薄紅の簪は狐将を呼ぶ――千年都で“証拠”と“契約”から始まる和風シンデレラ恋

第18話_夜半の誣告
子の刻、榊屋の屋根を薄く洗った月が雲に呑まれ、裏木戸のほうから冷えた気がするりと入ってきた。板間に置いた白布の端がひとすじ揺れたとき、戸前に小槌の音。公事所の使いの定められた合図――それでも、今夜のそれはわずかに急く。
  「榊屋・咲凪殿。――“禍津霊招来の術を用いた”嫌疑により、連行を命ず」
  先頭の役人は、紙の角だけを無駄なく揃えて告げた。背後に衛士二、書記一。袖の香は、白檀に似せて浅い。
  「入口票を」
  咲凪は静かに言った。簪の歯で白布の角を軽く押さえ、狐火の指輪を袖の内で沈める。
  「“持入り・持出し・通過のみ”。どの札で私を通しますか」
  書記がわずかに目を細め、役人の肘を押した。
  「“通過のみ”。――留置にて事情聴取」
  明日美がすでに筆をとり、木札へ三行で刻む。〈連行:通過/留置:子刻〉〈容疑:禍津霊招来〉〈併押:公事所印〉。春奈は「言い分の骨」を二行に削いで壁へ貼った。〈彼ら:禍津の術/こちら:香合偽記録〉。
  翔は列の後ろへ回り、下働きに「助かる」を置きながら、順に礼を通して空気を薄める。
  「俺は役所筋→御所→陰陽寮の順で面会を取りつける。――被害を最小に」
  短く、しかし筋のある言葉。咲凪はうなずき、帯だけを替え、白布で包んだ“処分通達の副本”“香司の鑑別要点”“油屋の写し”の三点を明日美へ託す。
  「入口と証拠の骨、家に残します。……私は『通過』」
  留置の小屋はひんやりとして、石の床が湿っていた。鉄格子の先に灯が一つ、夜番の影が長い。
  「榊屋の娘」
  夜番の声は古く乾いていた。
  「指は見せるな。――噛む奴がいる」
  「ありがとうございます」
  礼を先に置き、咲凪は格子の手前で足を揃えた。狐火の指輪は袖の底で脈をひそめ、簪の歯は一度だけ結び目をたしかめた。
  しばらくして、春奈が風のように現れた。顔は白く、指先に黒墨の跡。懐から薄い包みを出して差し入れ口へ滑らせる。
  「“香合記録帳”の写し……が、これ。――『偽造の可能性』あり」
  紙を開くと、行間の間引き、筆圧の不自然な浅さ、そして“層”の語の使い方だけが急に増えている。
  「“学び始めた手”の語り方」
  咲凪が呟くと、春奈は唇を噛み、火のない焚火を見つめるように目を落とした。袖の内で、小さな紙が擦れる音。燃やす直前の“黒墨の手紙”の記憶が、彼女の肩を陰に引く。
  「私の机から、あの夜……燃え残りが出た。――私が“内”かもしれない」
  「春奈」
  咲凪は鉄格子に手を添えた。
  「責めぬ。――任務を」
  短く、確かな言葉。春奈は湿った息を吸い、頷いた。
  「要約と“入口票”を整える。――『偽造香合記録の筆跡』『封蝋室の二層』『油屋の追記』。三点を一本の骨に」
  夜は深まり、子の二つ。格子の向こうに、別の影。景虎の家令だ。顔は硬いが、声はかすれていた。
  「……明朝、公開の“香合裁定”。お前の“招来”を立証する証香が、用意される」
  「“用意される”」
  咲凪は聞き返す形で整える。
  「入口は?」
  家令は目を伏せ、ややしてから言った。
 「封蝋室。――『殿上の風』の指示で、香を“添えた”」
  「供述の“断ち”を」
  格子の影から翔の声が重なる。彼は役所筋→御所→陰陽寮の順に面会を取りつけ、その最後でここへ走ってきたのだ。
