第11話_薄香の噂を縫い止める
評定の掲示が出た翌朝、霞京の北市は、いつもより早く舌を動かしていた。瓦版の見出しが朱で踊り、露店の暖簾に白梅の図が揺れる。――「榊屋の娘は“不浄の巫”、香を逆に操る」「狐の守りを引き寄せる“縁結びの術”は禍津」……紙の角に薄く香が移り、白檀の筋の下に、鼻に刺さる軽い油の匂いが潜む。
「薄香の“流れ”、二筋ですね」
咲凪は露店の前で立ち止まり、懐紙を薄く湿らせて見出しの端をそっと撫でた。指先に移る筋は浅い白檀と、紙を滑らせるための油の点。
「“匂いで読む瓦版”は新しい手だ。出所は御所側の机だろう」
翔が低く言い、行き交う荷車の軌を一歩だけずらしてやる。「助かる」の一言で、車方の顔が緩み、通りの流れがほどけた。
「情報の“入口”は三つに見えます」
明日美が逆算表を開き、人流を矢印で描いた。
「一、北市の瓦版屋二軒。二、御所門前の口伝。三、茶店の壁張り。――貼り出し順と掲示期間をこちらで組み替えれば、“同じ情報”へ誘導できます」
「私は“要約”で刈り込む」
春奈が袖を整え、黒墨の小箱を掌で温める。
「賛否を一度混ぜてから、意見の骨を二行に分ける。『榊屋は禍津』『榊屋は手順』――“感情語”は落とします」
そこへ、大希が小走りで合流した。
「裏通りの瓦版屋に入れた。……おれ、橋は苦手だけど、“吃る”のを先に言ったら、向こうが席を出してくれた。初刷りの煤写し、もらった」
薄紙には、版木の端に写った小さな“側注”がのこっている。〈初出:書記局書記・未刻〉。
「入口、確定」
咲凪は頷き、懐から細紐を出して紙束の角を束ねた。結びは舟、ほどけばすぐに順序を入れ替えられる。
「手際は三段です」
明日美が指を三本立てた。
「一、“掲示の入口”をこちらで用意。――『公事所掲示・処分要旨』『香司鑑別の要点』『榊屋の商い条項』の三枚を、北市と御所門前の“目線の高さ”に同時貼り。
二、“同一情報への誘導”。人の流れを咲凪さんの“縁結び結線”で半日だけ設計――細い紐を暖簾の影に渡し、自然に足が止まる“角”を作る。
三、“薄香の縫い止め”。春奈さんの要約を瓦版屋に渡し、同じ文言で“再刷り”を取る。言葉の入口を一本化」
「私は衛士詰所へ“側注”を正式に転記してもらってくる。……その前に、耳の硬い相手には“弱み”を先に出しておく」
大希は笑い、路地の先を指した。
作業は朝餉の刻を跨いで始まった。
まず、御所門前。人波が膨らむ“肩”に、明日美が白木の札を打つ。〈処分要旨/香司鑑別要点/混交の否定〉。貼り高さは、子どもの目でも届く位置だ。
「文字は大きく、行は短く」
春奈が黒墨で骨だけを書く。
〈桂江:職務差止/家令:減俸謹慎/綾女:権限一部停止〉
〈逆層=“風では起きない”香司証言〉
〈婚姻と商い、混交せず(覚書)〉
飾りの言葉を斬り捨てた紙は、冷たいが、読みやすい。人の目が二度、三度と戻る。
次に、北市の大通り。咲凪は暖簾の影に細紐を渡し、結線の要所に小さな布片を留めた。
「ここで半歩“屈ませる”。――足は自然に“掲示の前”で止まります」
縁結び結線は術というより設計だ。人の視線と歩みを、結びの角度で静かに導く。紐を見抜いた者がいても、触れればするりと解ける逃げ道を残す。
「術か?」と囁いた魚売りに、翔が笑って「設計だ」と返し、桶を半ば運ぶのを手伝った。
「助かる」
礼のひとことが足を軽くし、路地の呼吸が整う。
瓦版屋の店先には、景虎の名をからめた扇情見出しが並んでいた。
「“堂上家若君に狐の嫁”。――強い見出しだ」
店主が舌を鳴らす。
「売れるのはこっちだよ、お嬢さん」
「“売れる”と“残る”は別です。――“残る”ほうを一枚、増やしませんか」
咲凪は懐から“要点だけの版下”を差し出した。
〈処分/逆層/混交否定〉の三段見出しに、各十字の説明。
