夏休みも残すところ、一週間になってしまった。金曜日の十五時。今日も今日とて明星(みよせ)の部屋で、明星と共に小説に音楽にと励んでいる。今は朝コンビニに寄って買ってきたアイスを、休憩がてら明星と食べたところだ。

「あーあ、夏休みもうすぐ終わりかあ……」
「そうだな」
「やだ、すげーやだ」
天地(あまち)は宿題も終わってないしな」
「うわーやめろお……」

 オレといる間はずっとパソコンとにらめっこしているのに、明星はいつの間にか宿題を終わらせてしまっていた。なにが不良だ、アイツは真面目だぞと二学期が始まったらみんなに教えてやりたい。

「なあ、小説はどんな感じ?」

 宿題の話を終わらせたくて、そうじゃなくても明星の進捗が気になって。食べ終えたアイスのゴミを捨てながらオレは尋ねた。

「そうだな……ストーリー的には、折り返し地点を過ぎたとこかな」
「えっ、すげーじゃん」
「おかげさまで」
「はは、オレのインタビュー役に立ってる?」
「うん、かなり」
「オレ様様じゃん」
「自分で言うなよ、って言いたいところだけど。本当にそうだからな」

 明星のボキャブラリーを頼るオレと、オレにインタビューをして自分とは違う視点を取り入れているらしい明星。そのやり取りは今も続いていて、支え合っているという感覚がずっとある。もちろんそうじゃなくたって、オレにしてみれば明星の存在自体がオレの情熱を支えているけれど。

「それで? 天地のほうはどんな感じなんだ?」
「オレ? オレはー……歌詞はほぼほぼ完成かな」
「へえ。よかったな。ずっとノートにかじりついてたもんな」
「まあな」

 二冊目のノートももう数ページで終わりそうなくらい、オレの想いを書き殴った。書きまくって、それからは削りまくって。どうにか一曲のかたちに整えることができた。とは言えギリギリまで、微調整していけたらと考えている。

「メロディもさ、まだおぼろげにだけど浮かんできてる」
「どんな感じか聞いていい? ロック? バラード?」
「んー、ミディアムテンポかな。たださ、ちょっと悩ましいことがあって……」
「どうした?」
「オレはギターしか弾けないけどさ。ピアノの音が欲しくてさー……」
「ピアノ……」

 ギター一本での弾き語りを想定していたけれど。そこに鍵盤の音があったら、理想に近づける気がしている。

「でもなー、オレ弾けないし……ピアノの音が欲しいつったって漠然としてるし、そもそもピアノでどんな伴奏つけるかとか考えらんないし。だから、ただの理想って感じだな」
「…………」

 そう、ただの理想で、こうだったらよかったなあと空想にとどめておくしかないものだった。でもこうして明星に聞いてもらえたことで、このアイディアは供養できた気がする。スッキリしたなあと体でも感じようと、オレはグッと伸びをしてそのまま頭を明星のベッドに預けた。うん、ギター一本で頑張ろう。

 本当に、そう思ったんだけど――

「諦めんのか?」

 と明星がつぶやいた。オレはゆっくりと頭をもたげる。

「それは……だって、しょうがないし」
「でも……」
「明星?」

 なぜだろう。オレより明星のほうが、悔しそうだ。くちびるを苦々しく噛みしめている。

「……それなら、俺が」
「ん?」
「……ああ、いや。あー……なあ、俺のじいちゃん、昔ピアノやってたみたいだから相談してみれば?」
「へ……あっ!」

 たしかに、初めてこの家に来た時に言われたのを覚えている。おじいちゃんも昔、ピアノやギターを弾いていたのだと。なるほど、明星はそうアドバイスをしようと考えてくれていたのか。

