薄紅の簪は狐将を呼ぶ――千年都で“証拠”と“契約”から始まる和風シンデレラ恋

第16話_競市の朝、榊屋は沈まず
卯の刻前、北市の競市はまだ薄闇の匂いを抱いていた。露に濡れた縄、荷の木箱、布に染みた染料、干し魚の塩気――それらが一斉に息を吸い込んで、やがて吐き出す前の静けさ。榊屋の荷車は三台。先頭は回転の遅い在庫、二台目は代替仕入の選択肢、最後尾は前受金の返戻袋。明日美が逆算表の角を揃え、板札に三行で示す。〈入口:在庫現金化〉〈現象:代替動線〉〈出口:分割返戻〉。
  「まず“遅い品”から切る。――染糸の古番、陶の余白柄、鍔の旧意匠」
  咲凪は簪の歯で紙紐の結び目を一度だけ確かめ、狐火の指輪を袖の内で静めた。
  「売り切らず、切る。半値の札を先に出して、残りは抱かない」
  裕斗が頷き、声を張る。
  「榊屋、今朝は“半値二掛け”。在庫の古番、ここから三尺!」
  彼は勢いで前へ出かけ、咲凪が短く指で“角度”を示す。
  「一歩下がって。――声は斜めに。正面はぶつかる」
  「おう……悪い」
  反省の速さが、列の歯車を軽くする。
  夜明けの太鼓が一つ。堰を切ったように買い手の声が上がり、荷が揺れ、値が跳ね、紙束が動く。榊屋の前では、明日美が“半値二掛け”の範囲を小札で明示し、春奈が対立しそうな声を二行に要約して貼り出した。〈『値崩し』/『回転優先』〉――感情語は削ぎ、骨だけにする。
  「前受金の返戻、入口を開けます」
  咲凪は返戻袋の紐を簪の歯で緩め、木台に白布を敷いて三つの欄を割った。〈受領印〉〈返戻額〉〈次回納期〉。
  「全額は戻しません。“分割”で――今日、半分。残りは来月の朔。理由は『仕入停止の外患』。紙で残します」
  「理由を『内患』にすると、家の顔が沈むからな」
  大希が頷き、弱みを先に出す。
  「おれ、橋は苦手だ。欄干に近づくと膝が笑う。――だから、前に出るのは得意じゃない。けど、“口”は回る。返戻の説明、任せてくれ」
  彼の言葉に、待ち焦がれていた職人たちの表情から角がひとつ抜ける。
  「榊屋さんよ、仕入れ止められてるって噂は本当かい」
  桶屋の親方が腕を組む。
  「“止められている”ではなく“止めに来ている”です。――今朝、その足を紙と順序で鈍らせます」
  咲凪は淡々と返し、返戻額を書きながら、敢えて職人側の負担を書面に残した。〈榊屋負担:印紙・使丁〉。
  「あなた方の“入口”を軽くするために、こちらが重いほうを持つ。――“次回納期”は『混交否定の掲示』を合図に早めます」
  親方の喉が鳴り、印が力強く落ちた。
  ほどなく、競市の端でざわめき。堂上家の紋の袖を揺らし、景虎の家令の手の者が二人、周囲を見回している。
  「“榊屋に売るな”の札を回している」
  後方から大希の囁き。
  「札には“印”がない。――“虚”です」
  春奈が二語で拾う。〈札:無印〉。明日美は掲示板の“取引ルール”から該当条項を抜いた。〈『市場内の通達は市印を要す』〉。
  「行きます」
  咲凪は榊屋の白布を腕に掛けたまま、競市の中央へ歩いた。
  「市印のない札は“掲示”ではありません。“貼るなら、印を先に”。――そして、札を剥がした側にも“入口票”を。持入りか、通過のみか」
  家令の手の者が舌打ちしかけた時、翔が一歩だけ斜めに入り、声を低く落とした。
 「順番。――礼が先。下働き、札板を支えてくれて助かる」
  礼が一言置かれるだけで、板を抱えた若い衆の手が緩む。家令の手の者は札を懐へ戻し、視線だけを残して退いた。
  「在庫の古番、あと二束」
  明日美の声。咲凪は“半値二掛け”の札を一つ外し、代替仕入の台へと歩を移した。
  「次、“欠品の穴”を代替で埋めます。――白藍が欠けた分、浅葱を二割増。陶の余白柄の代わりに、木地の飯椀を組で」
  「木地は“軽い”。運びが楽だ」
  翔が荷を半身で受け、台の高さを指で一分だけ上げた。
  「ここ。腕の角度が楽になる」
  「助かる」
  下働きの声で、台の前にいた客の足が自然に捌ける。
  そのとき、競市の北端で怒声。大手の仲買が値を叩き、周囲の店に“寄せ”を迫っていた。
  「“榊屋の値で合わせろ”。――“沈む”ぞ」
  挑発の言い回し。裕斗の肩が跳ね、前へ出かける。咲凪は彼の袖を指先で止め、短く言う。
  「“入口”から」
  春奈が即座に二行の札を立てる。〈『値合わせ』/『入口票』〉。明日美が“取引条件の紙”を相手の足元に置き、客の目線の高さにもう一枚。
  「“値の寄せ”は“紙の寄せ”から。――“支払条件”“返戻条件”“欠品時の補充順”を合わせてから、値を合わせましょう」
  挑発の色が、一瞬で算段へと移る。仲買は唇を歪めたが、薄く笑い、「紙を持って昼過ぎに来る」と言って足を返した。
  「古番、完売」
  明日美が板札の角を揃える。
  「“現金化”完了。――次、“前受金”の分割返戻。隊列を二本に。返戻列と通常列」
  大希が声を張り上げた。
  「返戻は“白”、通常は“青”。おれ、橋は苦手で列を二本見ると膝が笑う。でも、口は回る。――ゆっくり行こう」
  弱みのユーモアに、列の苛立ちが半歩引く。翔は先頭と最後尾の二カ所で下働きに礼を配り、列の歯車を噛み合わせた。
  返戻台の前で、古手の職人が帽子を脱いだ。
 「半分でも戻るなら、続けてやれる。……ただ、次の仕入れは本当にできるか」
  「できます」
  咲凪は即答し、指で三つの角を叩く。
  「“代替動線”が一本。“掲示”が一本。“香司鑑別”が一本。――紙の骨が三本あれば、金は走る」
  職人は笑い、「骨は折れにくい」と印を落とした。
  日が昇るにつれ、榊屋の前には“待ち”が減り、代わりに「次の手順」を聞く声が増えた。
  「榊屋、灯心はまだか」
  「昼に“灯心屋”へ寄ります。――『榊屋は沈まず』の札を二枚、掲げます」
  明日美が木札に太字で書き、春奈が下に細く添える。〈根拠:在庫現金化/代替動線/返戻実施〉。
  そこへ、景虎の家令が距離を取ったまま立ち止まり、榊屋の札を横目で見た。