第1話_藍の夕暮れ、狐火が招く
藍に沈みゆく空の下、霞京の北市は百灯の夕と呼ばれる夜祭の準備に沸き立っていた。屋台の軒先には朱や金の灯籠が吊るされ、油紙越しの光が揺れては、人々の頬をほのかに染める。
  榊屋の養女、咲凪は釣銭箱の前に座り、帳場の計算を進めていた。ひと呼吸ごとに周囲の喧噪が増してゆくが、彼女の耳は数珠玉のように並んだ数字に集中している。
  「……ここの小数点がずれてる」
  仕入札と帳簿を見比べた瞬間、咲凪の手は迷わず筆を走らせた。紙片に根拠を書きつけ、誤差の原因を欄外に記す。横で餅菓子を売る裕斗が、勢いよく屋台の裏口から飛び込んできた。
  「おい咲凪! 川の方で灯籠が一つ、変な色で燃えてるぞ!」
  「変な色?」
  問い返す間もなく、裕斗は水桶を抱えて駆け出した。その背に咲凪は眉をひそめる。彼の強気な性分は頼もしいが、計画の無さが災いして事態を悪化させかねない。案の定、桶の水は走る拍子に半分以上こぼれ、路面に泥の水筋を残すばかりだった。
  その時、通りの向こうからざわめきが走った。祭客の笑い声が途切れ、代わりに悲鳴と怒号が混ざる。灯籠の列を伝って、薄青い炎がねっとりと移ってゆく。あやかしの気配――咲凪の背筋に冷たいものが走った。
  咲凪は手元の簪にそっと触れた。母の形見であり、縁結びの術を込めた唯一の道具だ。屋台の柱から柱へ、結界札のように灯籠を繋ぐイメージを脳裏に描く。縁結び結線――炎の流れを一方向に誘導し、逃げ場を作らない技。
  結び終えた瞬間、通りの端から白い影が現れた。人の姿をとった白天狐、翔だった。金の瞳が光を反射し、彼は咲凪の背に立つと短く息を吐く。
  「君のおかげで助かった」
  礼の言葉は不意に胸へ落ちた。見ず知らずの高位あやかしから真っ直ぐに向けられる感謝に、咲凪はわずかに頬を熱くする。
  炎はやがて収まり、祭客たちは安堵の笑みを取り戻す。しかし屋台の奥で、継母の綾女が冷たい目でこちらを見ているのに気づき、咲凪の指先は自然と簪から離れた。
  翔は掌を差し出し、指先で小さな狐火を生む。それは青白く揺らぎ、やがて指輪の形へと変わった。
  「これは仮の守護契約の証だ。危険を感じたら、これを通して呼びなさい」
  咲凪は一瞬迷い、しかし受け取った。その瞬間、狐火の指輪が彼女の簪に呼応し、淡く光を返した。
 指輪の温もりが指先に宿る。咲凪はそっと拳を握り、肩越しに屋台群を見渡した。焦げ跡は筋のように細く伸び、結線で誘導した炎の通り道が、地図の朱線のように残っている。被害は最小限――そう判断してから、彼女はひとつ息を吐いた。
  「お、おい……悪かった。水、半分も残らなかった」
  泥水を跳ね散らした裕斗が、目尻を赤くして戻ってくる。勢いはあるのに、計画はいつも後ろから追いついてくるのだ。
  「次からは桶を二つに分けて、坂を回避して。重さと傾きが敵になるから」
  咲凪が淡々と伝えると、裕斗は頭を掻いて「わ、分かった」と短くうなずいた。失敗を隠さずに認めるところは、彼の良いところだ。
  通りの端で、翔が崩れた灯籠を拾い上げ、近くの子どもに手渡している。
  「手伝ってくれてありがとう。君が呼んだ大人たちが早かった」
  礼を受けた子は頬をふくらませて笑い、走っていった。翔は次いで屋台の下働きへ「助かった」と声をかけて回る。その一言が、張り詰めていた空気をするりと解いていく。
  「先ほどの結び、見事だった」
  翔が戻り、狐火の名残を瞳に揺らして言った。
  「偶然です。灯の並びが、結び替えやすい形だっただけ」
  「偶然を掴むには、準備がいる」
  短い応酬に、心がわずかに温む。けれど、背後で衣擦れの音がして、咲凪は視線を戻した。継母・綾女が、扇を閉じた音を小気味よく鳴らしながら歩み寄ってくる。
  「咲凪。祭の最中に勝手な真似をして、もし客に怪我でもさせていたら、榊屋は終いよ」
  柔らかな笑みの下に棘がある。
  「被害は出していません。誘導の痕跡は灯籠の焼け筋で証明できます。費用は、倒れた屋根紙と提灯の弁償だけ」
  即答すると、綾女の扇がぴたりと止まる。
  「証明、ねえ。ふうん」
  彼女は肩で笑い、袖の奥で誰かへの書付を握っている気配を残して立ち去った。観客の動線と灯の位置を、屋台の目録と付き合わせる――そんな思考が、咲凪の頭の中で自然に回転する。
  「今の女は?」
  「養い母です。私は、ここで働かせてもらっている身」
  「“身”の言い方が、自由を削る」
  軽く首を傾げる翔の声色は、からかいではなく観察の響きだ。咲凪は視線を落とし、指輪と簪の距離を測るように親指でなぞった。
  通りを北へ、涼風が抜ける。油の香に、薄く白檀が混じっている。昼間の御所に出入りする者だけが纏う香り――咲凪は鼻先に残る筋を追い、灯籠の列の端へ歩いた。結び替えた縄の結節のそばに、黒ずんだ指先の跡がある。灯芯に触れた誰かの痕。
  「この炎、誰かが最初に“湿(しめ)”を与えてます。火は嫌うはずの湿りを」
  翔が身を寄せる。
  「湿りと油の層を先に仕込んだ、ということか」
  「はい。灯は自然に走りません。走らせる“意志”が働いた」
  言葉にした瞬間、背筋に冷たい線が引かれた。祭の賑わいの裏で、誰かが結界の手触りを試すように灯を弄った。誰が、いつ――咲凪は(明かりが点いたのが戌の刻、混乱が起きたのが少し遅れて亥の始め)と、時の針を心の帳簿に記す。
  「君は今、危険に踏み込んだ」
  翔の声が低くなる。
  「だからこそ、仮の守護を提案する」
  白い指が、指輪の縁を一度弾く。淡い火が漂い、すぐに消えた。
  「ただし三つの約束を。――危ないときは必ず呼ぶこと。虚偽はつかないこと。そして、自分の足で歩くこと」
  咲凪は唇を引き結び、うなずいた。義理ではなく、判断の順序にかなう約束だ。
  「翔様、でしたか」
  呼ぶと、彼は首を振った。
  「翔でいい。君も名を」
  「咲凪」
  名を交わした瞬間、通りの向こうで義姉の琴葉と真珠が、わざとらしく囁く声を上げた。