「いいのかな!?」
「試しに聞いてみるくらいいいだろ」
「……っ、オレちょっと行ってくる!」

 居ても立ってもいられなくなって、オレは階段を駆け下りた。人様の家なのだから静かに、と理性は叫んでいるけれど、一秒でも早くと気が焦る。

「おじいちゃん!」
「ん? どうしたのかな」
「あ、あの! オレ、おじいちゃんに折り入って? 相談がありまして!」

 言ったこともないし、使い方があっているのかも定かじゃないけれど。お願いしたいことの図々しさを考えると、難しい言葉がオレの口から飛び出した。緊張でグッと息を飲む。 

「なんだろう。私に答えられることだといいんだけど」

 おじいちゃんはそう言って、にこやかにほほ笑んでくれた。まあまあ座って、とおばあちゃんが座布団を用意してくれる。そこに正座して、おじいちゃんと向かい合う。

「はい。あの、実はオレ……今オリジナル曲を作ってて。ピアノの音がほしいなって思ったんですけど、オレ、ギターしかできなくて……」

 膝の上でぎゅっと拳を握りこむ。断られたらどうしよう。いや、そんなこと考えたって仕方がない。今はただ、真剣な想いを伝えるだけだ。

「おじいちゃん、オレの曲に、ピアノの伴奏をつけてもらえませんか。あの……お願いします!」

 叫ぶようにそう言って、頭を下げる。するとオレのつむじに、おじいちゃんの朗らかな笑い声がぶつかった。

詠太(えいた)くん、顔上げて。詠太くんは本当に、真剣に音楽をやっているんだね」
「……はい」
「私もそうだったんだよ。だからというわけじゃないが、喜んで協力しよう」
「本当ですか!?」
「ああ。でも、本当に私でいいのかい?」
「おじいちゃんしかいないんです」

 よかった、おじいちゃんが快く引き受けてくれた。ほっと胸を撫で下ろし、オレは強く頷いた。けれど、オレはすぐに、首をかしげることになった。

「ちなみにだが、(ひびき)はなんて言ってる?」
「え? 明星ですか? えっと、明星がおじいちゃんに聞いてみたらって言ってくれました」
「そうかい、響が……」

 どうして明星の名前がこの流れで出てきたのだろう。不思議に思ったのもつかの間、

「じいさん」

 とおばあちゃんがおじいちゃんの話を遮った。諌めるような、ちょっとキリッとした声。おばあちゃんのそんな声、初めて聞いた。

「ああ……ん、そうだな。すまない。詠太くん、今の話は忘れてくれ」
「……はい」

 忘れるもなにも、オレはなにも分かってはいない。それでもオレは、ただただ頷いた。分からないからと言って、尋ねられる話ではなさそうだったから。

「えーっと。お願いしに来たくせにアレなんですけど、曲はまだ全然できてないんです。完成したら、すぐに持ってきます」
「楽しみにしてるよ。久しぶりに腕が鳴るね」
「よろしくお願いします!」

 おじいちゃんと、それからおばあちゃんとも固い握手をして、もう一度感謝を伝えてからオレは明星の部屋に戻った。

「どうだった?」
「オーケーしてもらえた!」
「そうか。よかったな」
「うん! 明星のおかげで、ピアノを諦めないでよくなった。マジでありがとうな」

 まだあったかいままの手で、明星の両手もぎゅっと握る。今回の件もやっぱり、明星がいないと解決しなかった。

「ふ、大げさ。俺は全然、なにも。……本当に」

 けれど明星は妙に神妙な顔で、どこか申し訳なさそうにも見える表情でそう言った。

「……明星?」
「ん?」

 なあ明星、なんでそんな顔すんの? さっきおじいちゃんが明星のことを気にしていたけれど、もしかしてそれと関係ある?

 なんて不躾なこと、聞けるはずもなく。

「いあ、なんでもない。よし、じゃあ続きやるかあ!」
「だな」

 オレはギターを手に取って、明星はパソコンに向かう。できることはただただ、前に進むだけだ。

 あれからオレは、ギターに没頭してしまった。最近は歌詞に全力を注いでいたから、久々の感覚だ。大好きな音で満ちた体を、両手を組んでぐっと天井へ伸ばす。気持ちいい。この調子でもっと、といきたいところだけど、今日は金曜日だ。時計はもうすぐ十八時になることを示している。

