二学期が始まった。宿題は、夏休みラスト三日で明星に教えてもらいながらどうにか終わらせることができた。ギターの時間が減ってぶーぶーと文句を言ったら、自業自得だと明星に言われてしまった。ごもっともすぎて、ぐうの音も出なかった。
ケガのほうは、絆創膏をはがせるところまですぐに回復できた。学校のみんなにツッコまれることにならなくて、正直助かった。堂々と明星とつるむつもりだから、例えば“天地のケガは明星のケンカに巻きこまれたらしい”なんて、明星を悪者にするような噂は立ってほしくなかったから。
昼休み。チャイムが鳴るとオレはすぐに、隣の席の明星のシャツを掴む。二学期に入ってすぐの席替えで、オレたちは離れるどころか隣同士になった。しかも、いちばん後ろの窓際だ。秋のオレはどうやら運がいいらしい。
「みーよーせ、一緒に飯食お」
「……分かった、分かったから手離せ。皺になる」
「離してもどこも逃げねえ?」
「二週間も毎日つきまとわれたら、さすがに逃げねえよ……」
「ほんとかー?」
「ほんとに」
そうこうしているうちに、伊藤と宮田もオレたちの元へ集まってくる。
「はは、詠太が明星を捕獲してる!」
「伊藤、宮田。明星はもう逃げないらしいぞ」
「へえ、やったじゃん。明星、とうとう観念したんだ?」
「まあな……天地から逃げるだけ無駄だって分かったから」
「遅いんだよ。オレはしつけえの」
二学期が始まってすぐに、伊藤と宮田は明星に話しかけるようになった。夏休みに言ったことを実行していて、オレは嬉しかったけれど。嫌なわけじゃないけど慣れないと明星はずいぶん戸惑っていて、昼休みに誘っても最初のうちは逃げられてしまっていた。行き先は分かっていたからオレが教室に連れ帰ったり、逃げ出す前に捕まえたり。そんな攻防をくり返してきたけれど、それももう終わりにしたらしい。おかげでようやく、これがオレたち四人の昼休みの定番! と宣言することができそうだ。
「でもほんと、詠太と明星めっちゃ仲良くなってるよな」
いただきまーすと大きな声で手を合わせた伊藤が、おにぎりを頬張りながらそう言った。オレと明星は顔を見合わせ、
「そうなんだよ」
「そうでもないけど」
と同時に答えた。肯定したのがオレで、否定が明星だ。わざとらしく眉をクッと上げて明星の顔を覗くと、逸らされてしまった。そんなオレたちを見て、
「いや、仲いいだろ」
とナイスツッコミを入れたのは宮田だ。だってそれ、と明星のバッグを指差す。正しくは、リュックにぶら下がっているキーホルダーを、だ。例の、オレンジの毛玉。明星は二学期になってから、リュックにつけてくれるようになった。
「それ、詠太の黒いのとおそろいだよな」
「へへ、そーう。オレが明星にプレゼントしたヤツ」
「押しつけたの間違いだろ」
「えー、そうだけどー。明星が嬉しかったんなら、プレゼントってことでいいじゃん」
「屁理屈だな」
「明星は照れ隠しだな」
「…………」
「はは! マジで仲良しじゃん」
呆れたような顔で明星は会話を放棄したけど、本当は満更でもないんじゃないかな。
試しに机の下で、明星の足をコツンと小突いてみる。すると、こちらを見もせずオレの足を小突き返してきた。思わず「ふはっ」と笑うと、横目でこちらを見た明星が口パクで「ばーか」と言って笑った。
うん、やっぱり明星も楽しそうだ。それがすごく嬉しい。
「お邪魔しまーす」
今日は、九月最後の金曜日だ。
金曜日は、朝からギターを背負って学校へ行く。リュックを背負えない代わりのボストンバッグには、着替えを詰めてある。学校から直接、明星の家に行くためだ。ギターは教室で邪魔になるかなあとか、変に目立つかなとか考えたりもしたけれど。自宅に取りに戻る時間がもったいない、という結論になった。一分でも早く、ギターに触れるほうが断然いい。
「おじいちゃんおばあちゃん、こんばんは。今日もお邪魔します」
「詠太くん、いらっしゃい。一週間ぶりね」
「夏休みは毎日来てたから、なんか変な感じです」
「ふふ、私たちもそうよ」
おじいちゃんとおばあちゃんと少し話して、先に二階に上がった明星を追いかける。
「ただいまー」
「おかえり……って、今ただいまっつったか?」
「明星もおかえりって言ったじゃん」
「それは……つられたんだよ」
「はは。だって明星の部屋、居心地いいしさ。一ヶ月もいたから、マジでただいまって気持ち」
「……あっそ」
「てかオレ、先週もただいまって言ったけどな。明星、そん時は普通におかえりって言ってツッコミもしなかったぞ」
「は? 嘘だろ……」
信じられない、といった顔で呆然としている明星がおもしろい。それにくすくす笑いつつ、ギターとバッグを床に下ろす。夕飯までもうちょっと時間がありそうだったから、少しギターに触れそうだ。でもまずは先に、確認しておくことがある。なによりも大事なことだ。
「明星、今日は親父さんから連絡は?」
「今のところない。今週も来ないっぽいな」
「マジ?」
「うん、マジ。こっちに来る時はいつも、五時過ぎには連絡来てたから」
「そっか、よかった……」
明星の言葉に、オレは胸を撫で下ろす。それから明星の背中をポンとたたく。
もし親父さんから連絡が来て、どうしても明星が行くと言うのなら。オレは宣言した通り、絶対についていく。でも、会わないで済むならそれがいいに決まっている。連絡なんて、このまま一生なければいい。
「っし、じゃあ頑張るか!」
「だな」
気を取り直して、オレたちはそれぞれの定位置につく。明星はデスク、オレはベッド前の床。ここから見る明星の背中が、オレにとっては努力の象徴になりつつある。
「なー明星、今どんな感じ? 小説。順調?」
「んー、そうだな……実はまたちょっと構成変えたくなって、修正入れてるところ」
「へえ、そうなんだ」
ギターを鳴らしながら、明星のほうからもカタカタというキーボードの音がして。こうして進捗を伝え合う時間は、すごく心地がいい。お互いの夢が混じり合うようで、明星とともに頑張っている、と強く感じられるからかもしれない。
「誰かさんが、想定外の行動取ったからな。影響受けちゃって」
「…………? そうなんだ。え、誰かさんって?」
「さーなあ」
「なんだよー、教えてくんないの?」
「天地は? 今どんな感じ? 曲は完成しそうか?」
「あ、話そらしたな? まあいいけど……うん、結構順調。メロディもほぼ完成かな」
「マジか、すげーな」
「さんきゅ。もう少し詰めて、そろそろおじいちゃんに聴いてもらおうと思ってる。たださー、おじいちゃんに伴奏考えてもらったとして、当日どうするかなんだよな。おじいちゃんのを録音させてもらうか、誰かに弾いてもらうか……めっちゃ悩む」
おじいちゃんが音をつけてくれるのだから、おじいちゃんの音色がいちばんいいと思う。でもせっかくだから、生演奏にこだわりたい気持ちもある。その場合、誰に頼めばいいのだろう。校内の合唱コンクールでピアノを弾いていた、クラスの女子の森山さんとか?
