第12話_白梅苑の返答
白梅苑は、夏の朝でもどこか冬の匂いがした。白く乾いた香りが、石灯籠の影の濃淡に沿って細く漂う。公事所での掲示から三日目、堂上家側の「公開返答」は、御所の白梅の下で行うと通達された。縁を結ぶか、断つか――紙の上の三つの問いへ、Yes/No で答える場だ。
  明日美は夜明け前に庭の動線を下見し、低い卓と立て札を白布で一本に結んだ。〈入口:申入れ書〉〈提示:時系列表〉〈回答:Yes/No〉。春奈は対立する言い分を二行に削って見出しにする。〈“体面の挨拶”/“審査の口添え”〉〈“偶然の逆層”/“意図の逆層”〉。咲凪は簪の歯で白布の角を一度だけ締め、狐火の指輪を袖の内に収めた。
  やがて、白檀の芯を含む香が風に乗って現れる。景虎が供回りを従え、白梅の樹の前まで歩み出た。袍の光沢は冷えた水面のようで、目だけが張り詰めている。
  「榊屋・咲凪――堂上家・景虎、再縁談の申入れに対し、公開の返答を求む」
  書記が声を張り、木札が一枚、入口の卓に伏せられた。
  咲凪は一礼し、白布の二の札へ紙束を滑らせる。
  「入口に、順序を置きます。――御家の“口添え”の記録、封蝋室の“補修印”、そして香司鑑別の“逆層”。これらを一本の道に」
  明日美が板図を広げ、未刻から酉に至る矢印を一本描く。〈未刻:在庫減〉〈申の終い:補充〉〈子の初め:逆層〉〈酉:面改め〉。春奈は余白に小さく〈側注一致〉と添えた。
  「では、第一問」
  咲凪は紙の端を指で押さえ、その声音だけを少しだけ硬くする。
  「――『御家は、商いの審査順を“口添え”で動かしませんか?』Yes/Noで」
  静寂が白梅の葉の裏に集まり、細い日差しが紙の角を二度ほど撫でた。景虎は顎をわずかに反らし、言葉を探す仕草を見せる。
  「体面のための挨拶は……ある」
  「Yes/Noで」
  「……No だ。『動かすため』の口添えはしない」
  春奈が“Q1:No(動かさぬ)”と書き、矢印の隣に〈側注:口添え記載〉と括弧を置く。
  「第二問」
  咲凪は包みを一つ開き、懐紙の上に移した薄い筋を示す。
  「――『“香の層の逆転”は偶然の風によるものですか?』Yes/Noで」
  景虎は視線を香司へ投げ、香司は首を横に振った。
  「風では起きぬ。混ぜた手がある」
  「御家の答えを」
  「……No だ」
  春奈の筆が“Q2:No(偶然でない)”と走る。明日美が図の「逆層」の欄に朱の小丸を重ね、二度と“偶然”という逃げ道に戻れないように留める。
  白布の端で袖がかすかに鳴った。裕斗が半歩、前へ出て景虎の供回りを睨んだのだ。供のひとりが胸を反らす。
  「無礼者――」
  その腕を、翔が横から軽く押さえた。
  「順番だ。――礼が先」
  短い言葉。下働きに向けた「助かる」を一言添えると、場の熱が少しだけ下がる。裕斗は自分の足を見て息を吐き、「悪い」と頭を下げた。強さより、反省の速さが場を守る。
  「第三問」
  咲凪は景虎に正対し、紙を一枚だけ前へ押し出した。そこには、白布の上で最も短い文が置かれている。
  「――『あなたは、今後“私の足”を止めませんか?』Yes/Noで」
  周囲が揺れる。御所の庭で、個への問いがこうして置かれることは少ない。景虎の目が微かに細くなり、白梅の影が彼の頬に二つ重なる。
  「……“足”とは」
  「家の再建に必要な、私の決定と行動です。――商いの契約、書類の提出、会合での議論。たとえあなたが私の夫であっても、止めないと誓えますか」
  紙は静かに、しかし逃げ道を残さない角度で置かれている。春奈が余白に〈自由意思の担保〉と小さく注を入れた。
  景虎は口を開き、閉じ、扇も持たぬ手を袍の裾へ落とした。沈黙が一拍、二拍――そのとき、白梅の幹を渡る風が一枚の葉を落とし、紙の上に短い影を落とした。
  「……今は、答えを持たぬ」
  「では、“紙で”。――期限は本日の日没まで。Yes/No のみ」
  咲凪は軽く一礼し、答えを書き込む欄に朱の小丸を二つ置く。戻る矢印は描かない。
  「ここからは、御家側の“補足”を春奈が一度に要約します」
  春奈が進み、双方の言い分を息の乱れも見せずに二行へ畳む。
  「〈堂上家〉体面保持のための“挨拶”であり、審査順を『動かすため』の意図はない。〈榊屋〉側注に“口添え”の文言があり、結果として審査順が変動。――“意図より結果”」
  評定役の代わりに香司が頷き、見聞人たちのざわめきが細くほどける。
  「では、最後に“現場の順序”だけを置きます」
  明日美が板図の下辺へ三つの札を差し込んだ。
  〈入口:書記局〉〈現象:回廊逆層〉〈出口:公事所掲示〉。
  「足は、ここからここへ。――同じ道で戻しません」
  視線が咲凪の指先へ集まる。咲凪は簪の歯で白布の角を跳ね、紙束をわずかにずらした。解けやすく、しかし落ちない結び。
  「以上が、榊屋の『返答の形』です」
  静かな締めくくり。見聞の列の後方で、桂江が扇を半ばまで上げた。
  「香は、学び始めた手に“間違い”を教える。――けれど、学び終えた手には跡を残さない」
  「跡は“紙”に移ります」
  咲凪は懐から反転写文の控えを示し、筆圧の深い箇所に朱の点を置いた。
  「学び始めた手の“圧”は、消えません」
  桂江の睫がわずかに下がり、扇の骨が乾いて鳴った。
  そのとき、白梅の下で小さなざわめき。景虎の袖口から、昨夜のそれより濃い白檀がふっと立つ。封蝋油の鋭い光が、その底でひと刹那だけきらりと走った。
  「袖の“香”が強いです」
  咲凪は誰に向けるでもなく、静かに言う。景虎は袖を握り、目を伏せた。
  「回答は、日没までに」
  咲凪は白布の上の紙束をまとめ、角をぴたりと揃えた。狐火の指輪が衣の下で温み、簪が髪の根で微かに鳴る。翔が一歩、横に並び、下働きへ「助かる」をひと言置く。場の呼吸が整い、白梅の影はゆっくりと長くなった。
  ――午の終いまで、あと二刻。