「そろそろ帰るかあ」
「……あ、もうそんな時間か」

 明星も小説の世界に没頭していたようで、ハッとしたように顔を上げた。伸びをする姿が数秒前のオレみたいで、くすっと笑いながら帰る支度をする。

 この家にいつでも来て好きなだけギターを弾いていい、遅くなって泊まっても構わない。でも、金曜だけは夕方には帰ること。それをオレは毎週きちんと守ってきた。泊まったことは結局一度もないままだけど。

「じゃあ、バイト頑張ってな」
「ん……なあ、明日も来るんだよな」
「もちろん」
「うん、待ってる」
「え、どうした急に。そんなん言うの珍しくない?」

 もはや毎日ここへ来るのは当たり前になっていて、来るかどうか確認されることもなかったのに。待ってる、だなんて言われてなんだかむずがゆい。

「いや、別に……なあ、明日は宿題も持ってこいよ」
「え……マジ?」
「ひとりでやるよりはいいだろ? てか、ひとりではやらなそう」
「それはそう……分かった、持ってくる。頼りにしてます、明星先生」
「はは、バーカ」

 変な明星、と思ったけど、すぐにいつもの調子に戻った。オレの宿題の経過を心配しすぎたのかもしれない。明日はさすがにちゃんとやるか、と渋々決心して、明星の部屋を出る。

「じゃあな」
「おう」

 窓から入る夕陽が邪魔して、明星の顔は見えなかった。


「詠太! こっちこっちー!」
「おー。久しぶりだな」
「それはこっちのセリフ」

 明星の家を出て、オレはそのまま横浜へと向かった。

 昨夜、伊藤(いとう)宮田(みやた)から遊ぼうと連絡があった。夏休み中は、まだ一回しかふたりとは会えていなかった。昨日も反射的に「ごめん」と返信しかけたけど、いや明日は金曜じゃん、それなら……と約束したというわけだ。

「お前、俺らのことほっときすぎ! そんなにダチより彼女のほうがいいのかよお!」
「だーから、彼女なんかいないって」
「本当かあ?」
「宮田、助けて。伊藤が信じてくれない」
「いや、俺も疑ってるし」
「そんなあ……」

 今のオレにとって、ギターに触れてる時間はなににも代えられないけれど。伊藤と宮田と一緒にいるのも、やっぱり楽しい。思わずはしゃいで、普段はしないような泣き真似までしてしまった。そんな自分に笑っていると、

「あれ? 詠太。それなに?」

 と宮田がオレの背中を指さした。

「ああ、これ? ギター。実は、最近はずっとこればっかやってる」
「え、マジ? 詠太ギターなんて弾けんの!?」
「まあな」
「へえ、すげえじゃん。もしかして、忙しそうにしてたのも彼女じゃなくてギター?」
「そういうこと」
「彼女じゃないのかよ!」
「だから言ったじゃん」
「なーんだ。詠太にいち抜けされたと思って、マジで焦ったんだからな!? でも、ギターかあ。かっけーな。今は違っても、結局モテ確定じゃね?」
「ギター弾いただけでモテたら苦労しないだろ」
「えー、でもかっこいいじゃん! 俺聴きたい!」

 ギターの話をふたりにするのは、正直避けていたところがある。なんでも適当にかわしてきたオレが夢中になっていることを、どう思われるのか不安だったからだ。とは言え、人のことをバカにするようなふたりじゃないことだって分かっていた。オレの自信のなさの現れだったのだと思う。明星と過ごす夏じゃなかったら、未だに言えないでいたのかもしれない。

「まだ練習中だから、そのうちな。文化祭でやろうと思ってるから、見てやってよ」
「へー。本気なんだな」
「かっけーぞ、詠太!」
「はは、さんきゅ」

 今日は一緒に夕飯を食べる予定で集まった。無難にファミレスにしようということになっていて、移動しながらも話は途切れない。

「練習ってどこでやってんの? 今も持ってるってことは、家じゃないんだろ? カラオケとか?」

 さすが宮田だ、察しがいい。この三人の中ではいちばん頭がいいだけある。

「あー、うん。実はさ、明星の家で練習させてもらってる」
「明星? ……って、あの明星!?」
「うん、あの明星」

 驚かせるだろうなあと思いつつ、オレは正直に話すことにした。これこそ、隠すようなことじゃないと思うからだ。

「詠太、一学期から話しかけてたもんな。気が合うんだ?」
「うん。みんな怖いって言うし、オレも最初はそうだったけど……いいヤツだよ。不良なんかじゃないと思う」
「へえ」
「マジかー。二学期始まったら俺も話しかけてみよっかな!」
「伊藤はうるさいからな、どうだろうな」
「たしかに」
「ええ!? 詠太も宮田もヒドすぎん!?」