答えは出ないまま、ノートを広げて歌詞の上に書いてあるコードを奏でる。すると、椅子の軋む音が聞こえた。
「なあ、天地。それなんだけどさ……」
「んー?」
顔を上げると、明星がこちら振り返っていた。やけに神妙な面持ちで、なにかを言いたげにしている。
「明星? どうした?」
「それ、俺が……」
「…………? うん」
「あー……やっぱなんでもない」
「え!? なんだよー気になんじゃん!」
「ごめんごめん、マジでなんでもないから。気にすんな」
「…………」
「ふ、じーっと見てもなんも出てこねえよ」
なにか悩みでもあるのかと思ったけれど。明星はもう、いつものように笑っている。その笑顔に嘘はないように見える。
「分かった。でもなんかあったらちゃんと言えよな」
「うん、そうする。天地もな」
「もちろん」
約束をしてくれたから、無理に聞き出すわけにはいかない。空中でグータッチをして、またそれぞれパソコンとギターに向かい合う。
明星がなにを言おうとしたのか。それはやっぱり気になるけれど。
文化祭のステージの申しこみが、九月最後の月曜日にスタートした。申しこんだ人はもれなく全員ステージに上がれるから、急ぐ必要はなかったんだけど。勢いに任せないと怖気づきそうだったので、明星についてきてもらってその日のうちに申しこみを済ませた。オレが一番乗りだったらしい。
ちなみに、ステージの日と明星が応募するコンテストの締め切りが同じ日だった。あまりの偶然に驚いて、ふたりで改めて気合を入れ直した。
オリジナル曲の制作は、メロディを録音しておじいちゃんに渡すところまで進んでいる。あとは歌詞を洗練しつつ、ひたすら練習あるのみ。そう、十一月まで音楽に集中! と思っていたんだけど。
「はいみんな静かにしろよー。今日のホームルームは、体育祭の出場種目を決めるからなー。ひとりひとつは絶対だぞ」
担任の先生の言葉に、オレは口をあんぐりと開けた。そうだった、文化祭の前に体育祭もあったんだった。
「体育祭のことマジで忘れてた……」
「天地は運動苦手なんだっけ?」
「苦手、ってわけじゃないけど……あんまり好きじゃないというか」
「へえ」
「明星は? 体育の授業は普通にこなしてるよな」
「まあな。割と好きなほうかも」
「へえ、ちょっと意外」
体を動かすこと自体は好きなほうだ。だからこそ、中学では陸上部に入ったのだし。でもやっぱり、今となっては運動そのものがトラウマに紐づいていて。避けられるものなら避けたいのが正直なところだ。
ここは無難に、玉入れとか綱引きとか、走る必要のないものにしよう。
――そう目論んだのに。
「なあなあ明星、一緒に玉入れか綱引きやんない?」
「あー……ひとつ出ればいいやって思ってたんだけど、天地がそう言うなら」
「あ、明星もしかして、もうなにやるか決めてた?」
「決めてたっつうか、今決まった」
「え?」
ほら、と明星が黒板を指差した。体育祭の実行委員の伊藤――賑やかな伊藤にぴったりだと思う――と女子がひとりそこに立っていて、競技と名前を書きこんでいる。オレがひとり考えこんでいた間に、話は進んでいたらしい。明星の名前が、クラス対抗リレーの欄にあった。
「えっ! 明星リレーに出んの!?」
クラス対抗リレーは、体育祭の中でも特に盛り上がる競技だ。みんな自分のクラスが勝つところを見たくて、応援にも熱が入る。
「立候補したのか?」
「いや俺は……伊藤の推薦で」
「は? 伊藤?」
「そーう、俺ー!」
どうやらオレたちの会話が聞こえていたらしい。地獄耳か? 黒板の前で、伊藤がピースをしてみせる。
「実行委員になったからには、自分のクラスが勝ちたいじゃん? 他のヤツらの運動神経は大体知ってるけど、明星のは知らなかったから聞いてみたんよ。そしたらさ、前の学校の体育祭でアンカーやったんだって! しかも、優勝」
そう言った伊藤は、まるで自分の功績かのように胸を反らしてみせた。
「マジか。すげーじゃん」
「別に、特別速いわけじゃねえんだけどな……」
驚きつつもクラス全体に目を向けると、明星くんってすごいんだねとか、優勝できちゃうかも、なんて声が聞こえてくる。ああ、明星はもうこのクラスで怖がられていないんだ。
明星への誤解を解くために「不良じゃないよ!」と言葉にするのは簡単だけれど。実際につるんでいるところを見てもらうのがいいと思っていた。オレだけじゃなく、伊藤と宮田も明星と交流するようになったから、その空気がみんなに広がったのだろう。それが自分のことみたいに嬉しい。
「明星、すっかりこのクラスの一員だな。もちろん最初からそうなんだけど、なんつうか、すげー馴染んでるよ」
「もし本当にそうなんだったら、それは天地のおかげだな」
「そんなことねえよ」
「それ以外ねえだろ」
オレのおかげ、だなんて自惚れているわけじゃないけれど。明星にそう言ってもらえるのは、胸の奥がくすぐったい心地がする。肩をぶつけて、お返しに明星からもぶつけられて。じゃれ合うようにしていると、
「ちょっとそこのおふたりさーん。まだリレーの話は終わってませーん!」
と伊藤が声を張り上げた。どこのおふたりさんだよ、ときょろきょろしたら、みんなの視線はオレと明星に注がれていた。
「あ、オレたち?」
「そう、特に詠太なー。なあ詠太、詠太もリレーに出てほしいと思ってるんだけど、どう?」
「……え? な、なんでオレが……」
「詠太、中学で陸上部だったって言ってなかったっけ」
「あー……」
「もしかして長距離だった?」
「短距離だった、けど……」
そう言えば、高校に入学して伊藤と宮田と仲良くなりはじめた頃に、そんな話をしたんだっけ。高校では遊びたいから部活には入らない、なんて言って、その話題はそれっきりだった。それに安堵して今までを過ごしてきたのに。よりにもよって、リレーへの参加を頼まれるなんて。
「あとひとりなんだけどさ、絶対勝ちたい! な、どうかな」
「…………」
この高校生活、色々なことをのらりくらりとかわして過ごしてきた。勉強もスポーツテストも、本気で励むことはなくなっていた。でも今は、そんなオレから少しは変われたと思う。明星に出逢ったから。
でも、やっぱり陸上は怖い。しかもリレーだなんて。上手く渡せず地面に落ちていったバトンのあの光景が、スローモーションでフラッシュバックする。呼吸が浅くなってくる。
「あー、伊藤ごめん。オレは……」
できるわけがない。オレが、クラスの代表としてなんて走っていいわけがない。引き受けないほうがオレのためにも、みんなのためにもなる。そう考えて、断ろうとしたのだけれど。ふと隣の明星を見て、言葉が途切れてしまった。
「天地? どうした?」
「…………」
リレーへの恐怖は変わらず胸にわだかまっている。明星の隣で夢を見られるようになっても、だからといってトラウマそのものを克服したいなんて、考えたこともなかった。でも、だけれど。やってみたい。今、そう考える自分に気づいてしまった。明星となら、リレーだってやってみたい、って。
「……明星、オレ、やれるかな。オレなんかが、やってみてもいいのかな」
「……ふ」
