第13話_御前香合わせ、香の筋は嘘をつかない
三日が過ぎ、御所の香座敷は朝の光を薄く濾していた。畳は新しく、床の間には白梅の枝が一枝。香道司の手で用意された香炉と銀葉、細やかな箸、灰押え。袖に匂いが移らぬよう、見聞の者には薄羽織が配られている。咲凪は白布で包んだ包みを抱え、定められた席に座した。狐火の指輪は袖の内、簪の歯は一度だけ結び目を確かめて沈黙した。
「本日の御前“香合わせ”。――証香は三つ」
香道司の声は静かで、灰の面と同じ平らさだった。
「一、白檀“初花”。二、沈香“羅国”。三、白梅の練香“雪の端”。これらを基準に、先日の“逆層”の筋と照らし合わせる」
女官長・桂江は扇を伏せ、微笑の輪郭だけで横座に控える。景虎は向かいの列に端然と座し、目だけが固い。春奈は要約用の紙を膝に、明日美は提出順の札を袖に忍ばせ、裕斗は畳の縁を踏まぬよう、己の足もとへ視線を落とす。翔は列の最後尾、下働きに小さな「助かる」を置きながら、場の噴き上がりを先に撫でる役に回っている。
香道司が銀葉を温め、最初の香を焚く。薄い香雲が、湯気にも似た輪郭で広がった。白檀“初花”――乾いて甘い、しかし芯がほぐれすぎない一番香。
「“層”を覚えてください。上が軽く、下が強い。――これは自然の層です」
司が言葉を置くたび、灰面の息が小さく動く。二番は沈香“羅国”。潮のような渋みの下に、樹脂の鋭さが沈む。三番は練香“雪の端”。白梅の名を持ちながら、油の丸みが輪郭を和らげる。
「では“証香”。女官長殿よりお納めの封」
香道司が受け盤から小袋を取り、箸で香を一つまみ。灰の面に置いて温め、座の空気がわずかに変わる。香が立つ。――だが、立ち上がりの“角”が柔らかすぎる。上に油の膜が薄く載り、白檀の軽さが出遅れる。
咲凪は息を一定に保ち、膝の上の包みから懐紙を一枚抜く。先日の香痕写し。その隣に、白檀仮面の内側から採った“匂いの筋”の紙片。
「香司殿。――基準の白檀“初花”に対し、こちらの証香は“上澄み”が遅れております。練香“雪の端”の油が、ごく薄く先に載る筋です。層が逆」
桂江の睫がわずかに上下した。
「練香は“良き匂い”を添えるために用いることもあるわ」
「添えるのが“先”なら、白檀は“後”に出ます。自然の層は逆を嫌います」
香道司は頷き、二度目の証香を温める。今度は立ち上がりが鋭すぎた。沈香の渋みが先に突き、白檀が下で遅れる。
「“羅国”が先。――これも逆」
司のつぶやきは灰押えの先端ほどの細さで、しかし場に落ちた。
「三つ目」
香司が袋から最後の一摘みを取り、灰の面へ。立ち上がりは白梅の練香に似て柔らかいが、底にわずかに蝋のような重さがある。
「封蝋油」
咲凪は低く言い、包みから薄布の切れ端を出した。封蝋室から得たもの。布に移る油筋は細く、白檀の香が浅く乗っている。
「これが混じると、練香の“丸さ”が不自然に伸びます」
「――余計な口を挟むな」
裕斗が思わず声を荒げ、座が一度、波打った。景虎の供が反応し、膝が鳴る。
「順番」
翔が短く告げ、灰押えが倒れぬよう指先ひとつで盤の端を支える。
「裕斗」
咲凪が名前を呼ぶと、彼は即座に頭を下げた。
「悪い。……俺が荒立てた。続けてくれ」
反省の速さが、場の力を下げた。香の輪郭が崩れずに残る。
香司は三つの証香の“筋”を短く記録し、基準の三香との組合せ表に印を打つ。
「結論を急がず“再鑑”に」
春奈がすかさず二行に削いだ要約を差し出す。
〈基準:初花/羅国/雪の端〉
〈証香:①上に練油 ②羅国先行 ③封蝋油の丸〉
「両派の言い分も要約します。――〈桂江派〉『場を整えるため香を“添えた”』、〈榊屋〉『“添え”が“先”となり層が逆転』。落とし所は『再鑑定・混入の量を特定』」
