第14話_封蝋室の落款
御前香合わせの掲示が出たその夜、御所の封蝋室は、蝋と紙の温い匂いで満ちていた。湿りを帯びた土壁、棚に並ぶ落款印の箱、朱の粉、油の小壺。明日美は事前に組んだ「検分手順」の板札を抱え、入口の柱に一枚ずつ掛けていく。〈一:携行物の預け・記録〉〈二:現況撮り写し〉〈三:印影照合(欠け位置・圧)〉〈四:夜間記帳の側注確認〉〈五:封・油・朱の温度〉。順路は一本の白布で床に示し、折返し点は紅の小札で目印。
  「入口票、二。――“検分参加者名簿”と“持入り一覧”。併押は公事所印」
  明日美が指で欄を示し、衛士に朱の箱を渡す。春奈は参加者の言い分を「反論の骨」だけに削ぎ、板卓の端に貼り出した。〈桂江派:風・袖・場の整え〉〈榊屋:順序・層逆・帳外〉――賛否の声は紙の外へ追いやられる。
  咲凪は簪の歯で白布の角を軽く押さえ、狐火の指輪を袖の内で静めた。
  「費用対効果、安全、倫理――順序、よし」
  彼女が小さく呟くと、封蝋室の扉が開き、景虎の家令が現れた。顔に疲れの影、目だけが固い。
  「……案内しよう」
  「感謝します」
  翔が一歩進んで軽く頭を下げ、先に入室して棚の角を目で追う。上から四段目、南端の箱の蓋がわずかに新しい。木目の光が違う。
  「まず“現況の写し”」
  明日美が筆録係を指名し、棚の並びと印箱の配置を方眼の紙に落とす。箱の側面に刻まれた番号、蓋の開閉痕、朱の粉の減り。春奈が二語で索引を付す。〈朱減〉〈蓋新〉〈粉散〉。
  衛士詰所から若い書記が入ってきて、夜間記帳の帳面を胸に抱える。大希が小走りで迎え、最初に自分の弱みを置いた。
  「おれ、橋は苦手で……高い棚は手が震える。だから、一緒に確認してもらえますか」
  緊張がほどけ、若い書記が肩を落として笑う。
  「いいとも。――昨夜の“子の二つ”、ここに一行追加がある。“封蝋室前、家令様往来”」
  「側注、受領」
  春奈が即座に二語で貼り付ける。〈子二:往来〉。
  「印影を取ります」
  咲凪は柔らかい和紙を一枚取り、朱を極薄に含ませた捺し布を用意した。落款印は三つ。“白梅大”“白梅中”“白梅小”。それぞれの縁、南東に微かな欠け――だが、欠けは同じではない。
  「“白梅中”の欠けは、斜めに浅い。……“白梅小”は点の欠け。『補修』の癖が違います」
  咲凪は三つの印影を横一列に捺し、角を揃えた紙の右上に小さく印を入れる。〈欠:斜浅/点欠/無〉。
  「供述を」
  翔が家令に視線で促す。家令は喉仏を上下させ、目を伏せた。
  「“白梅中”を、昨夜……補修した。欠けが目立つと見たから」
  「補修の素材は」
  「蝋に朱を混ぜ、縁をなでた」
  「温度は」
  「……急いでいた。高くしすぎたかもしれぬ」
  明日美が板札の「五:温度」の欄に〈高〉と朱で丸を打ち、香司から借り受けた温度札を蝋壺の側に差す。蝋はまだ室温より温い。
  「“温い補修”は、封の“層”を崩します。――上に油、下に朱」
  咲凪は封の縁を薄く湿らせた懐紙で撫で、指先で“鈍い”手触りを確かめる。
 「“鈍い面”は、急ぎの混ぜ。……封の上で、油が先になりました」
  そのとき、部屋の隅で裕斗が何かに足を引っかけ、木箱がコトンと鳴った。
  「悪い!」
  彼は即座に箱を支え、蓋の位置を元の角に戻す。
  「“戻し方”は?」
  咲凪が問うと、彼は正直に答える。
  「角を――印の刻みが手前にくるように」
  「それが“正しい戻し”。……次からは先に聞いて」
  「わかった。次は先に聞く」
  失敗の受け皿が生まれ、場が荒れずに済む。翔は下働きに「助かる」を置き、倒れかけた木箱の並びをそっと整え直した。
  「次、“落款の微欠け”の照合」
  咲凪は三つの印影の“南東”だけを切り取り、薄紙の窓を作る。窓越しに、先日公事所に提出した“返答書封”の封蝋の写しを重ねる。
  「ここ。――『斜浅』の癖。白梅中」
  春奈が二語を記す。〈封=中〉。明日美は「返答書」の控えから封の写真図を取り出し、角を揃えて横付けにする。
  「“返答書の封”に使われたのは、昨夜補修された“白梅中”。……補修後の“朝の朱”が薄く、その上から“昼の朱”が重ねられている」
  「二層」
  香司の補助役が短く言い、朱の濃淡を指で示す。
  「二層は“急ぎ”のふるまい。――順序の破れだ」
  翔が言葉を足し、家令は目を瞑った。
  「急がされた。……『殿上の風が変わる前に』と」
  「“殿上の風”は、女官長殿の言葉ね」
  春奈が誰に言うでもなく記す。〈指示語=殿上の風〉。桂江の姿はここにはないが、扇の乾いた音が耳の奥に蘇る。
  大希がそっと咲凪に近寄り、低い声で囁く。
  「詰所の古参に話を聞けた。……おれ、吃るのが恥ずかしいから先に言ったら、茶を出してくれた。“白梅中”の箱、蓋の蝶番が昨日の申の刻に一度外れたって」
  「蝶番?」
  「はい。釘が新しい」
  明日美が箱の側面を指で叩き、音の違いを記す。〈蝶:申〉〈釘新〉。
  「“蓋新・釘新・温い蝋・二層の朱”」
  咲凪は要点を並べ、角を揃えて紙にまとめる。
  「入口――申の刻、蓋の外れ。折返――子の二つ、家令往来。出口――酉の後、補修印。……一本」
  そこへ、封蝋室の奥から年配の用度係が現れた。腰は曲がっているが、目がよく通る。
 「昔からの印は“重ねない”のが習いだ。重ねると、印の顔が濁る」
  用度係が呟き、壁の古い札を一枚外す。〈印、重ねるべからず〉。
  「この札、昨日の夕、裏向きにされてた。誰かが“隠した”のさ」
  春奈が二語で貼る。〈習:重ね禁〉〈札裏〉。
  「――では、外形は揃った。あとは“圧”」
  咲凪は“返答書封”の封蝋写しに指先を当て、筆圧のように押しの強弱を読む。
  「“圧”が浅い。……急いで手に力が入っていない。『学び始めた手』の圧」
  香合わせで掴んだ語を、別の現場にも転用する。翔がそれを受ける形で頷く。
  「圧と順をつなげる。