言ってから気がついた。今のオレの言い方、夏休み前にギターを本気でやるか悩んでいた時みたいだ。明星が背中を押してくれた、あの時の。どうやら明星も、それに気づいたらしい。
「天地、お前が自分でできないなら、俺が言ってやる。やれるよ、やりたいって天地が思ってるなら。俺、天地と走ってみたい」
明星もあの時の言葉をなぞってくれた。 ああ、やっぱり明星がオレにくれる力は、いつもとてつもなくデカい。静かにこくんと頷いて、顔を上げる。
「伊藤。オレ出るよ、リレー」
「あっ、マジ!?」
「うん。伊藤が期待しているような結果、オレに出せるかは分かんないけど」
「やったー! ありがとう詠太! これで俺の考える最強のリレーチーム、完成!」
明星に背中を押してもらった勢いで、オレは伊藤に宣言した。すると教室中から拍手がわき起こった。ものすごいプレッシャーだ。だけど。乗り越えられる気がするんだ。明星がいるから。
それからの二週間、昼休みにリレーの練習が入るようになった。リレーチームの監督を名乗る伊藤の招集に、チームのメンバー全員が協力しているかたちだ。
リレーは八人のチーム。各クラス、男女それぞれ四人ずつ選出するようにとの決まりだ。女子は全員運動部に入っていて、男子もオレと明星以外のふたりは運動部。足を引っ張らないかめちゃめちゃ不安だけど、伊藤監督は自信満々だ。
走る順番を決める時、オレは伊藤にひとつだけお願いをした。明星はアンカーに決まっていたから、そのひとり前に立候補させてもらった。明星にバトンを託したい。そう思ったからだ。
全員が昼食を終えてからの練習だから、そんなに時間はない。それでもバトンを渡す練習をひたすらくり返した。
「もう明日が本番かあ。詠太、なんか気合入ってたな」
「んー? だなあ。どうしても、な」
「なんか知らんけど、めっちゃ心強いよ。引き受けてくれてありがとな」
「こちらこそ、誘ってくれてありがとう。伊藤監督。オレ、変われるようにがんばるよ」
「うん、マジでよく分からんけど。監督は信じてるからな!」
「はは、おう」
放課後。明星とふたりで学校を出る。二学期になってからは伊藤と宮田、明星とオレの四人で帰る日が増えたけれど。体育祭の実行委員は明日の準備で忙しいらしく、宮田も伊藤に駆り出されていった。明星とオレは、明日のために体を休めろとの伊藤の命令だ。さすが監督、チームメンバーの体調管理にも目を配っているらしい。伊藤のその采配は、オレにとって好都合だった。
「なあ、明星。オレさ、お前に聞いてほしい話があって」
「なに?」
「ちょっとそこの公園寄ってこ。あ、自販機あんじゃん。ジュースおごる。なにがいい?」
「別にいいよ」
「いいから」
「じゃあ……緑茶」
「緑茶ね。じゃあオレも」
学校近くの公園は、小さな子どもも遊んではいなかった。九月と言ったって、まだまだ暑い日が続いているからだろうか。ベンチもあるけれど、ブランコにふたり並んで腰を下ろす。ただのペットボトルの緑茶なのに、いただきますと言ってから明星は蓋を開けた。明星のそういうところ、好きなんだよな。見習ってオレもいただきますをしてから、お茶をふた口飲んだ。
「……オレさ、陸上部だったんだ。中学生の時」
「こないだ伊藤が言ってたな」
「うん。それなんだけどさー……オレ、中三の最後の試合でやらかしたんだよ」
「やらかした?」
「リレーのメンバーに選ばれてたんだけどな。バトンを渡すのに失敗して、負けた。みんな必死で練習してたし、その日もオレに回ってくるまでは一位だったのに。オレの失敗のせいで、あっという間に抜かされた。オレのせいで、みんなの中学最後の試合が終わった。それがさ、オレにとってはすげー苦い思い出で、トラウマになって……それで、なんでも適当でいいやって思うようになった。真面目にやったところでまた、とも思うし、オレが真剣にやる資格ない、とも思ったりして」
「…………」
なにも言わない明星には、オレはどう見えているだろう。一緒に過ごしてきた思い出が明星は見放したりしないと感じさせてくれるのに、今まで生きてきたオレがそんな自信を奪ってしまう。
「でも、明星と過ごすようになって……明星がいたからギターをマジでできるようになって、すげー楽しくて。だから、もう一回走ってみたいって思えた。明星となら、できるんじゃないかって」
「そっか。そうだったんだな」
「……うん。明星なら、オレの下手くそなバトンもきっと受け取ってくれるんじゃないかなって。でも……はは、やっぱすげー怖い」
夕方だけどまだまだ明るい空を仰いで、ブランコを後ろに引いてぐんと力を入れた。ひと漕ぎ、ふた漕ぎ。力を抜けばブランコはすぐにスピードを落とす。するとブランコに乗ったまま、明星がこちらにコツンとぶつかってきた。座面同士が当たって、なかなかの衝撃だ。
「わっ、明星?」
「絶対受け取るよ。約束する。練習もいっぱいしたしな」
「明星……はは、心強いな。でも、オレが明星に渡す前に、落っことすかもしれない。……あの時みたいに」
「それでも別にいい」
「え? いやそれはダメだろ」
「だって、ちゃんと待ってるし。天地がバトン渡してくれるの。それで、何位だって俺がゴールすればいいだけ」
「…………」
「まあ、やるからにはたしかに勝てたら嬉しいけど。お前となら、って俺だって思ってんだよ」
「へ……」
立ち上がった明星が、オレの頬にペットボトルを押し当てた。
「わっ、冷たっ!」
オレが思わず肩を跳ね上げると、明星がくすくす笑いながら腰をかがめた。顔がぐっと近くなって、視線が交わる。
「音楽と小説、って違うことやってるけどさ。俺は天地と一緒に、ふたりだから見れる夢を生きてるって思ってる。でも、リレーっていうひとつの競技を繋ぐのも、やっぱいいなって。それだけで俺は結構、もう十分」
「っ、明星〜……」
明星と一緒にいるようになってから、オレはずいぶんと泣き虫になってしまった気がする。隠しきれなくて鼻をすすれば、明星がいつかみたいにシャツで拭ってくれる。
「ハンカチはー?」
「だからねえよ。天地もだろ」
「はは、そーう」
拭いてもらって視界が開けたら、明星と目が合ってお互いに吹き出してしまった。
「明星ってさ、みんなの前ではオレと別に仲良くないとか言うけどさ。めっちゃ嬉しい言葉言ってくれるよな。結構オレのこと好きっしょ」
「は? それ、自分で言ってて恥ずかしくねえの……」
「えー? まあちょっとは恥ずかしいかも」
「だよな。まあでも……天地には隠したって仕方ないくらい、もう曝け出してるし。嫌いだったらこんな一緒にいねえよ」
「そこは好きって言えばいいじゃん」
「ふ、言うかばーか」
明星の手を握って、引っ張り上げてもらう。勝ち気に笑う明星が今度は拳を差し出してくれて、グータッチをする。
「明日、頑張るよ」
「ん。天地のバトン、信じて待ってる」
他の誰でもない明星が、オレを信じて待ってくれている。それだけで、オレも自分を信じてあげられそうだ。うん、明日はきっと大丈夫。トラウマに直接触れるようなものなのに、そう思えること自体がオレにとっては奇跡だ。
クラス対抗リレーは体育祭の目玉で、いちばん最後の種目にプログラムされている。まずは各学年で競い合い、それぞれのトップ二クラス計六クラスで決勝戦が行われる。