 三人でふざけながらファミレスに入店して、思い思いのメニューを注文する。オレはミートソースのパスタとフライドポテト、それからドリンクバーにした。

 伊藤と宮田の夏休みの思い出話は、食事中一瞬だって途切れることはなかった。ずいぶん日に焼けてるなと思っていたら、海にも行ったらしい。女子たちと行ったのにそれでも彼女はできなかったと伊藤が嘆けば、まあうるさいからなと先ほどの会話を宮田がわざと蒸し返した。それを受けて泣き真似でおどける伊藤と、ちょうど飲みものを口に含んだところで慌てて飲みこんだオレ。危うく吹き出してしまうところだった。

「あー、腹いっぱい。久しぶりにふたりと喋ってめっちゃ楽しかった。大満足」

 入店してから二時間ほど過ごしただろうか。腹も心も満たされて、夜の街へと出る。もうすぐ二十一時だけれど、まだまだ人は多い。

「俺もー! 最高の夜!」
「俺も。夏休み中はもう難しいかもだけど、また遊ぼうな」
「うん」
「詠太〜約束だぞ?」
「おう」

 ファミレスから駅までの道を、やっぱり三人で話しながら歩く。伊藤と宮田とは、ここからだと別の電車だ。ついつい名残惜しくて、歩みを遅くしてしまう。二学期に入って遊ぶ時は、その日くらいギターを忘れてもいいのかもしれない。そんなことを考えていた時、ふと視界を横切った影が気になった。

「……明星?」

 誰かとふたりで、明星らしき背格好の人物が角を曲がって消えていく。

「あれ? おーい、詠太どうしたー?」

 立ち止まってしまったオレに、少し先で気づいたらしいふたりがこちらを振り向く。伊藤と宮田との貴重な時間だけど、そうなんだけど……もしもあれが明星だったら、となんだか嫌な予感がする。危ない目に遭ったりしないだろうか。例えば、ケンカなんかして。もしそうだったら、そんなことはもうしてほしくない。

「っ、ごめん! オレちょっと行くとこあるから!」
「は!? ちょっ! 詠太!?」
「悪い! また学校でな!」

 気が気じゃなくなってしまって、ふたりへのさよならを叫ぶようにしてオレは走り出した。明星らしき人物が曲がった角には、もうそれらしいふたり組はいなかった。細い十字路に出てしまい、この先は勘を当てにするしかない。そうだ、電話。ポケットからスマホを取り出して、明星へとコールする。頼む、なんてことない声で「どうした?」って出てくれ。そうしたらオレはひとり勝手にほっとして、他愛ない話をするから。

 けれど四コール、五コールと続いても明星は出ない。そうだ、まだバイト中かもしれない。自分にそう言い聞かせながら、

「くそっ」

 と悪態をついてオレは左の道へと走り出した。完全な当てずっぽう。この道の先になにがあるのかすら知らない。

 ほんのちょっと走っただけでも、蒸すような夜の空気がまとわりつく。息を切らしながら、あちこちを見渡して走る。背負ってるギターが揺れてしまって、走りづらい。それでもと進んでいると、どこからかスマホの着信音が聞こえてきた。明星かもしれない。

「どこだ? こっちか?」

 音に誘われながら進むと、今にも切れそうな外灯の下にふたりの人影があった。ひとりはスーツを着た大人の男、もうひとりは――ああ、やっぱり明星だ。男が明星の胸ぐらをつかみ、なにか喚く。明星は微動だにせず、ただ男を見上げている。