「版木はあなたの。文句もあなたの。――ただ、骨は“この三つ”に」
店主は顎をさすり、明日美が納期と掲示期間を書き付ける。
「初刷り二束、昼まで。掲示は三日。……代金は“先払い半分、残りは夕刻の売れ行きで”」
明日美の条件は、店の懐にも優しい。店主はにやりと笑い、彫り刀を取った。
春奈はその間、別の瓦版屋に入り、噂の賛否を四行に要約して渡す。
「『榊屋は禍津』――根拠は“聞いた”。『榊屋は手順』――根拠は“掲示”。」
店の若い徒弟が首を捻る。
「四行で足りるのか」
「足りなければ、読み手は“戻る”。――掲示へ」
春奈の声は柔らかいが、紙の背骨に似て真っ直ぐだ。
午の半ば、御所門前の掲示に“薄香”の紙が混じった。「榊屋の娘は“不浄の巫”」の見出しに、白檀の香が薄く塗られている。
「混ぜ物の手だ」
翔が紙の縁を指でつまみ、風下へ掲げる。
「層が浅い。――ここで“断つ”」
衛士詰所の前で、咲凪は淡々と紙の置き換えを求めた。
「“掲示は公の紙に限る”は、今朝の通達にあります。香は落ちます」
明日美が規則書の該当箇所へ目印を置き、衛士が頷く。掲示は一枚外され、要点三枚が中央に戻った。
「助かった」
翔のひと言が衛士の背を伸ばす。通りの噂は、足場を一段失った。
午後、瓦版の新版が刷り上がる。見出しは冷たく、骨だけ。
〈職務差止・権限停止〉
〈香司鑑別:“風では起きない”〉
〈婚姻と商い、混交せず〉
店先で紙を手にした老女が、小さく笑った。
「読めるわ。――短いのは、読める」
徒弟が誇らしげに胸を張る。
「文句は姐さんたち。……いや、“骨”は姐さんたち」
大希は「俺は橋が怖い」と笑い、売れ筋の束を前へ出した。人は寄り、目は骨へ吸い寄せられる。
夕刻前、御所の白梅苑の石灯籠の陰で、景虎が待っていた。
「噂を消すのは難しい」
彼は短く言い、掲示の紙へ視線を滑らせた。
評定の掲示が出た翌朝、霞京の北市は、いつもより早く舌を動かしていた。瓦版の見出しが朱で踊り、露店の暖簾に白梅の図が揺れる。――「榊屋の娘は“不浄の巫”、香を逆に操る」「狐の守りを引き寄せる“縁結びの術”は禍津」……紙の角に薄く香が移り、白檀の筋の下に、鼻に刺さる軽い油の匂いが潜む。
「薄香の“流れ”、二筋ですね」
咲凪は露店の前で立ち止まり、懐紙を薄く湿らせて見出しの端をそっと撫でた。指先に移る筋は浅い白檀と、紙を滑らせるための油の点。
「“匂いで読む瓦版”は新しい手だ。出所は御所側の机だろう」
翔が低く言い、行き交う荷車の軌を一歩だけずらしてやる。「助かる」の一言で、車方の顔が緩み、通りの流れがほどけた。
「情報の“入口”は三つに見えます」
明日美が逆算表を開き、人流を矢印で描いた。
「一、北市の瓦版屋二軒。二、御所門前の口伝。三、茶店の壁張り。――貼り出し順と掲示期間をこちらで組み替えれば、“同じ情報”へ誘導できます」
「私は“要約”で刈り込む」
春奈が袖を整え、黒墨の小箱を掌で温める。
「賛否を一度混ぜてから、意見の骨を二行に分ける。『榊屋は禍津』『榊屋は手順』――“感情語”は落とします」
そこへ、大希が小走りで合流した。
「裏通りの瓦版屋に入れた。……おれ、橋は苦手だけど、“吃る”のを先に言ったら、向こうが席を出してくれた。初刷りの煤写し、もらった」
薄紙には、版木の端に写った小さな“側注”がのこっている。〈初出:書記局書記・未刻〉。
「入口、確定」
咲凪は頷き、懐から細紐を出して紙束の角を束ねた。結びは舟、ほどけばすぐに順序を入れ替えられる。
「手際は三段です」
明日美が指を三本立てた。
「一、“掲示の入口”をこちらで用意。――『公事所掲示・処分要旨』『香司鑑別の要点』『榊屋の商い条項』の三枚を、北市と御所門前の“目線の高さ”に同時貼り。