昨日あんなに明星から勇気をもらったのに、オレは朝から緊張しっぱなしだ。目の前でクラスメイトたちが競技に励んでいても、リレーのことばかり考えてしまう。昼休憩時には弁当を食べる気も起きなくて、伊藤監督様から「それじゃあ力が出なくて走れないぞ!」とお叱りを受けてしまった。ごもっともという他なく、でもどうしても食欲はなくて。みかねた明星が、弁当から梅干しを分けてくれた。明星のおばあちゃんが漬けた、あのめっちゃ酸っぱい梅干しだ。口に含むと顔がぎゅっとなるほどで、そのおかげで食欲はちょっと回復してくれた。うちの母手製のたまごやきと、おにぎりを半分。それがオレの午後のエネルギーだ。
「はあ、緊張する……」
午後の競技も着々と済んで、いよいよリレーの走者は入場の準備をするようにとアナウンスが入ってしまった。多くの人に抜かされながら、明星と一緒に集合場所へ向かう。到着する目前で、明星がオレの顔を覗きこんできた。
「平気か?」
「全然平気じゃない」
「そうみたいだな。でもやるんだろ?」
「……うん、やる。さすが明星、分かってんじゃん」
「まあな」
そう、明星の言う通りだ。どれだけ緊張しても、ろくに食べものが喉を通らなくても。逃げたいわけじゃない。のらりくらりとやり過ごすのは、もう今日で終わりにするんだ。明星と目を合わせ、大きく頷く。
「頑張るよ。そんで、今日の夜は明星んちでいっぱいギター弾く」
「うん。オレは天地のギター聴きながら、小説書くよ」
「ん、めっちゃ楽しみ」
「じゃあ、俺はあっちみたいだから」
「明星も頑張ってな!」
「おう」
手を振りあって、オレも第七走者の列に並ぶ。係の人に誘導されるままグラウンドに入り、オレはそこで初めてとある人物に気がついた。
「あ……」
思わず声を漏らすと、相手も気づいたようだ。
「天地……」
とオレを見て、驚いた顔をしている。室井だ。中学の陸上部で一緒で、現役陸上部。以前から囁かれていた通り、三年生の引退を期に部長になったことは風の噂で聞いている。
「びっくりした。天地、リレー出るんだ」
「……うん。絶対無理だって思ってたんだけどな」
「……やっぱり、まだ忘れられない? 中学でのこと」
「まあな。ずっと忘れられない、っていうか、忘れちゃダメだって思ってる」
「天地……」
ふたりで話していると、二年生のスタートを知らせるピストルの音が鳴った。それと同時に各クラスのテントから声援が上がり、体育祭は最高潮のボルテージを迎える。
「なあ、室井」
「……ん?」
自分のクラスの走者を見つめている室井に、今度はオレから話しかける。今、トップのクラスのバトンが第二走者に渡ったところだ。
「今まで何回も声かけてくれて、ありがとうな。うんって言えなかったけど、室井がまた走ろうって言ってくれることで、救われてた部分あったなって……思ってる」
「そんなこと……俺は本当に、天地と走りたかっただけだよ」
「ん、さんきゅ」
「なにかあったんだ? またこうやって、走ろうと思えるような」
「そうだな」
あっという間にオレたちのふたり前、第五走者のトップがスタートした。オレのクラスはなんと二位で、その後に室井のクラスが続いている。それを見て、室井が軽いストレッチをはじめた。
「なあ天地。天地をグラウンドに戻したの、俺じゃなかったのは結構悔しいけど……同じチームじゃなくて、ライバルとして走るっていうのもいいね。燃える」
室井の目を見ると、本当に炎が灯っているかのように闘志が揺らいでいた。
「えー、現役選手としてちょっと手加減とかないの?」
「あるわけないだろ。相手は天地だし。本気出せよ、お前も」
「はは、言われなくても」
中学でのあの件があってから、室井はずっとオレの心の中を窺うような、気遣う様子を見せていた。でも今は、一緒に走っていた頃みたいだ。負けん気が強くて、走ることになると容赦がない。
「第七走者の皆さん、スタンバイお願いします!」
トラックに出ると、間もなくトップのクラスのバトンが渡った。順位に変動はないままだ。次はオレたちのクラス。現三位の室井のクラスとは、なかなかの差が開いている。
「じゃあな、室井。オレもまた、お前と走れる日がきてよかった」
第六走者のクラスメイトに手を挙げて、少しずつ走りはじめる。前を向いた瞬間、後ろに出した手にバトンが乗った。その瞬間、全速力で走り出す。ああ、オレ、本当に走ってる。やっぱり好きだなあ。でもすぐに、恐怖心が返ってくる。バトンを渡さなきゃ。落とさないように。しっかりと。できるかな、オレに。
飲みこまれそうになる。でもその時、
「天地ー!」
とオレを呼ぶ声が聞こえた。明星だ。トラックは最後のカーブに差しかかっていて、その先で明星が手を挙げている。そうだ、オレは“今”を走っている。あの頃をやり直すことも、記憶を消すこともできないけれど。今を積み重ねて、誰かと分かち合うことはできる。
どんどん明星に近づいて、バトンを前に差し出す。落ちるな、届け、明星に――祈りながら、必死になりながら。差し出したバトンは、明星の手にしっかりと渡った。それをちゃんと認識できたのは、明星がゴールした瞬間だった。へなへなと力が抜けて、その場に座りこむ。ああ、できた。できたんだ。今すぐ明星の元に走っていきたいけれど――視界が涙で滲んで、それはすぐには叶わなかった。
「あー、つっかれたー! おじいちゃんおばあちゃん、こんばんは!」
「ただいま」
「響くん、おかえり。詠太くんもいらっしゃい。今日はお疲れ様」
体育祭が終わった後、今日は伊藤と宮田、明星とオレでファミレスに寄ってきた。体育祭の打ち上げだ。金曜日だから、そのまま明星の家へとやってきた。ファミレスに行く道中でこっそり聞いたら、明星の父親からの連絡は今日もないとのことだった。もうさすがに諦めてくれたのかもと、明星がほほ笑んだのが印象的だった。
おじいちゃんとおばあちゃんに挨拶をしたら、明星の部屋へ。もはやルーティンとも言える流れができていて、図々しいかもと思いつつこの生活がオレにすっかり馴染んでいる。
「あーあ、リレーマジで悔しかったなあ」
「天地ずっと言ってるな」
「だーって、せっかくだから勝ちたかったじゃん」
バトンを渡すのに必死で、オレはその直前に室井に抜かされていたことに気づかなかった。室井のクラスはアンカーも陸上部だったらしく、そのままトップだったクラスも抜いて見事二年生の一位になった。オレたちは三位。ちなみに、そのあとの各学年上位二クラス同士での決勝戦で、室井たちのクラスは三年生を抑えて優勝していた。そう思えば、最強クラス相手に十分健闘したと思う。伊藤監督も最終的には満足そうだったから、なによりだ。
「だな。でも天地のバトンもしっかり受け取れたし。俺はよかったよ」
「あ……うん。オレも。マジで明星に渡せてよかった」
ゴールした後は結局、オレが明星の元へ向かう前に明星のほうから走り寄ってきてくれた。座りこんでいたのを引っ張り上げてくれて、グータッチをかわして。バトン受け取りやすかった、だなんて褒めてくれちゃうもんだから、勝ちたかったと口では言いながらオレはずっと最高の気分だった。
「なんか、今日が終わるのもったいない感じする」