香司が「同意」と短く言い、混入量を推定する段に移る。灰の面を整え、温度を僅かに上げ、白檀の微細な立ち上がりを測る。咲凪は紙上で針のような字を刻む。〈立上り遅延:二呼吸〉〈渋み先:半呼吸〉。
「二呼吸“先”に練油が載ると、白檀は“後”になります」
「半呼吸“先”の渋みは、羅国の“取り合わせ”ではなく、混入の“順序ミス”によるもの」
香司の声が重なり、表に印が付き、筋が線となる。
「では――この“証香”を納めた封の扱いを」
明日美が袖から上申の控えを出し、提出順を示す。
「入口:証香封/現象:層逆転/出口:封蝋室記録照合。……同じ“欠け”があります」
欠け。南東。咲凪は包みの別の懐紙を開き、白梅苑で読んだ封の“朝の朱”と“夕の朱”の違いを並べた。
「朝の朱は薄く、夕の朱は濃い。――今日の封は“朝の朱”。補修の上から更に“薄い”を重ねた癖」
桂江は扇を半ばだけ上げ、笑いを見せずに微笑む。
「香は流れる。封も人の手を渡る。――跡は増えるものだわ」
「増える跡は、“順序”で束ねられます」
咲凪は香痕写し・布の油筋・封蝋の欠けを一枚の板図に並べ、角をぴたりと揃える。簪の歯が小さく鳴り、狐火の指輪が衣の下で短く温む。
「入口――封蝋室の在庫減。折返――回廊の逆層。出口――証香の混入。……一本です」
座の端で、景虎の家令が静かに手をついた。
「供述を――軽減嘆願の上で」
翔が目で合図し、評定の形式に依らぬ“御前”の場でも、暴発させずに通路を作る。
「封蝋室で“練油”を白檀に“馴染ませる”よう命じられ……順を誤った。羅国を先に温め、練油を上へ。――そのまま証香に混ぜた」
香司が眉をわずかに下げ、印を打つ。
「混入、認定」
「ここで“香合わせ”の礼を」
香司が灰の面を整え、基準の白檀を焚く。座の緊張が一段ほどけ、香の筋が正しく立ち上がる。“上が軽く、下が強い”。自然の層に戻る。
「――香は嘘をつかない」
咲凪は小さく呟き、懐の白檀仮面の匂い筋を撫でた。あの夜、面の内側で覚えた“立ち上がりの角”。
三日が過ぎ、御所の香座敷は朝の光を薄く濾していた。畳は新しく、床の間には白梅の枝が一枝。香道司の手で用意された香炉と銀葉、細やかな箸、灰押え。袖に匂いが移らぬよう、見聞の者には薄羽織が配られている。咲凪は白布で包んだ包みを抱え、定められた席に座した。狐火の指輪は袖の内、簪の歯は一度だけ結び目を確かめて沈黙した。
「本日の御前“香合わせ”。――証香は三つ」
香道司の声は静かで、灰の面と同じ平らさだった。
「一、白檀“初花”。二、沈香“羅国”。三、白梅の練香“雪の端”。これらを基準に、先日の“逆層”の筋と照らし合わせる」
女官長・桂江は扇を伏せ、微笑の輪郭だけで横座に控える。景虎は向かいの列に端然と座し、目だけが固い。春奈は要約用の紙を膝に、明日美は提出順の札を袖に忍ばせ、裕斗は畳の縁を踏まぬよう、己の足もとへ視線を落とす。翔は列の最後尾、下働きに小さな「助かる」を置きながら、場の噴き上がりを先に撫でる役に回っている。
香道司が銀葉を温め、最初の香を焚く。薄い香雲が、湯気にも似た輪郭で広がった。白檀“初花”――乾いて甘い、しかし芯がほぐれすぎない一番香。
「“層”を覚えてください。上が軽く、下が強い。――これは自然の層です」
司が言葉を置くたび、灰面の息が小さく動く。二番は沈香“羅国”。潮のような渋みの下に、樹脂の鋭さが沈む。三番は練香“雪の端”。白梅の名を持ちながら、油の丸みが輪郭を和らげる。
「では“証香”。女官長殿よりお納めの封」
香道司が受け盤から小袋を取り、箸で香を一つまみ。灰の面に置いて温め、座の空気がわずかに変わる。香が立つ。――だが、立ち上がりの“角”が柔らかすぎる。上に油の膜が薄く載り、白檀の軽さが出遅れる。
咲凪は息を一定に保ち、膝の上の包みから懐紙を一枚抜く。先日の香痕写し。その隣に、白檀仮面の内側から採った“匂いの筋”の紙片。