 足が震える。見つけることはできたけど、すげー怖い。でも……ほうっておくかよ。絶対に。

「っ、明星!」

 叫びながら地面を蹴って、明星にしがみつくようにしてふたりの間に割って入る。とにかく明星を守りたくて、無我夢中だった。だから一瞬分からなかった、男が拳を振り上げたことなんて。

「天地!?」
「いっ、てぇー……」

 なにが起きたのか分からない。ギターに衝撃があったことだけはかろうじて覚えている。男の拳がギターに当たったのかも。それにしても、なんでオレは地面に転がってるんだろう。体があちこち痛い。

「天地! おい! お前っ、なんで……っ」

 状況をよくよく確認すると、オレは明星にしがみつきながらふたりで転んでしまったみたいだ。痛いところは多分、強く打ちつけてしまったり、擦りむいたりしてるんだろう。でも、とそこで気づく。一緒に転んだってことは、明星もケガしてるんじゃないのか?

「明星! お前、ケガは?」
「……っ、俺はいいんだよ。お前のおかげで、平気」
「はは、よかったー」

 顔をくしゃりと歪ませて、明星は無傷だと教えてくれた。ほっとしていると、

「おい響、誰だそいつは」

 との声が背後から聞こえてきた。そうだった、変な男がいたんだった。

 せっかくケガせずにすんだ明星に、また手を出させてたまるか。振り返りながら横たわっていた体を起こして、アスファルトに座る。明星と男の間で、明星をかばうように両手を広げる。瞬時に立ち上がることはちょっとできなかったから、格好はつかないのが残念だ。

「お前こそ誰だよ」

 怖くないわけじゃない、もちろん、全然。でも、明星を傷つけられることのほうがもっともっと怖いから。オレはできる限りの力を眉間にこめて、男を睨み上げた。

「……俺の、父親」

 でも、答えは背後の明星から聞こえてきた。

 明星の、父親?

 オレは弾かれるように明星を振り返り、そしてまた男を見上げた。男は苦々しげな顔をして、

「……響、また連絡する」

 とだけ言って踵を返した。

「あっ! おい! 待てよ!」

 明星の父親だと言われても、オレの口は汚い言葉で男を引き止めようとした。でも聞き入れてもらえるわけもなく、男は去ってしまった。

 それを見送るしかできなくて。呆然とした後、体からがくりと力が抜けた。そんなオレを明星が支えてくれたけど、ほとんど寄りかかるかたちになってしまう。

「天地……痛いよな、ごめんな」
「あー……そりゃ痛いけど。明星が謝るのはおかしいだろ」
「そんなことねぇよ。俺の父親のせいだから」

 たしかに体中が痛い。折れたりはしていないだろうけれど、アザは免れなさそうだし、すり傷って地味に痛いんだよな。ジンジンするところは全部、血が出てんのかも。でも、今はそれどころじゃない。明星の顔が見たくて体をねじると、明星が支えながら手伝ってくれた。

「……明星」
「…………」

 アスファルトにふたりして座りこんで、向かい合っている。もしも誰か通りかかったら、おかしいヤツらがいるって通報されてしまうかもしれない。

「明星は本当にどこもケガしてねぇ?」
「……うん、してない」
「あー、よかったー……」

 安堵の声をこぼしながら上を向くと、そこにはうっすらと星空が広がっていた。へえ、この街でも星って見えるもんなんだ。なんだかちょっと、青っぽくて綺麗だ。こんな時に綺麗って感情が湧くなんて、ちょっと笑える。

「こんな目に遭ってんのに、俺の心配かよ……」
「んー? そりゃそうだろ。明星みたいなヤツいるなーと思って、心配で追っかけてきたんだから。これでケガしてたら、ショックすぎる」
「……自分がケガしてたら、ダメだろ。この前のインタビューでは、誰かを助けるためでもケガしないようにする、って言ってたのに」
「あー……はは、たしかに言ったな。でも、明星は特別だし。そんなん言ってらんねぇよ」
「…………」
「なあ、もしかしてさ、今までのケガも親父さんが?」
「……うん」
「……転校してきた日も、前に夜偶然会った時も?」
「だな」
「マジか……オレ、明星は不良とケンカしてるんだって勘違いしてた。ごめんな」

