書記が読み上げる。
「香材管理の監査を直ちに実施。女官長・桂江は“罷免”を視野に職務差止継続。家令は減俸の上、謹慎。――堂上家・景虎は官途の“停止”を検討」
桂江の扇が一度だけ硬く鳴り、彼女は微笑を崩さずに目を伏せた。
「風は、変わるもの」
「紙は、変わる“前”に記すものです」
咲凪の言葉は静かだが、白布の角のように揺れない。
ここで景虎が前へ出た。白檀の香は薄い。
「俺は――“Yes”と書いた。『君の足を止めぬ』と。今日、それを改めて“公の場”で言う。……堂上家の体面より、紙の順を選ぶ」
春奈が要約紙の余白に〈Q3:Yes(公言)〉と小さく書いた。
評定役が結びを宣しようとしたとき、桂江が扇を伏せたまま、静かに口を開いた。
「香は嘘を学ぶ、と言ったでしょう。――嘘を学び終えた手は、香を使わない」
「今日は、“学び始めた手”が混ぜました」
香司の補助役が応じ、印を最後に一つ。
「結び」
評定役が木槌を置く。
「本件、最終の判は明日。――ただし、『榊屋の名誉回復』の掲示は本日より。『婚姻と商いの混交は否』の再掲示も」
明日美が白布の上の紙をまとめ、掲示の順を朱で示した。
列が動き、熱が段々とほどける。翔は下働きに「助かる」を置いてゆき、裕斗はすれ違いざまに香盤を支えた手へ「悪い、助かった」と頭を下げる。
咲凪は白布の角を揃え、簪の歯で一度だけ結び目を締めた。ほどけやすく、落ちない結び。狐火の指輪が衣の下で二度、柔らかく鼓を打つ。
――出口は一本に結ばれた。
残るは判の一打ち、そして“婚約破棄”の紙。結ぶ手と断つ手の両方で、落花を見届ける。
評定の散会を告げる木槌が去ったあとも、大庭の石は小さく呼吸していた。香の薄雲は崩れ、代わりに紙の音が風に混じる。掲示板の前では、瓦版屋の徒弟が三行だけを大書して貼った。
〈術なし〉〈混入認定〉〈管理監査〉
人の口は長くならず、目は短い行に戻る。春奈が要約紙の末尾に、さらに二語を添えた。〈名誉回復〉〈混交否定〉。明日美は貼り順を調整し、〈名誉回復〉を最上段、〈混交否定〉をその次に置く。順序が骨を立てる。
「出口の“掲示”完了。――残りは『明日の判』と『婚約の紙』」
明日美が白布をたぐり、角をそろえる。
「“婚姻と商いの混交は否”の再掲示、御所門前と北市に。