「香司殿。――基準の白檀“初花”に対し、こちらの証香は“上澄み”が遅れております。練香“雪の端”の油が、ごく薄く先に載る筋です。層が逆」
桂江の睫がわずかに上下した。
「練香は“良き匂い”を添えるために用いることもあるわ」
「添えるのが“先”なら、白檀は“後”に出ます。自然の層は逆を嫌います」
香道司は頷き、二度目の証香を温める。今度は立ち上がりが鋭すぎた。沈香の渋みが先に突き、白檀が下で遅れる。
「“羅国”が先。――これも逆」
司のつぶやきは灰押えの先端ほどの細さで、しかし場に落ちた。
「三つ目」
香司が袋から最後の一摘みを取り、灰の面へ。立ち上がりは白梅の練香に似て柔らかいが、底にわずかに蝋のような重さがある。
「封蝋油」
咲凪は低く言い、包みから薄布の切れ端を出した。封蝋室から得たもの。布に移る油筋は細く、白檀の香が浅く乗っている。
「これが混じると、練香の“丸さ”が不自然に伸びます」
「――余計な口を挟むな」
裕斗が思わず声を荒げ、座が一度、波打った。景虎の供が反応し、膝が鳴る。
「順番」
翔が短く告げ、灰押えが倒れぬよう指先ひとつで盤の端を支える。
「裕斗」
咲凪が名前を呼ぶと、彼は即座に頭を下げた。
「悪い。……俺が荒立てた。続けてくれ」
反省の速さが、場の力を下げた。香の輪郭が崩れずに残る。
香司は三つの証香の“筋”を短く記録し、基準の三香との組合せ表に印を打つ。
「結論を急がず“再鑑”に」
春奈がすかさず二行に削いだ要約を差し出す。
〈基準:初花/羅国/雪の端〉
〈証香:①上に練油 ②羅国先行 ③封蝋油の丸〉
「両派の言い分も要約します。――〈桂江派〉『場を整えるため香を“添えた”』、〈榊屋〉『“添え”が“先”となり層が逆転』。落とし所は『再鑑定・混入の量を特定』」
香司が「同意」と短く言い、混入量を推定する段に移る。灰の面を整え、温度を僅かに上げ、白檀の微細な立ち上がりを測る。咲凪は紙上で針のような字を刻む。〈立上り遅延:二呼吸〉〈渋み先:半呼吸〉。
「二呼吸“先”に練油が載ると、白檀は“後”になります」
「半呼吸“先”の渋みは、羅国の“取り合わせ”ではなく、混入の“順序ミス”によるもの」
香司の声が重なり、表に印が付き、筋が線となる。
「では――この“証香”を納めた封の扱いを」
明日美が袖から上申の控えを出し、提出順を示す。
「入口:証香封/現象:層逆転/出口:封蝋室記録照合。……同じ“欠け”があります」
欠け。南東。咲凪は包みの別の懐紙を開き、白梅苑で読んだ封の“朝の朱”と“夕の朱”の違いを並べた。
「朝の朱は薄く、夕の朱は濃い。――今日の封は“朝の朱”。補修の上から更に“薄い”を重ねた癖」
桂江は扇を半ばだけ上げ、笑いを見せずに微笑む。
「香は流れる。封も人の手を渡る。――跡は増えるものだわ」
「増える跡は、“順序”で束ねられます」
咲凪は香痕写し・布の油筋・封蝋の欠けを一枚の板図に並べ、角をぴたりと揃える。簪の歯が小さく鳴り、狐火の指輪が衣の下で短く温む。
「入口――封蝋室の在庫減。折返――回廊の逆層。出口――証香の混入。……一本です」
座の端で、景虎の家令が静かに手をついた。
「供述を――軽減嘆願の上で」
翔が目で合図し、評定の形式に依らぬ“御前”の場でも、暴発させずに通路を作る。
「封蝋室で“練油”を白檀に“馴染ませる”よう命じられ……順を誤った。羅国を先に温め、練油を上へ。――そのまま証香に混ぜた」
香司が眉をわずかに下げ、印を打つ。
「混入、認定」
「ここで“香合わせ”の礼を」
香司が灰の面を整え、基準の白檀を焚く。座の緊張が一段ほどけ、香の筋が正しく立ち上がる。“上が軽く、下が強い”。自然の層に戻る。
「――香は嘘をつかない」
咲凪は小さく呟き、懐の白檀仮面の匂い筋を撫でた。あの夜、面の内側で覚えた“立ち上がりの角”。