 誰かを殴って、殴られて。そんな明星を勝手に想像して怖がったし、明星の人となりを知ってからは似合わないなと思っていた。そりゃあ似合わないわけだ。ケンカなんかしてなかったんだから。

「いや、謝ることじゃないだろ」
「謝ることだよ。勝手に決めつけて遠目に見てた頃があるのは、マジだもん。オレすげー最悪」
「そんなの、本当にどうだっていい。俺は……天地、ありがとな。俺、このくらい平気だって思ってたけど。天地が来てくれて、今すげーほっとしてる」
「明星……」

 俯いている明星の声が震えている。ああ、明星は泣いているんだ。でもそれがきっと嫌で、必死に堪えている。そう気づいた瞬間、オレの涙腺も決壊してしまった。堪える暇もなかった。だって、明星が泣くんだもん。

「もー……なんで、明星が、こんな辛い目にあってんだよぉ」
「……え? あ、天地、泣いてんのか?」
「だ、って! すげー、やだっ! 明星が、なんで、いいヤツなのに! 明星が、ずっと痛かったの、すげーいや!」
「天地……」

 あーあ、みっともなさすぎる。しゃくりあげちゃって、まともに喋るのも難しい。ちっさいガキみたいな泣き方。それなのに、なぜか当の明星はいくらか冷静な顔になっている。オレがこんなんだから、しっかりしなきゃと思ったのだろうか。大きな手をオレの頬に当てて、涙を拭ってくる。

「泣かせてごめんな? あーあ、ここもすり傷になってるし、砂利もついてるし……涙もべちゃべちゃ」
「だって、しょうがねぇだろぉ!」
「うん……うん、そうだな」

 手だけじゃ拭いきれなかったのか、明星は膝立ちになって明星のシャツでオレの顔を拭いはじめた。

「うぶ……明星、ハンカチとかないのかよ」
「それはごめん。てか、持ってるなら貸して」
「……オレが持ってるわけねえじゃん」
「は? 人のこと言えねぇじゃん」
「それはごめん」
「はい、真似したー。ふっ」
「ははっ! あー……痛いし泣けるけど、笑えるとか」

 ひとしきり笑いあったら、涙も落ち着いてきた。腕とか足とか汚れてしまったところを互いに払いあって、ギターが折れていないかも明星が確認してくれた。無傷だったから、ふたりで大きく安堵の息をついた。明星が夜空を見上げるから、オレも真似してまたぼやけた星空を見る。こんな時なのに、さっきのオレと同じように、綺麗だななんて明星が言うから。オレはまたちょっとだけ、泣いてしまった。


「泊まってもいいって言ってたの、今日も有効? 金曜だけど」

 明星をひとりで帰したくなかったから、泊まりたいと言ってみた。明星が頷いてくれたので、オレたちはあれから明星の家へと向かった。電車の中でも歩いている時も、明星はほとんど喋らなかった。

 コンビニで水を買って傷の部分を洗い流しはしたんだけど、おじいちゃんとおばあちゃんを驚かせてしまった。自分で思っている以上に、痛々しい見た目をしているらしい。

「詠太くん、なにかあったの?」

 よく洗うようにと言われ洗面所に向かう時、おばあちゃんが心配そうに尋ねてきた。明星が父親と会っていることは、きっと知らないのだろう。知っていたら、行かないように止めるはずだ。現に明星も黙っているから、

「めっちゃ恥ずかしいんですけど、派手に転んじゃって」

 ということにしておいた。すると、

「あら、そうなの。痛かったわね。響くんもたまに転んでケガして帰ってくるんだけど……この辺りの道、転びやすいのかしら」

 なんておばあちゃんが言うから。それには苦笑いを返すことしかできなかった。どうやらオレは、明星と同じ言い訳をしたらしい。

 綺麗に洗った後はシャワーまで借りて、脱衣所に出ると新品の下着と明星の部屋着が用意してあった。明星の部屋へと上がれば、いつも座ってギターを弾いている場所にふとんが敷いてあった。あんなことがあった後だけど、お泊まり会みたいでちょっとウキウキしてくる。