定位置に座って、ベッドに頭を預け伸びをしながらそう言うと。
「分かるかも」
と明星が同意しながら隣に腰を下ろした。
「でも眠い」
「ふ、それも分かる」
「でも、ギターやる。それでこそ今日がもっと最高になる」
「それはそう」
風呂に入らせてもらったら、少し仮眠をとるのもいいかもしれない。そしたらまた、明星と夢の道を行く。トラウマの記憶が明星との今日でひとつ更新されたから、またなにか新しいアイディアが浮かぶかもしれない。
ケガのほうは、絆創膏をはがせるところまですぐに回復できた。学校のみんなにツッコまれることにならなくて、正直助かった。堂々と明星とつるむつもりだから、例えば“天地のケガは明星のケンカに巻きこまれたらしい”なんて、明星を悪者にするような噂は立ってほしくなかったから。
昼休み。チャイムが鳴るとオレはすぐに、隣の席の明星のシャツを掴む。二学期に入ってすぐの席替えで、オレたちは離れるどころか隣同士になった。しかも、いちばん後ろの窓際だ。秋のオレはどうやら運がいいらしい。
「みーよーせ、一緒に飯食お」
「……分かった、分かったから手離せ。皺になる」
「離してもどこも逃げねえ?」
「二週間も毎日つきまとわれたら、さすがに逃げねえよ……」
「ほんとかー?」
「ほんとに」
そうこうしているうちに、伊藤と宮田もオレたちの元へ集まってくる。
「はは、詠太が明星を捕獲してる!」
「伊藤、宮田。明星はもう逃げないらしいぞ」
「へえ、やったじゃん。明星、とうとう観念したんだ?」
「まあな……天地から逃げるだけ無駄だって分かったから」
「遅いんだよ。オレはしつけえの」
二学期が始まってすぐに、伊藤と宮田は明星に話しかけるようになった。夏休みに言ったことを実行していて、オレは嬉しかったけれど。嫌なわけじゃないけど慣れないと明星はずいぶん戸惑っていて、昼休みに誘っても最初のうちは逃げられてしまっていた。行き先は分かっていたからオレが教室に連れ帰ったり、逃げ出す前に捕まえたり。そんな攻防をくり返してきたけれど、それももう終わりにしたらしい。おかげでようやく、これがオレたち四人の昼休みの定番! と宣言することができそうだ。
「でもほんと、詠太と明星めっちゃ仲良くなってるよな」
いただきまーすと大きな声で手を合わせた伊藤が、おにぎりを頬張りながらそう言った。オレと明星は顔を見合わせ、
「そうなんだよ」
「そうでもないけど」
と同時に答えた。肯定したのがオレで、否定が明星だ。わざとらしく眉をクッと上げて明星の顔を覗くと、逸らされてしまった。そんなオレたちを見て、
「いや、仲いいだろ」
とナイスツッコミを入れたのは宮田だ。だってそれ、と明星のバッグを指差す。正しくは、リュックにぶら下がっているキーホルダーを、だ。例の、オレンジの毛玉。明星は二学期になってから、リュックにつけてくれるようになった。
「それ、詠太の黒いのとおそろいだよな」
「へへ、そーう。オレが明星にプレゼントしたヤツ」
「押しつけたの間違いだろ」
「えー、そうだけどー。明星が嬉しかったんなら、プレゼントってことでいいじゃん」
「屁理屈だな」
「明星は照れ隠しだな」
「…………」
「はは! マジで仲良しじゃん」
呆れたような顔で明星は会話を放棄したけど、本当は満更でもないんじゃないかな。
試しに机の下で、明星の足をコツンと小突いてみる。すると、こちらを見もせずオレの足を小突き返してきた。思わず「ふはっ」と笑うと、横目でこちらを見た明星が口パクで「ばーか」と言って笑った。
うん、やっぱり明星も楽しそうだ。それがすごく嬉しい。
「お邪魔しまーす」
今日は、九月最後の金曜日だ。
金曜日は、朝からギターを背負って学校へ行く。リュックを背負えない代わりのボストンバッグには、着替えを詰めてある。学校から直接、明星の家に行くためだ。ギターは教室で邪魔になるかなあとか、変に目立つかなとか考えたりもしたけれど。自宅に取りに戻る時間がもったいない、という結論になった。一分でも早く、ギターに触れるほうが断然いい。
「おじいちゃんおばあちゃん、こんばんは。今日もお邪魔します」
「詠太くん、いらっしゃい。一週間ぶりね」
「夏休みは毎日来てたから、なんか変な感じです」
「ふふ、私たちもそうよ」
おじいちゃんとおばあちゃんと少し話して、先に二階に上がった明星を追いかける。
「ただいまー」
「おかえり……って、今ただいまっつったか?」
「明星もおかえりって言ったじゃん」
「それは……つられたんだよ」
「はは。だって明星の部屋、居心地いいしさ。一ヶ月もいたから、マジでただいまって気持ち」
「……あっそ」
「てかオレ、先週もただいまって言ったけどな。明星、そん時は普通におかえりって言ってツッコミもしなかったぞ」
「は? 嘘だろ……」
信じられない、といった顔で呆然としている明星がおもしろい。それにくすくす笑いつつ、ギターとバッグを床に下ろす。夕飯までもうちょっと時間がありそうだったから、少しギターに触れそうだ。でもまずは先に、確認しておくことがある。なによりも大事なことだ。
「明星、今日は親父さんから連絡は?」
「今のところない。今週も来ないっぽいな」
「マジ?」
「うん、マジ。こっちに来る時はいつも、五時過ぎには連絡来てたから」
「そっか、よかった……」
明星の言葉に、オレは胸を撫で下ろす。それから明星の背中をポンとたたく。
もし親父さんから連絡が来て、どうしても明星が行くと言うのなら。オレは宣言した通り、絶対についていく。でも、会わないで済むならそれがいいに決まっている。連絡なんて、このまま一生なければいい。
「っし、じゃあ頑張るか!」
「だな」
気を取り直して、オレたちはそれぞれの定位置につく。明星はデスク、オレはベッド前の床。ここから見る明星の背中が、オレにとっては努力の象徴になりつつある。
「なー明星、今どんな感じ? 小説。順調?」
「んー、そうだな……実はまたちょっと構成変えたくなって、修正入れてるところ」
「へえ、そうなんだ」
ギターを鳴らしながら、明星のほうからもカタカタというキーボードの音がして。こうして進捗を伝え合う時間は、すごく心地がいい。お互いの夢が混じり合うようで、明星とともに頑張っている、と強く感じられるからかもしれない。
「誰かさんが、想定外の行動取ったからな。影響受けちゃって」
「…………? そうなんだ。え、誰かさんって?」
「さーなあ」
「なんだよー、教えてくんないの?」
「天地は? 今どんな感じ? 曲は完成しそうか?」
「あ、話そらしたな? まあいいけど……うん、結構順調。メロディもほぼ完成かな」
「マジか、すげーな」
「さんきゅ。もう少し詰めて、そろそろおじいちゃんに聴いてもらおうと思ってる。たださー、おじいちゃんに伴奏考えてもらったとして、当日どうするかなんだよな。おじいちゃんのを録音させてもらうか、誰かに弾いてもらうか……めっちゃ悩む」
おじいちゃんが音をつけてくれるのだから、おじいちゃんの音色がいちばんいいと思う。でもせっかくだから、生演奏にこだわりたい気持ちもある。その場合、誰に頼めばいいのだろう。校内の合唱コンクールでピアノを弾いていた、クラスの女子の森山さんとか?