  「虚偽の連鎖を断つ供述は、軽減の道につながる。――言葉は短く、逃げ道を残してよい」
  家令の喉が上下し、唇が乾いた音を立てる。
  「……“添えた”。――層は、逆に」
  春奈が二語で拾う。〈供述:添〉〈層:逆〉。
  夜番が咳払いし、紙を差し出した。
  「“夜半の誣告届出”。――『榊屋・咲凪、禍津霊を招来し、狐の守りを私す』」
  文字は太く、しかし行は乱れ、印の朱が濃い。濃すぎる朱は、昼の熱で溶いたもの。
  「“朱、濃”。――昼の温の癖」
  咲凪が低く言うと、夜番の眉が揺れた。
  「……紙で返すのか」
  「はい。入口は『香司立会いの再鑑』、現象は『香の層の逆転』、出口は『封蝋室の二層・油屋の追記・門前の物目録』。一本に」
  春奈が差し入れた包みの隅に、さらに薄い紙が挟まっていた。彼女が自分で書き、燃やさず残した二行。
  〈自罰:燃やす衝動/任務:要約〉
  咲凪はそれを格子越しに受け取り、頷いた。
  「“燃やす手”は“要約の手”へ。……入口を刈り、出口を揃える」
  春奈の口元に、ようやくわずかな笑みが灯る。
  子の三つ、留置の通路に、狐火ではない温度が走った。翔が衛士と短くやりとりをし、面会の順を確認する。
  「次は御所。――香司に“立会い請求”。その後、陰陽寮。寮の“誓紙鍵”で物の出入りを止める」
  「ありがとう」
  「助かったのは君の“順”だ。俺はただ、道を軽くする」
  短い応酬に、鉄格子の冷えが一分だけ薄まった。
  明け方に近い刻、咲凪は細い眠りを一片だけ取った。夢の中でも、紙の角は揃っていて、簪の歯が一度だけ結び目を締めた。ほどけやすく、落ちない結び。
  寅の初め、春奈が戻る。目は冴え、手には「入口票」。
  〈入口:偽造香合記録の筆跡(反転写)〉
  〈現象:層逆転の再鑑(香司立会)〉
 〈出口:封蝋室二層・油屋追記・門目録〉
  「対立の言い分は『招来の術』/『混入と口添え』。――落とし所は『公開香合裁定にて“結ぶ/断つ”を同時に』」
  彼女はそれを格子に貼り、逃げ道の矢印を一本だけ残した。論のためではなく、人のために。
  卯の刻。外がうっすらと明るむ。夜番が鍵を鳴らし、短く言う。
  「公事所だ。――行くぞ」
  鉄が鳴り、戸が開く。咲凪は白布で包んだ小さな包みを抱え、格子から一歩、外へ出た。狐火の指輪は衣の下で短く脈を打ち、簪は髪の根でかすかに鳴る。
  出口へ歩き出す前に、春奈が呼び止めた。
  「咲凪」
  咲凪は振り返らない。振り返れば、彼女が燃やしかけた自罰の影が戻ってしまう気がしたから。
  「……任務を」
  春奈は自分に向けて言い、咲凪に届かせた。
  「はい」
  咲凪は答え、歩く。費用対効果、安全、倫理。順序はいつも同じ。だが今日は、その順序が誰かの心も救う。
  回廊を抜ける角で、翔が待っていた。
  「俺は“断つ”。虚偽の連鎖を。――君は」
  「“結ぶ”。証の糸を一本に。入口はそろった。出口は大庭で」
  短い言葉が、朝の冷えに芯を置く。
  公事所の屋根が白む。庭に人影が集まり、香司の紋の羽織が並ぶ。桂江の扇の骨はまだ鳴らない。――これからだ。
  咲凪は白布の角を揃え、深く一つ息を吸った。
  「虚偽を禁ず。危険時は呼ぶ。自ら歩く」
  誓いの三行は胸の内に刻まれていた。狐火の指輪が衣の下で二度、柔らかく鼓を打つ。
  ――夜半の誣告は、入口に過ぎない。
  結ぶ手と断つ手で、公開の場へ。紙の骨で、香の筋で。虚偽の連鎖を切る。