二、“同一情報への誘導”。人の流れを咲凪さんの“縁結び結線”で半日だけ設計――細い紐を暖簾の影に渡し、自然に足が止まる“角”を作る。
三、“薄香の縫い止め”。春奈さんの要約を瓦版屋に渡し、同じ文言で“再刷り”を取る。言葉の入口を一本化」
「私は衛士詰所へ“側注”を正式に転記してもらってくる。……その前に、耳の硬い相手には“弱み”を先に出しておく」
大希は笑い、路地の先を指した。
作業は朝餉の刻を跨いで始まった。
まず、御所門前。人波が膨らむ“肩”に、明日美が白木の札を打つ。〈処分要旨/香司鑑別要点/混交の否定〉。貼り高さは、子どもの目でも届く位置だ。
「文字は大きく、行は短く」
春奈が黒墨で骨だけを書く。
〈桂江:職務差止/家令:減俸謹慎/綾女:権限一部停止〉
〈逆層=“風では起きない”香司証言〉
〈婚姻と商い、混交せず(覚書)〉
飾りの言葉を斬り捨てた紙は、冷たいが、読みやすい。人の目が二度、三度と戻る。
次に、北市の大通り。咲凪は暖簾の影に細紐を渡し、結線の要所に小さな布片を留めた。
「ここで半歩“屈ませる”。――足は自然に“掲示の前”で止まります」
縁結び結線は術というより設計だ。人の視線と歩みを、結びの角度で静かに導く。紐を見抜いた者がいても、触れればするりと解ける逃げ道を残す。
「術か?」と囁いた魚売りに、翔が笑って「設計だ」と返し、桶を半ば運ぶのを手伝った。
「助かる」
礼のひとことが足を軽くし、路地の呼吸が整う。
瓦版屋の店先には、景虎の名をからめた扇情見出しが並んでいた。
「“堂上家若君に狐の嫁”。――強い見出しだ」
店主が舌を鳴らす。
「売れるのはこっちだよ、お嬢さん」
「“売れる”と“残る”は別です。――“残る”ほうを一枚、増やしませんか」
咲凪は懐から“要点だけの版下”を差し出した。
〈処分/逆層/混交否定〉の三段見出しに、各十字の説明。
「版木はあなたの。文句もあなたの。――ただ、骨は“この三つ”に」
店主は顎をさすり、明日美が納期と掲示期間を書き付ける。
「初刷り二束、昼まで。掲示は三日。……代金は“先払い半分、残りは夕刻の売れ行きで”」
明日美の条件は、店の懐にも優しい。店主はにやりと笑い、彫り刀を取った。
春奈はその間、別の瓦版屋に入り、噂の賛否を四行に要約して渡す。
「『榊屋は禍津』――根拠は“聞いた”。『榊屋は手順』――根拠は“掲示”。」
店の若い徒弟が首を捻る。
「四行で足りるのか」
「足りなければ、読み手は“戻る”。――掲示へ」
春奈の声は柔らかいが、紙の背骨に似て真っ直ぐだ。
午の半ば、御所門前の掲示に“薄香”の紙が混じった。「榊屋の娘は“不浄の巫”」の見出しに、白檀の香が薄く塗られている。
「混ぜ物の手だ」
翔が紙の縁を指でつまみ、風下へ掲げる。
「層が浅い。――ここで“断つ”」
衛士詰所の前で、咲凪は淡々と紙の置き換えを求めた。
「“掲示は公の紙に限る”は、今朝の通達にあります。香は落ちます」
明日美が規則書の該当箇所へ目印を置き、衛士が頷く。掲示は一枚外され、要点三枚が中央に戻った。
「助かった」
翔のひと言が衛士の背を伸ばす。通りの噂は、足場を一段失った。
午後、瓦版の新版が刷り上がる。見出しは冷たく、骨だけ。
〈職務差止・権限停止〉
〈香司鑑別:“風では起きない”〉
〈婚姻と商い、混交せず〉
店先で紙を手にした老女が、小さく笑った。
「読めるわ。――短いのは、読める」
徒弟が誇らしげに胸を張る。
「文句は姐さんたち。……いや、“骨”は姐さんたち」
大希は「俺は橋が怖い」と笑い、売れ筋の束を前へ出した。人は寄り、目は骨へ吸い寄せられる。
夕刻前、御所の白梅苑の石灯籠の陰で、景虎が待っていた。
「噂を消すのは難しい」
彼は短く言い、掲示の紙へ視線を滑らせた。