答えは出ないまま、ノートを広げて歌詞の上に書いてあるコードを奏でる。すると、椅子の軋む音が聞こえた。
「なあ、天地。それなんだけどさ……」
「んー?」
顔を上げると、明星がこちら振り返っていた。やけに神妙な面持ちで、なにかを言いたげにしている。
「明星? どうした?」
「それ、俺が……」
「…………? うん」
「あー……やっぱなんでもない」
「え!? なんだよー気になんじゃん!」
「ごめんごめん、マジでなんでもないから。気にすんな」
「…………」
「ふ、じーっと見てもなんも出てこねえよ」
なにか悩みでもあるのかと思ったけれど。明星はもう、いつものように笑っている。その笑顔に嘘はないように見える。
「分かった。でもなんかあったらちゃんと言えよな」
「うん、そうする。天地もな」
「もちろん」
約束をしてくれたから、無理に聞き出すわけにはいかない。空中でグータッチをして、またそれぞれパソコンとギターに向かい合う。
明星がなにを言おうとしたのか。それはやっぱり気になるけれど。
文化祭のステージの申しこみが、九月最後の月曜日にスタートした。申しこんだ人はもれなく全員ステージに上がれるから、急ぐ必要はなかったんだけど。勢いに任せないと怖気づきそうだったので、明星についてきてもらってその日のうちに申しこみを済ませた。オレが一番乗りだったらしい。
ちなみに、ステージの日と明星が応募するコンテストの締め切りが同じ日だった。あまりの偶然に驚いて、ふたりで改めて気合を入れ直した。
オリジナル曲の制作は、メロディを録音しておじいちゃんに渡すところまで進んでいる。あとは歌詞を洗練しつつ、ひたすら練習あるのみ。そう、十一月まで音楽に集中! と思っていたんだけど。
「はいみんな静かにしろよー。今日のホームルームは、体育祭の出場種目を決めるからなー。ひとりひとつは絶対だぞ」
担任の先生の言葉に、オレは口をあんぐりと開けた。そうだった、文化祭の前に体育祭もあったんだった。
「体育祭のことマジで忘れてた……」
「天地は運動苦手なんだっけ?」
「苦手、ってわけじゃないけど……あんまり好きじゃないというか」
「へえ」
「明星は? 体育の授業は普通にこなしてるよな」
「まあな。割と好きなほうかも」
「へえ、ちょっと意外」
体を動かすこと自体は好きなほうだ。だからこそ、中学では陸上部に入ったのだし。でもやっぱり、今となっては運動そのものがトラウマに紐づいていて。避けられるものなら避けたいのが正直なところだ。
ここは無難に、玉入れとか綱引きとか、走る必要のないものにしよう。
――そう目論んだのに。
「なあなあ明星、一緒に玉入れか綱引きやんない?」
「あー……ひとつ出ればいいやって思ってたんだけど、天地がそう言うなら」
「あ、明星もしかして、もうなにやるか決めてた?」
「決めてたっつうか、今決まった」
「え?」
ほら、と明星が黒板を指差した。体育祭の実行委員の伊藤――賑やかな伊藤にぴったりだと思う――と女子がひとりそこに立っていて、競技と名前を書きこんでいる。オレがひとり考えこんでいた間に、話は進んでいたらしい。明星の名前が、クラス対抗リレーの欄にあった。
「えっ! 明星リレーに出んの!?」
クラス対抗リレーは、体育祭の中でも特に盛り上がる競技だ。みんな自分のクラスが勝つところを見たくて、応援にも熱が入る。
「立候補したのか?」
「いや俺は……伊藤の推薦で」
「は? 伊藤?」
「そーう、俺ー!」
どうやらオレたちの会話が聞こえていたらしい。地獄耳か? 黒板の前で、伊藤がピースをしてみせる。
「実行委員になったからには、自分のクラスが勝ちたいじゃん? 他のヤツらの運動神経は大体知ってるけど、明星のは知らなかったから聞いてみたんよ。そしたらさ、前の学校の体育祭でアンカーやったんだって! しかも、優勝」
そう言った伊藤は、まるで自分の功績かのように胸を反らしてみせた。
「マジか。すげーじゃん」
「別に、特別速いわけじゃねえんだけどな……」
驚きつつもクラス全体に目を向けると、明星くんってすごいんだねとか、優勝できちゃうかも、なんて声が聞こえてくる。ああ、明星はもうこのクラスで怖がられていないんだ。
明星への誤解を解くために「不良じゃないよ!」と言葉にするのは簡単だけれど。実際につるんでいるところを見てもらうのがいいと思っていた。オレだけじゃなく、伊藤と宮田も明星と交流するようになったから、その空気がみんなに広がったのだろう。それが自分のことみたいに嬉しい。
「明星、すっかりこのクラスの一員だな。もちろん最初からそうなんだけど、なんつうか、すげー馴染んでるよ」
「もし本当にそうなんだったら、それは天地のおかげだな」
「そんなことねえよ」
「それ以外ねえだろ」
オレのおかげ、だなんて自惚れているわけじゃないけれど。明星にそう言ってもらえるのは、胸の奥がくすぐったい心地がする。肩をぶつけて、お返しに明星からもぶつけられて。じゃれ合うようにしていると、
「ちょっとそこのおふたりさーん。まだリレーの話は終わってませーん!」
と伊藤が声を張り上げた。どこのおふたりさんだよ、ときょろきょろしたら、みんなの視線はオレと明星に注がれていた。
「あ、オレたち?」
「そう、特に詠太なー。なあ詠太、詠太もリレーに出てほしいと思ってるんだけど、どう?」
「……え? な、なんでオレが……」
「詠太、中学で陸上部だったって言ってなかったっけ」
「あー……」
「もしかして長距離だった?」
「短距離だった、けど……」
そう言えば、高校に入学して伊藤と宮田と仲良くなりはじめた頃に、そんな話をしたんだっけ。高校では遊びたいから部活には入らない、なんて言って、その話題はそれっきりだった。それに安堵して今までを過ごしてきたのに。よりにもよって、リレーへの参加を頼まれるなんて。
「あとひとりなんだけどさ、絶対勝ちたい! な、どうかな」
「…………」
この高校生活、色々なことをのらりくらりとかわして過ごしてきた。勉強もスポーツテストも、本気で励むことはなくなっていた。でも今は、そんなオレから少しは変われたと思う。明星に出逢ったから。
でも、やっぱり陸上は怖い。しかもリレーだなんて。上手く渡せず地面に落ちていったバトンのあの光景が、スローモーションでフラッシュバックする。呼吸が浅くなってくる。
「あー、伊藤ごめん。オレは……」
できるわけがない。オレが、クラスの代表としてなんて走っていいわけがない。引き受けないほうがオレのためにも、みんなのためにもなる。そう考えて、断ろうとしたのだけれど。ふと隣の明星を見て、言葉が途切れてしまった。
「天地? どうした?」
「…………」
リレーへの恐怖は変わらず胸にわだかまっている。明星の隣で夢を見られるようになっても、だからといってトラウマそのものを克服したいなんて、考えたこともなかった。でも、だけれど。やってみたい。今、そう考える自分に気づいてしまった。明星となら、リレーだってやってみたい、って。
「……明星、オレ、やれるかな。オレなんかが、やってみてもいいのかな」
「……ふ」
言ってから気がついた。今のオレの言い方、夏休み前にギターを本気でやるか悩んでいた時みたいだ。明星が背中を押してくれた、あの時の。どうやら明星も、それに気づいたらしい。
