薄紅の簪は狐将を呼ぶ――千年都で“証拠”と“契約”から始まる和風シンデレラ恋

第17話_狐火の看護、心は近づく
その夜の榊屋は、競市の余熱をまだ板間に抱いていた。帳場には白布と返戻の控えが積まれ、軒先には空の荷車が二つ。明日美は「明朝納品順」の札を三枚に分け、春奈は今日の「言い分の骨」を二行に削って綴じている。咲凪は簪の歯で帳面の紐を一度だけ締め、狐火の指輪を袖の内で静めた。――終い支度。
  その時だ。裏木戸の戸栓が、外から猫のような軽さで二度揺れた。続いて、板間のどこかで油の匂いが強くなる。家の呼吸がひとつ止まり、翔の視線が闇の角を射る。
  「火皿を奥へ。――灯は一本だけ残せ」
  声は低く、最小の被害で勝つ手順の声だった。明日美が即座に灯の位置を半歩ずらし、影の濃淡を均す。
  裏木戸がわずかに開き、黒い袖が滑り込んだ。次の瞬間、縄が走る。帳場の柱に張られた細縄が切られ、紙束が床へ散る――はずだった。
  「角、押えます」
  咲凪は散らばる前の角を片手で束ね、反対の手で白布を滑らせて舟の結びで包む。ほどけやすく、落ちない結び。紙は落ちない。
  闇が動き、二人、三人。顔を包む薄布、袖口には同じ紐印の札。裕斗が先に飛び込んだ。
  「こらぁ!」
  強い足が二歩で間合いを詰め、姿のひとりを柱に叩きつける。だが次の一人が背から回り、柄で打ち下ろす。
  「下がれ」
  翔が前へ出る。狐火は呼ばない。床の軋みと影の長さで人数と角度を測ると、最小手数で手首を刈り、膝を払う。倒れた男の指から刃が離れ、板に鈍く跳ねる。
  「数、四。――一は外」
  短い報告。翔がもう一歩斜めに入って、最後の一人の肘を極めたとき、背に鈍い衝撃が走った。梁の陰から伸びた棒が肩口を打ったのだ。衣が裂け、白が赤に滲む。
  「翔!」
  咲凪の声は短い。感情は置いておく。――費用対効果、安全、倫理。順序。
  「裕斗さん、入口閉め。鍵は“上から”。押し棒は逆側」
  「お、おう!」
  裕斗は荒い息で頷き、すぐに戸を内から落とす。反省は後。動作は先。
  春奈は逃げ道を見に回りながら、要約紙の余白に二語を書き込んだ。〈襲来:四〉〈傷:肩〉。場の混乱を紙に逃がす。
  「大希さん、詰所へ“側注”の使いを。弱みは先に」
  「おれ、橋は苦手で足が遅い。……でも、口は回る。任せてくれ」
  彼は自分の弱みで相手の肩を緩める術を忘れない。
  翔は肩を押さえたまま、最後の一人の腕から力を抜かせた。
  「もういい。――出ていけ」
  男たちは互いの腕を引きずり、裏木戸へ退く。その途中、ひとりの袖から小さな紐印の札がこぼれた。
  「拾います」
  咲凪が簪で札の角を押さえ、懐紙に包む。印はあの封蝋室で見た“白梅中”の斜浅と似た癖。
  扉が閉まり、静けさが戻る。戻った直後、痛みの色が翔の顔に遅れて浮いた。
  「ごめん。――先に、礼を」
  彼はまず下働きへ「助かる」を置いた。そのあとで、壁に背を預ける。
  「処置します」
  咲凪は即座に段取りへ入る。
  「止血、固定、保温。――順に」
  帳場の白布を臨時の清潔布に替え、湯を二つに分ける。片方は熱め、片方は温い。
  「裕斗さん、手を洗って。左で布を押える係。『押えるだけ』です。引かない」
  「了解。……引かない」
  すぐに復唱が返る。反省の速さは、指示の速さに変わる。
  衣を裂いて患部を出す。肩の上外側、打撲と裂創。深さ、指一節。血は筋に沿って下へ流れている。
  「翔、痛みの尺度を。――今、十を“最悪”として」
  「七」
  「よし。上から圧迫。――温い湯で周りだけ清めます。中は触らない」
  咲凪は理屈で覚えた通りに、作業の根拠を声に乗せる。自分にも、周りにも落ち着きを配るためだ。
  血がやや落ち着いたところで、肩甲の動きを止めるための簡易固定に移る。
  「三角巾はないので、帯で代用。――腕を胸に。肘は九十度。『手のひらは見える』」
  明日美が帯を準備し、春奈が「手順」を二行で壁へ貼る。〈圧迫→固定〉〈清拭→保温〉。紙は皆の視線を同じ方向へ向ける。
  「寒気は」
  「少し」
  「保温します。――狐火は“熱源”に使わない。温度が上がりすぎるから」
  咲凪は狐火を使わず、湯気の上がる茶碗を近くに置いて、湿りの暖かさだけを肩から離した腹側へ送る。翔は素直に従い、呼吸の幅を少し広げた。
  「すまない。……助かったのは君の判断だ」
  「判断は“順”です。――助かったのは、先に礼を言えるあなたの癖です」
  短い応酬。言葉が痛みの輪郭を小さくする。
  その間に、裏庭で気配。大希が衛士と若い書記を連れて戻ってきた。
 「側注、起こした。『榊屋裏木戸、襲撃四名、退散』。――詰所、今夜は巡回を増やす」
  「助かります。入口票を書きます」
  春奈が即座に「持入り/通過/持出し」の三色札を襖脇に並べ、今夜の出入りを一本の道に縫い止めた。
  襲撃の置き土産――紐印の札。咲凪は懐紙を開き、灯の角度を変えて斜浅の傷を読む。
  「封蝋室の“白梅中”と似る。――でも、これは『紐印』。家令の“家印”とも違う」
  「混ぜ物は“印”でもするのか」
  裕斗が眉をしかめ、すぐに「悪い、今は看護が先だ」と口を噤む。
  「看護、最終段。――痛みの尺度、今」
  「五」
  「下がりました。――良い経過。今夜は“動かない”が最善です。……春奈、事後報告の筋を」
  春奈はすでに骨を作っていた。
  〈入口:襲撃四〉〈現象:紙狙い〉〈出口:退散・看護〉。
  「対立の言い分は『自作自演』/『襲撃の実』。――落とし所は『側注と傷の医師見分』」
  明日美が昼に用いた白布の余りで「看護順」を札にし、柱へ貼る。
  〈圧迫・固定・保温/狐火“使用せず”〉
  「掲示は“目線の高さ”。読む人は、痛い人」
  翔が苦笑して、「よく読める」と短く言った。
  ひと息ついたところで、玄関のほうにざわめき。景虎の家令がひとりで立っていた。襟元は乱れず、目だけが硬い。
  「……人は出していない、と言えば、信じるか」
  「信じません」
  咲凪は静かに答え、懐から油屋の写しと封蝋室の印影を並べた。