第10話_狐将の庇護、商家の自立
昼鼓が二つ、間を置いて鳴った。公事所の大広間は、夏の光を障子に薄く受けて白く、床板はよく磨かれて冷たい。壇上には評定役、その左右に書記。向かい合うように席が並び、堂上家の列の端に景虎、女官長・桂江は供を従えて静かに扇を伏せている。榊屋側は咲凪、明日美、春奈、翔、裕斗、大希。白布の上、紙束の角は揃い、紐は舟に結ばれていた。
  「審問を再開する。入口から述べよ」
  木槌の音が一つ。咲凪は立ち、最初の紙を正面へ押し出した。
  「入口――目撃。酉三つ、裏潜りを行く堂上家家令(瓦版屋徒弟)。子の初め、回廊折返で“逆層”の香(夜警の老職人・衛士側注一致)。子の二つ、巡り一名増(側注)。酉、面改め(香司記録)。――順序は一本です」
  書記が受け取り、評定役が頷く。春奈は要約紙に矢印を引き、〈目撃→現象→運用〉と太字で括った。
  「次に“現象”」
  明日美が合図を受け、包みを一つ開く。懐紙の上に移された薄い筋――白檀と封蝋油。
  「香痕写し三点。北回廊、書記局脇、女官長室戸縁。三か所とも“層の逆転”。……香司立会いの再鑑をお願いします」
  香司が前へ出て香を嗅ぎ、淡々と告げた。
 「確かに逆。自然の風ではこうはならぬ。混ぜた手がある」
  桂江の睫がわずかに伏せられ、扇の骨が音もなく揺れた。
  評定役の視線が景虎へ移る。
  「堂上家は、封蝋室の在庫減と“補修印”の追記をどう説明する」
  景虎の家令が立ち、答えようとした刹那――
  「その前に」
  咲凪は一歩進み、誓紙の写しを胸の前で掲げた。
  「榊屋は“虚偽を禁ず”との私的誓いを公の場に開示します。――本件、虚偽が混じれば、当家の側から“誓いに照らした異議申立て”を行う権利を表明」
  静かな宣言。評定役が眉を上げ、「よい」と手で示す。
  家令が口を開く。
  「在庫の減は、他家への“挨拶用の封”で――」
  「挨拶は“帳外”か」
  咲凪は遮らず、ただ問いの形に整える。
  「在庫帳は“未刻に減、申の終いに補充”。面改めは酉。――挨拶用封の移動は、目録に?」
  家令の舌がもつれ、桂江の扇が半寸だけ上がった。
  「香は挨拶も飾るのよ」
  「飾りは“順”を壊しません」
  香司が短く付け加えた。
  「次に“混交”」
  明日美が別の紙束を滑らせる。
  「榊屋と蔵人屋・桐江との取決め。『婚姻の有無に拘らず確定』との覚書。小印済」
  評定役が目を通し、書記が受理の朱を落とす。
  「対して、堂上家から榊屋への“再縁談状”。その当日、家の使いが公事所へ“審査順の前倒し”を口添え――側注一致」
  春奈が要約紙に二本の矢印を描き、〈縁談→公事所〉の間に〈混交〉と点線で括る。
  「混じれば濁る。――香も商いも同じです」
  咲凪の声は低く、しかし芯が通る。
  そのとき、裕斗が袖を正して前へ出た。
  「俺からも。……仮面舞の夜、香司殿に噛みついた。場を荒立てたのは俺だ。すぐ頭を下げたが、それでも“混乱”の一手になった。――だから、今は順に従う」
  率直な自白に、広間の空気がわずかに軟らぐ。評定役が「心得た」と短く返し、景虎側の供の肩から力が抜けた気配がした。
  「ここで“断ち”を入れる」
  翔が一歩進み、家令へ向けて声を落とす。
  「あなたに“逃げ道”を提示する。虚偽の連鎖を断つ供述は、処分の軽減に通じる。――命令なら命令と言え」
  家令の喉仏が上下し、沈黙が一拍。
  「……混ぜ物の段取りは、書記局の“封蝋室”から。『上』より“層を逆に仕立てる”と聞いた」
  広間に小さなざわめき。評定役が木槌を置き、家令へ向けて続けさせる。
  「“上”とは」
  家令は視線を泳がせ、やがて肩を落とした。
  「女官長殿の室で、文を見た。――白梅の封。欠けは南東」
  桂江の扇がわずかに硬くなる。だが彼女は表情を崩さない。
  「文は流れる。――誰の指を経ても」
  「だから、層が逆になったのですね」
  咲凪が包みの一つを開き、懐紙の筋を示した。
  「“学び始めた手”は順を間違える。これは意図の痕です」
  評定役はしばし沈思し、やがて書記へ視線を落とした。
  「女官長・桂江に問う。封蝋室からの持出し、書記局の印の貸し出し、いずれも“帳外”があるのではないか」
  桂江は微笑を保ったまま、扇を伏せた。
  「“帳外”の風はどこにでも吹く。だが、風は紙を全部は運ばない」
  咲凪は首を横に振る。
  「紙は運ばれなくても、“圧”を覚えます」
  反転写文を示す。黒墨に残る筆圧、言い回しの癖。香司が頷き、「同一の手」と短く告げた。
  ここで評定役が手を上げた。
  「本段の認定を暫定で下す。――“逆層仕立て”は存在。“封蝋室の帳外”の疑い濃厚。“混交”は榊屋側の覚書により否定。……午後の評定で処分を決する。双方、追加があれば提出せよ」
  木槌が軽く落ち、ざわめきが広がる。
  退席の列が動き始めたとき、咲凪は白布の端で立ち止まり、深く息を整えた。狐火の指輪が衣の下で、静かに熱を保つ。翔が隣に並び、低く囁く。
  「助かったのは君の“順”だ。俺は外から切っただけ」
  「切ってもらえると、結べます」
  短い応酬ののち、二人は同時にわずかに笑った。
  榊屋へ戻る道すがら、明日美が逆算表を広げる。
  「午後の評定までに“掲示”を二つ。――一、“再縁談と商いの混交は否”。二、“逆層仕立ての再鑑定・香司同意”。貼り出しは公事所脇の掲示板。瓦版屋には『要点のみ』」
  「私が回る」
  大希が手を挙げる。
  「橋は苦手だけど、足は動く。……要点だけ、置いてくる」
  春奈は書き付けの欄外に二行でまとめる。
  〈混交否定/逆層再鑑〉――感情語は削ぐ。
  屋敷の角を曲がると、玄関先に桐江が立っていた。
  「覚書の控えを見に来た。……“婚姻に拘らず確定”、確かに」
  彼は満足げに頷き、咲凪へ目を細める。
  「娘君。商いは紙で守る。縁は心で結ぶ。