「天地、こっちきて。傷んとこ、絆創膏貼るから」
「はーい」

 明星に手招かれるままに、ふとんの上で向かい合う。絆創膏を貼ったほうがよさそうなほどの傷は、左腕と左足にひとつずつ。それから、左頬。傷を全て覆うくらいの大きめの絆創膏が、明星の手によって貼られていく。

「痛むか?」
「んー、動かすとちょっと痛いかな」
「……ギターはすぐに弾けそうか?」
「うん、これくらいなら平気」
「そっか、よかった……いや、全然よくないよな。ケガなんかさせたくなかった」
「明星……」

 あぐらをかいた足にひじをついて、明星は両手で顔を覆ってしまった。街では最後に笑いあったけど、責任を感じているのだろう。

 そんなの、いいのに。明星がまたケガをしないで済んで、それでいいのに。でも、そうだよな。反対の立場だったら、オレだってひどく落ちこむ自信がある。

 なにもしてあげられないのだろうか。こんなに近くにいるのに。ずっと、一緒にいるのに。歯がゆく思っていると、明星がぽつりぽつりと話しはじめた。

「うちの親が離婚してるって話、前にしたと思うけど」
「……うん、そうだな」
「母さんにはさすがに手は上げてなかったけど、ひどい言葉で毎日罵っててさ……限界になって、離婚届置いてひとりで出ていったんだ。そしたら今度は、俺が標的になって……最初は言い返したりしてたんだけどな。やっぱり無理で、この家に引っ越してきた」
「そうだったんだ……それで転校してきたんだな」
「うん。それで……」

 明星は少しずつ、心の中の痛いところを見せてくれるみたいに、なにがあったのかを教えてくれた。

 明星のお母さんは、ひとりで別の場所に身を隠すように暮らしている。明星にはたまに連絡があるけれど、どこにいるのかは明星も知らないらしい。あの父親はカッとなって離婚届にサインしたくせに、明星が家を出てからよりを戻そうと考えはじめた。明星なら元妻の居場所を知っていると思いこんで、たまに会いにやってくる。でもいつまでも明星が口を割らないから、腹を立てて手を上げる。明星から出向くのは、そうしないとこの家に直接来ると脅されるのだそうだ。

 おじいちゃんとおばあちゃんには迷惑かけたくない――そう言った時の明星の切実な顔に、オレはまた泣いてしまった。

「天地……? ごめん、また俺のせいで泣かせた」
「もー……お前、このことでオレに謝るの、禁止」
「ええ? いやそうは言っても……」
「だって、明星はマジで悪くねえじゃん。むしろ反対、優しすぎる」

 なにが不良だ。なにがケンカばっかしている、だ。勘違いしていた自分が、本当に恥ずかしい。こんな優しい人、他には知らないくらいなのに。

「そんなことはないと思うけど……」
「そんなことあんの」
「ええー……」

 ただ、ひとつだけ。ひとつだけ、明星に言ってやりたいことがある。

「でも、明星はバカ。優しすぎるバカ」
「へ……」
「なあ、おばあちゃんとおじいちゃんのこと、そんなに大事にできんのに。自分のことは全然大事にできてねえじゃん」
「…………」
「分かるよ、守りたいよな。お母さんのことだってさ。でも、だからって明星がひとりで苦しんでんの、オレは嫌だよ」
「……だって、分かんねえよ。自分を大事にって言われても……」

 煮えきらない明星が、正直腹立たしい。だってそんなんじゃ、明星はあの父親に呼び出されたらまたきっと応じてしまう。そして大事な人たちを守るために、自分を犠牲にする。そんなの、オレは絶対に嫌だ。

「はあ……分かった。じゃあ、オレがやる」
「…………? 天地、お前危ないこと考えてねえよな?」
「……殴ってやりたいって思ってるよ。お前の父親だとしたって、クソ野郎だと思うし」
「天地……頼む、お前がこれ以上傷つくのは俺……!」
「うん、分かってる。だからそんなことはしない。でも……」