「天地、お前が自分でできないなら、俺が言ってやる。やれるよ、やりたいって天地が思ってるなら。俺、天地と走ってみたい」
明星もあの時の言葉をなぞってくれた。 ああ、やっぱり明星がオレにくれる力は、いつもとてつもなくデカい。静かにこくんと頷いて、顔を上げる。
「伊藤。オレ出るよ、リレー」
「あっ、マジ!?」
「うん。伊藤が期待しているような結果、オレに出せるかは分かんないけど」
「やったー! ありがとう詠太! これで俺の考える最強のリレーチーム、完成!」
明星に背中を押してもらった勢いで、オレは伊藤に宣言した。すると教室中から拍手がわき起こった。ものすごいプレッシャーだ。だけど。乗り越えられる気がするんだ。明星がいるから。
それからの二週間、昼休みにリレーの練習が入るようになった。リレーチームの監督を名乗る伊藤の招集に、チームのメンバー全員が協力しているかたちだ。
リレーは八人のチーム。各クラス、男女それぞれ四人ずつ選出するようにとの決まりだ。女子は全員運動部に入っていて、男子もオレと明星以外のふたりは運動部。足を引っ張らないかめちゃめちゃ不安だけど、伊藤監督は自信満々だ。
走る順番を決める時、オレは伊藤にひとつだけお願いをした。明星はアンカーに決まっていたから、そのひとり前に立候補させてもらった。明星にバトンを託したい。そう思ったからだ。
全員が昼食を終えてからの練習だから、そんなに時間はない。それでもバトンを渡す練習をひたすらくり返した。
「もう明日が本番かあ。詠太、なんか気合入ってたな」
「んー? だなあ。どうしても、な」
「なんか知らんけど、めっちゃ心強いよ。引き受けてくれてありがとな」
「こちらこそ、誘ってくれてありがとう。伊藤監督。オレ、変われるようにがんばるよ」
「うん、マジでよく分からんけど。監督は信じてるからな!」
「はは、おう」
放課後。明星とふたりで学校を出る。二学期になってからは伊藤と宮田、明星とオレの四人で帰る日が増えたけれど。体育祭の実行委員は明日の準備で忙しいらしく、宮田も伊藤に駆り出されていった。明星とオレは、明日のために体を休めろとの伊藤の命令だ。さすが監督、チームメンバーの体調管理にも目を配っているらしい。伊藤のその采配は、オレにとって好都合だった。
「なあ、明星。オレさ、お前に聞いてほしい話があって」
「なに?」
「ちょっとそこの公園寄ってこ。あ、自販機あんじゃん。ジュースおごる。なにがいい?」
「別にいいよ」
「いいから」
「じゃあ……緑茶」
「緑茶ね。じゃあオレも」
学校近くの公園は、小さな子どもも遊んではいなかった。九月と言ったって、まだまだ暑い日が続いているからだろうか。ベンチもあるけれど、ブランコにふたり並んで腰を下ろす。ただのペットボトルの緑茶なのに、いただきますと言ってから明星は蓋を開けた。明星のそういうところ、好きなんだよな。見習ってオレもいただきますをしてから、お茶をふた口飲んだ。
「……オレさ、陸上部だったんだ。中学生の時」
「こないだ伊藤が言ってたな」
「うん。それなんだけどさー……オレ、中三の最後の試合でやらかしたんだよ」
「やらかした?」
「リレーのメンバーに選ばれてたんだけどな。バトンを渡すのに失敗して、負けた。みんな必死で練習してたし、その日もオレに回ってくるまでは一位だったのに。オレの失敗のせいで、あっという間に抜かされた。オレのせいで、みんなの中学最後の試合が終わった。それがさ、オレにとってはすげー苦い思い出で、トラウマになって……それで、なんでも適当でいいやって思うようになった。真面目にやったところでまた、とも思うし、オレが真剣にやる資格ない、とも思ったりして」
「…………」
なにも言わない明星には、オレはどう見えているだろう。一緒に過ごしてきた思い出が明星は見放したりしないと感じさせてくれるのに、今まで生きてきたオレがそんな自信を奪ってしまう。
「でも、明星と過ごすようになって……明星がいたからギターをマジでできるようになって、すげー楽しくて。だから、もう一回走ってみたいって思えた。明星となら、できるんじゃないかって」
「そっか。そうだったんだな」
「……うん。明星なら、オレの下手くそなバトンもきっと受け取ってくれるんじゃないかなって。でも……はは、やっぱすげー怖い」
夕方だけどまだまだ明るい空を仰いで、ブランコを後ろに引いてぐんと力を入れた。ひと漕ぎ、ふた漕ぎ。力を抜けばブランコはすぐにスピードを落とす。するとブランコに乗ったまま、明星がこちらにコツンとぶつかってきた。座面同士が当たって、なかなかの衝撃だ。
「わっ、明星?」
「絶対受け取るよ。約束する。練習もいっぱいしたしな」
「明星……はは、心強いな。でも、オレが明星に渡す前に、落っことすかもしれない。……あの時みたいに」
「それでも別にいい」
「え? いやそれはダメだろ」
「だって、ちゃんと待ってるし。天地がバトン渡してくれるの。それで、何位だって俺がゴールすればいいだけ」
「…………」
「まあ、やるからにはたしかに勝てたら嬉しいけど。お前となら、って俺だって思ってんだよ」
「へ……」
立ち上がった明星が、オレの頬にペットボトルを押し当てた。
「わっ、冷たっ!」
オレが思わず肩を跳ね上げると、明星がくすくす笑いながら腰をかがめた。顔がぐっと近くなって、視線が交わる。
「音楽と小説、って違うことやってるけどさ。俺は天地と一緒に、ふたりだから見れる夢を生きてるって思ってる。でも、リレーっていうひとつの競技を繋ぐのも、やっぱいいなって。それだけで俺は結構、もう十分」
「っ、明星〜……」
明星と一緒にいるようになってから、オレはずいぶんと泣き虫になってしまった気がする。隠しきれなくて鼻をすすれば、明星がいつかみたいにシャツで拭ってくれる。
「ハンカチはー?」
「だからねえよ。天地もだろ」
「はは、そーう」
拭いてもらって視界が開けたら、明星と目が合ってお互いに吹き出してしまった。
「明星ってさ、みんなの前ではオレと別に仲良くないとか言うけどさ。めっちゃ嬉しい言葉言ってくれるよな。結構オレのこと好きっしょ」
「は? それ、自分で言ってて恥ずかしくねえの……」
「えー? まあちょっとは恥ずかしいかも」
「だよな。まあでも……天地には隠したって仕方ないくらい、もう曝け出してるし。嫌いだったらこんな一緒にいねえよ」
「そこは好きって言えばいいじゃん」
「ふ、言うかばーか」
明星の手を握って、引っ張り上げてもらう。勝ち気に笑う明星が今度は拳を差し出してくれて、グータッチをする。
「明日、頑張るよ」
「ん。天地のバトン、信じて待ってる」
他の誰でもない明星が、オレを信じて待ってくれている。それだけで、オレも自分を信じてあげられそうだ。うん、明日はきっと大丈夫。トラウマに直接触れるようなものなのに、そう思えること自体がオレにとっては奇跡だ。
クラス対抗リレーは体育祭の目玉で、いちばん最後の種目にプログラムされている。まずは各学年で競い合い、それぞれのトップ二クラス計六クラスで決勝戦が行われる。
