薄紅の簪は狐将を呼ぶ――千年都で“証拠”と“契約”から始まる和風シンデレラ恋

第15話_山裾の聞き取り、雨後の焚火
山裾への道は、霞京の喧騒が背後で薄くなるほどに、土の匂いが濃くなっていく。早朝の露は草の先で丸く、谷風は白梅の名残をほんのわずか運んで、すぐに油の乾いた香へ変わった。目的地は、山の肩に寄りかかるように建つ油屋――谷口油問屋。封蝋室で嗅ぎ当てた“混ぜ物”の油筋、その源を確かめるためだ。
  明日美は道程表を掌で折り、要点を三つに落とす。
  「入口――帳面の“誰が・いつ・いくら”。現象――油の銘柄と量、封蝋用の混和可否。出口――写しの受領と持ち帰り経路。……橋は一本、避け道がある」
  「橋、苦手」
  大希は先に笑って弱みを置き、野道の分かれで「下道」を指さした。
  「高い欄干は膝が笑う。だから、俺は少し遠回りする。けど、口は回る」
  弱みの先出しは、同行者の足幅まで自然にそろえる。咲凪は頷き、簪の歯で地図の角を軽く押さえ、狐火の指輪を袖の内で静めた。
  油屋の軒は低く、屋根板は油で黒光りしていた。戸口に吊るされた木札〈胡麻・荏・封蝋調合〉の三行が、朝日で鈍く照る。店内には大桶が二つ、斗と枡、竹の漏斗。奥の座敷に、帳場と火消し壺。
  「御免」
  翔が最初に礼を置き、下働きへ「桶の並べ方が美しい」と一言。空気が少しやわらぐ。店主は眉を上げ、年季の入った手拭で手を拭きながら現れた。
  「谷口でございます。……お役所の方かい、それとも商いか」
  「“記録の照会”です」
  咲凪が淡々と頭を下げ、明日美が持参した「照会票」の角をぴたりと揃えて差し出す。〈封蝋用油・近日の出荷・銘柄/量/宛名〉。朱の小印は公事所併押。
  「公の順で来ました。帳面の“端”で構いません。写しは手間賃を」
  店主はひとつ鼻を鳴らし、帳棚から巻子を抜いた。油の薄い膜を指が掬い、頁がめくれる。
  「封蝋用の注文は珍しいもんじゃない。御所筋へは“白蝋馴し”、寺社には“灯明ののび”。――いつ分だい」
  「三日前から昨日まで」
  春奈が静かに付け足す。
  「意見は要約して持ち帰ります。貴店の言い分も“二行”で残します」
  店主は目を細め、巻子の端を指で叩いた。
  「二行で足りるかね」
  「足りなければ、戻ってきます。――“入口”へ」
  そのとき、店の脇戸に影が差した。山駕籠の担ぎ手、そして小袖に堂上家の紋を染めた小者が一人。目だけが走る。
  「おい、親方。いつもの“胡麻白”を二合。……急ぎだ」
  声に油の匂いは混じらない。店主は視線を動かし、咲凪へ短く目配せした。
  「先客の順です」
  「急ぎだと言ってるだろう」
  小者が一歩前へ出かけ、翔が手のひらを軽く上げた。
  「順番。――礼が先」
  視線は柔らかく、退路を塞がない角度。小者の足が半歩だけ止まる。店主がその間に“胡麻白”を斗で汲み、銅貨の勘定を済ませた。
  「お待たせしました。――帳面、ここから三日分」
  店主が巻子を開き、朱の欄点を滑らせる。
  〈未刻:封蝋室 白蝋馴し 小壺四 蔵出〉
  〈申の終い:堂上家家令 調合油 小壺一〉
  〈子の初め:御所灯明所 灯油 中壺二〉
  「“堂上家家令”という記載、こちらの書き手は?」
  咲凪の問いに、店主は肩を竦めた。
  「“誰に売った”は、受け取りの男の名で書く決まりさ。印の箱は持ってこないからね。……ただ」
  店主は指の腹で墨の濃淡を撫でた。
  「この一行だけ、墨が新しい。――追記だ」
  春奈が二語で拾う。〈家令:追記〉。明日美は巻子の“料紙”の重なりを指で測る。
  「この頁、下貼りあり。――“剥がして貼り直し”の癖」
  「剥がしたのは?」
  「申の暮れ」
  店主の声は低い。
  「昨日、古参の小僧が“棚板の釘、誰か打ち直しました?”って。……“殿上の風”が変わると、山裾も揺れるのさ」
  「写しを願えますか」
  咲凪が問う前に、大希が一歩出て、掌を見せた。
  「おれ、吃る。初めての人の前だと、舌が絡む。……それでも、まっすぐ聞きたい。帳面を写す手を、借りられますか」
  店主の口元がわずかに緩む。
  「正直は、油よりのびがいい。――いいとも。写し賃は“胡麻白”半壺でどうだ」
  「前受けで」
  明日美が小袋を置く。条件は双方に軽い。
  写しの間、雨脚が音を連れてやってきた。山の肩で生まれた雨は、屋根板を素早く叩き、店先の土を飴に変える。小者は雨を嫌って裾を上げ、駕籠を急かすように去った。
  「渡りは増水します」
  春奈が要約紙の隅に〈渡り:危険〉と書く。
  「橋は……」
  大希が自分から笑い、肩をすくめる。
 「避け道で下る。俺の足にも優しい」
  写しが終わる頃、雨は小止みになった。店主は板戸を半分開け、軒先の樋から落ちる水を桶に受けた。
  「裏手に薪がある。濡れてるが、火があれば温い茶くらいは出せる」
  「火なら」
  翔が袖の内で狐火を呼び、誰にも見せびらかさぬ角度で、濡れた薪の芯にだけ温みを移した。炎は大きくせず、白い蒸気を立ててから、やや遅れて赤を見せる。
  「助かる」
  店主が言い、咲凪は簪の歯で包みの結び目を一度だけ緩め、写しを乾かす位置を整えた。ほどけやすく、落ちない結び。
  焚火の縁、湯が沸く。茶の香が雨上がりの土と混ざり、静かな輪を作る。
  「“堂上家家令”の一行、追記と下貼り。――この二つが揃えば、『後から筋を作った』証になります」
  咲凪の言葉に、店主が頷く。
  「紙は嘘を憎む。……けど、紙は人を責めない。数字だけが残る」
  「だから、紙で守ります」
  咲凪は淡く返し、写しの角を揃えた。
  そのとき、店の表で駕籠の軋む音。先ほどの小者とは別の男が、簑を脱ぎ捨てる勢いで踏み込んできた。肩に薄く刻まれた剣稽古の癖、眼が細い。
  「油、追加。……記録は要らぬ」
  「“要らぬ”は、うちでは通らない」
  店主の声が太くなる。だが男は懐から銀子をちらつかせ、樽の蓋に手をかけた。
  「やめておけ」
  翔が焚火から立ち上がり、男と樽の間に半身で入る。