 明星との距離をグッと詰める。何事だ、と傾げられそうになった明星の顔を、両手でガシッと掴む。

「ん!? ちょ、あまち?」
「明星が自分にしてやれないんなら、オレが言ってやる」

 あの時、夏休み前に初めて一緒に帰った時。ギターに本気を出していいのか、なんてことに悩んでいたオレに、明星が言ってくれた言葉をわざとなぞる。オレのことを救ってくれた、大切な言葉だからこそだ。

「いや、違うか。オレがやってやる、だな」
「…………?」
「明星が自分を大事にできないなら、オレが明星を大事にする」
「……なに、言って」
「金曜は夕方までしかいられなかったの、父親から連絡くるかもだからだったんだよな? バイトじゃなくて」
「……うん」
「じゃあ、もう絶対帰らない。……って、夏休みはもう終わんのか。じゃあ、これから金曜は絶対泊まりにくる。ギター持ってここ来て、一晩中一緒にいる」
「っ、でも」

 オレの両手の中で、明星の瞳がゆらゆらと揺れている。この期に及んで、明星は自分じゃなくてオレを案じている。

「明星がまた父親に会いに行くなら、オレも行く」
「っ、そんなのダメだ」
「お前だってダメだよ。高校生がひとりで抱えるようなことじゃない」
「でも……」
「でもじゃねえの。絶対にひとりでは行かせない。行くならオレも行くし、本当にオレが殴ったっていい。それがダメなら、警察呼ぶでもなんでも、やり方はあるはずだ。だからもうマジで、ひとりで傷つくの禁止!」
「……っ、もう、なんなんだよお前」

 明星はいよいよ、涙をこぼした。

「ははっ、明星も泣いちゃった。って、オレのせいか」
「……ばか、見んな」

 明星の髪に指を通して、くしゃくしゃと撫でる。気まずそうに目を逸らす明星が、今日はなんだかちいさな子どもみたいだ。

 明星が抱えている問題は、オレたちが簡単に解決できるものじゃないと思う。でも明星をひとりにはしない、きっとそれはできる。いや、絶対にそうする。


 その晩オレたちは、ひとつの布団に寝転がった。ベッドに寝ようとした明星を、オレが下に引きずり下ろした。ひとり用のふとんに男子高校生ふたりで寝るのはさすがに狭いから、ふとんを横に使ってふたりとも上半身だけを乗せるかたちだ。

「これ、明日体痛くなるんじゃねえ?」
「かもなー。でもちょっと、楽しくない? オレはすげー楽しい」
「……まあ、たしかに」
「な」

 ケガをしたのはオレだけど、心が深く傷ついているのは明星で。放っておいたらなんだか消えちゃいそうで、隣で見守っていたかった。眠っている時だって、ずっと。

「なあ、天地」
「んー?」
「俺が小説を書こうと思ったのはさ、逃げだって言ったの。覚えてる?」
「あ……うん。覚えてるよ」

 初めてこの家にきて、帰ろうとした夕方。明星がそう言ったのを、たしかに覚えている。

「父親のことがマジでしんどくてさ。現実には辛いことしかないなら、理想は自分で作るしかないって思った。優しい世界を、自分で書いてみたいなって」
「優しい世界……そっか。そういうことだったんだな」
「うん」
「できるよ、明星なら」

 逃げというより、切実な願いだったんだろう。だからあのノートにいちばん大切そうに“優しい物語”と書いて、丸で囲ったんだと思う。傷だらけだった明星の、誰にも言えないSOSでもあったのかもしれない。

「天地」
「……んー?」
「今日は、ありがとな」
「どういたしまして」
「天地がいてくれて、俺、よかったよ」
「それはオレもだよ」

 落とした照明の下。普段なら恥ずかしくなるような言葉をかわした。段々とまぶたが重たくなって、だけどふと覚醒した瞬間にはちゃんと、隣に明星がいて。なんだかちょっと、心が混ざり合ったような心地がした。