昨日あんなに明星から勇気をもらったのに、オレは朝から緊張しっぱなしだ。目の前でクラスメイトたちが競技に励んでいても、リレーのことばかり考えてしまう。昼休憩時には弁当を食べる気も起きなくて、伊藤監督様から「それじゃあ力が出なくて走れないぞ!」とお叱りを受けてしまった。ごもっともという他なく、でもどうしても食欲はなくて。みかねた明星が、弁当から梅干しを分けてくれた。明星のおばあちゃんが漬けた、あのめっちゃ酸っぱい梅干しだ。口に含むと顔がぎゅっとなるほどで、そのおかげで食欲はちょっと回復してくれた。うちの母手製のたまごやきと、おにぎりを半分。それがオレの午後のエネルギーだ。
「はあ、緊張する……」
午後の競技も着々と済んで、いよいよリレーの走者は入場の準備をするようにとアナウンスが入ってしまった。多くの人に抜かされながら、明星と一緒に集合場所へ向かう。到着する目前で、明星がオレの顔を覗きこんできた。
「平気か?」
「全然平気じゃない」
「そうみたいだな。でもやるんだろ?」
「……うん、やる。さすが明星、分かってんじゃん」
「まあな」
そう、明星の言う通りだ。どれだけ緊張しても、ろくに食べものが喉を通らなくても。逃げたいわけじゃない。のらりくらりとやり過ごすのは、もう今日で終わりにするんだ。明星と目を合わせ、大きく頷く。
「頑張るよ。そんで、今日の夜は明星んちでいっぱいギター弾く」
「うん。オレは天地のギター聴きながら、小説書くよ」
「ん、めっちゃ楽しみ」
「じゃあ、俺はあっちみたいだから」
「明星も頑張ってな!」
「おう」
手を振りあって、オレも第七走者の列に並ぶ。係の人に誘導されるままグラウンドに入り、オレはそこで初めてとある人物に気がついた。
「あ……」
思わず声を漏らすと、相手も気づいたようだ。
「天地……」
とオレを見て、驚いた顔をしている。室井だ。中学の陸上部で一緒で、現役陸上部。以前から囁かれていた通り、三年生の引退を期に部長になったことは風の噂で聞いている。
「びっくりした。天地、リレー出るんだ」
「……うん。絶対無理だって思ってたんだけどな」
「……やっぱり、まだ忘れられない? 中学でのこと」
「まあな。ずっと忘れられない、っていうか、忘れちゃダメだって思ってる」
「天地……」
ふたりで話していると、二年生のスタートを知らせるピストルの音が鳴った。それと同時に各クラスのテントから声援が上がり、体育祭は最高潮のボルテージを迎える。
「なあ、室井」
「……ん?」
自分のクラスの走者を見つめている室井に、今度はオレから話しかける。今、トップのクラスのバトンが第二走者に渡ったところだ。
「今まで何回も声かけてくれて、ありがとうな。うんって言えなかったけど、室井がまた走ろうって言ってくれることで、救われてた部分あったなって……思ってる」
「そんなこと……俺は本当に、天地と走りたかっただけだよ」
「ん、さんきゅ」
「なにかあったんだ? またこうやって、走ろうと思えるような」
「そうだな」
あっという間にオレたちのふたり前、第五走者のトップがスタートした。オレのクラスはなんと二位で、その後に室井のクラスが続いている。それを見て、室井が軽いストレッチをはじめた。
「なあ天地。天地をグラウンドに戻したの、俺じゃなかったのは結構悔しいけど……同じチームじゃなくて、ライバルとして走るっていうのもいいね。燃える」
室井の目を見ると、本当に炎が灯っているかのように闘志が揺らいでいた。
「えー、現役選手としてちょっと手加減とかないの?」
「あるわけないだろ。相手は天地だし。本気出せよ、お前も」
「はは、言われなくても」
中学でのあの件があってから、室井はずっとオレの心の中を窺うような、気遣う様子を見せていた。でも今は、一緒に走っていた頃みたいだ。負けん気が強くて、走ることになると容赦がない。
「第七走者の皆さん、スタンバイお願いします!」
トラックに出ると、間もなくトップのクラスのバトンが渡った。順位に変動はないままだ。次はオレたちのクラス。現三位の室井のクラスとは、なかなかの差が開いている。
「じゃあな、室井。オレもまた、お前と走れる日がきてよかった」
第六走者のクラスメイトに手を挙げて、少しずつ走りはじめる。前を向いた瞬間、後ろに出した手にバトンが乗った。その瞬間、全速力で走り出す。ああ、オレ、本当に走ってる。やっぱり好きだなあ。でもすぐに、恐怖心が返ってくる。バトンを渡さなきゃ。落とさないように。しっかりと。できるかな、オレに。
飲みこまれそうになる。でもその時、
「天地ー!」
とオレを呼ぶ声が聞こえた。明星だ。トラックは最後のカーブに差しかかっていて、その先で明星が手を挙げている。そうだ、オレは“今”を走っている。あの頃をやり直すことも、記憶を消すこともできないけれど。今を積み重ねて、誰かと分かち合うことはできる。
どんどん明星に近づいて、バトンを前に差し出す。落ちるな、届け、明星に――祈りながら、必死になりながら。差し出したバトンは、明星の手にしっかりと渡った。それをちゃんと認識できたのは、明星がゴールした瞬間だった。へなへなと力が抜けて、その場に座りこむ。ああ、できた。できたんだ。今すぐ明星の元に走っていきたいけれど――視界が涙で滲んで、それはすぐには叶わなかった。
「あー、つっかれたー! おじいちゃんおばあちゃん、こんばんは!」
「ただいま」
「響くん、おかえり。詠太くんもいらっしゃい。今日はお疲れ様」
体育祭が終わった後、今日は伊藤と宮田、明星とオレでファミレスに寄ってきた。体育祭の打ち上げだ。金曜日だから、そのまま明星の家へとやってきた。ファミレスに行く道中でこっそり聞いたら、明星の父親からの連絡は今日もないとのことだった。もうさすがに諦めてくれたのかもと、明星がほほ笑んだのが印象的だった。
おじいちゃんとおばあちゃんに挨拶をしたら、明星の部屋へ。もはやルーティンとも言える流れができていて、図々しいかもと思いつつこの生活がオレにすっかり馴染んでいる。
「あーあ、リレーマジで悔しかったなあ」
「天地ずっと言ってるな」
「だーって、せっかくだから勝ちたかったじゃん」
バトンを渡すのに必死で、オレはその直前に室井に抜かされていたことに気づかなかった。室井のクラスはアンカーも陸上部だったらしく、そのままトップだったクラスも抜いて見事二年生の一位になった。オレたちは三位。ちなみに、そのあとの各学年上位二クラス同士での決勝戦で、室井たちのクラスは三年生を抑えて優勝していた。そう思えば、最強クラス相手に十分健闘したと思う。伊藤監督も最終的には満足そうだったから、なによりだ。
「だな。でも天地のバトンもしっかり受け取れたし。俺はよかったよ」
「あ……うん。オレも。マジで明星に渡せてよかった」
ゴールした後は結局、オレが明星の元へ向かう前に明星のほうから走り寄ってきてくれた。座りこんでいたのを引っ張り上げてくれて、グータッチをかわして。バトン受け取りやすかった、だなんて褒めてくれちゃうもんだから、勝ちたかったと口では言いながらオレはずっと最高の気分だった。
「なんか、今日が終わるのもったいない感じする」
定位置に座って、ベッドに頭を預け伸びをしながらそう言うと。
「分かるかも」
と明星が同意しながら隣に腰を下ろした。
「でも眠い」
「ふ、それも分かる」
「でも、ギターやる。それでこそ今日がもっと最高になる」
「それはそう」
風呂に入らせてもらったら、少し仮眠をとるのもいいかもしれない。そしたらまた、明星と夢の道を行く。トラウマの記憶が明星との今日でひとつ更新されたから、またなにか新しいアイディアが浮かぶかもしれない。



