明星と昼休みを過ごしたあの日から、オレの生活には変化が起きた。一体どうしちゃったの? というのが家族内での一致した意見らしい。
「兄ちゃーん、ごはんできたってー」
ドンドン! とオレの部屋の扉をたたいて、弟が呼びかけてくる。
「んー……」
でもオレは、生返事を返すことしかできない。こんなんじゃ、弟に聞こえないって分かっているけど。オレの意識は全部、ギターに持っていかれている。
「もー兄ちゃん! ごはんだってば!」
しびれを切らした弟・翔太が叫びながら乱暴に扉を開けた。7月に入ったばかりなのに、むわっとした暑い空気が一気に流れこんでくる。そこでようやく、オレは顔を上げた。
「翔太……後で食うって言っといて」
「えー、また? 兄ちゃん、今日も怒られるんじゃない?」
「かもなー。でも今はごめん、パス」
「はーい。お母さーん、兄ちゃんごはんいらないってー!」
「いや、いるよ! 後で食うって!」
オレの話を誤変換しながら、弟は颯爽と行ってしまった。小学三年生って、あんな感じだっけ。自分のことを思い出そうにも、もう遠い記憶で分からない。
気を取り直して、ギターを抱え直す。今まで本当に適当に触ってきたから、まずは一曲弾けるようになりたいと毎日練習中だ。こういうのを、夢中になっている、と言うのだろうか。
明星を見ていたら、気づいてしまった。軽薄で面倒なことはのらりくらりかわして、なにもかも中途半端。そんな自分を、本当は変えたいんだって。そう理解した時、頭に浮かんだのはやっぱりギターだった。とことん真剣にやってみたい。
それでも、暗い思いが胸を過ぎる。中学時の思い出のほとんどを占めるのは、毎日励んだ陸上部のことだ。毎日のように走って、部員のみんなとたくさんの時間を過ごした。ついに迎えた、中三の引退をかけたリレーの試合。最悪なことに、オレはバトンを渡す直前で転んでしまった。オレの次の走者は室井で、何度もバトンパスの練習をしてきたのに。全部、気が逸ったオレのせい。そう、オレのせいで仲間たちの夢は途絶えてしまった。それなのに……
弦を押さえる手から力が抜け、右手に持っていたピックが転がり落ちる。やり遂げることができるのだろうか、オレなんかに。のめり込んでもいいのだろうか。オレなんかが。
夏休みを来週に控えた放課後。今日は珍しく、伊藤と宮田とは別行動だ。他クラスの女子も交えて、大勢でカラオケに行くらしい。ついに彼女できちゃうかも! と伊藤はだいぶはしゃいでいた。オレも誘われたけど、パスさせてもらった。彼女とかそりゃあちょっとは羨ましいし、カラオケは好きだけど。それより今は、早く帰ってギターに触りたい。
ヘッドホンで音楽を聴きながら、階段を下りる。クラスの靴箱に到着すると、そこには明星の姿があった。
「あ……明星。これから帰るとこ?」
ヘッドホンを首に下ろし、声をかける。
「ああ」
「そっか。オレも」
「…………」
オレ、明星になにか気に障ることでもしちゃったかな。明星は靴を履き終わっているのに、その場に立ったままオレをじいっと見てくる。なんだか気まずくて、動きがぎこちなくなってしまう。オレっていつも、靴はどっちの足から履いてたっけ。
そんな事を考えていたら、
「なあ」
と明星が声をかけてきた。おお、珍しい。
「ん? なに?」
「天地、最近元気ないな」
「え……そう? かな?」
ギターを真剣に触り始めてから、オレの毎日は激変したけれど。学校では特に変わりないつもりだった。現に伊藤や宮田からはなにも言われないし、今までみたいにバカなことを話したりしているし。勉強はやっぱり、身が入らないし。明星にはなぜそう思われたのだろう。首を傾げていると、
「なんつうか……つきまとってこなくなったなって思って」
と明星がぽつりとつぶやいた。
「へ……」
まさか、そんなことを言われるとは思っていなかった。だってそれはそもそも、明星にとっては望ましいことのはずで。
「あー……いや。今の忘れろ」
目を丸くしていると、明星は妙に気まずそうな顔をして、大きな手でそれを隠した。そして逃げるかのように、そそくさと昇降口を出ていく。
なんだろう、胸騒ぎがする。このまま放っておいたら、また全く話さなかった頃に逆戻りになりそうな。いや、今だって仲がいいと言えるような関係じゃ全くないけど!
「ちょっ、待って! 明星! 待ってってば!」
急いで靴に足をつっこんで、かかとを踏んだまま走り出す。すでに十メートルは先を行っていた明星が、迷惑そうに振り返った。
「お前、声デカすぎ」
「明星が置いてくからだろ!」
「別に、一緒に帰る約束もしてないだろ」
「してなくたっていいじゃん! な、マジでちょっと待って。まだ靴ちゃんと履いてない」
「はあ……」
大げさなくらいため息をつきながらも、明星は観念したみたいに立ち止まってくれた。なんだかんだで待ってくれるのだから、明星はいいヤツだ。ちゃっかり肩に掴まらせてもらって、改めて靴を履き直す。
「よし、履けたー。さんきゅ」
つま先をコンコンと地面に当てて、顔を上げる。すると明星がむくれた顔でそっぽを向いていたから、なんだか笑ってしまった。
「ははっ。すげー嫌そうな顔してる」
「…………」
「なあ、明星んちってどこ?」
「……市内。なんてとこだったっけな。駅は――」
「あ、マジ? 電車同じ方向じゃん。オレと五駅違いだ。よし、一緒帰ろ」
「……拒否権は?」
「なーい」
「はあ……」
ため息をつきながらも、明星はもう先に帰ろうとはしない。許されたと思っていいのだろう。明星と並んで歩くのは、すごく新鮮だ。だからだろうか。校門を出て、たまに会う顔見知りに「じゃあな」と手を振って。そんな当たり前のことに、いちいち心が浮つく。
駅について、改札を通る。ホームに下りると、あと十分ほどで電車が来るところだった。三ドア用の乗車目標位置に立って、オレはようやく話したかったことを切り出す。
「さっきのさ、オレが明星につきまとわなくなったってヤツなんだけどさ」
「それは……忘れろって言ったろ」
もうその話はしたくないのか、明星はオレが立っているのとは逆方向に顔をそらした。でも、聞いてほしい。
「やーだ。なあ、オレ、明星ともっと話したいって思ってたよ。でもなんつうか、オレの覚悟……っていうのかな。それがさ、決まりきらなくて」
「覚悟? ……ああ、俺と話してると天地まで、他のヤツらに変な目で見られたりするか」
「は……? なっ、違う。ぜーんぜん! 違う!」
明星って、そんなことを考えていたのか。いや、思わせてしまってたんだよな。みんなが、いやオレが、オレたちが。第一印象だけで明星の人となりを決めつけて、最初から距離を置いたからだ。
オレが大きな声を出したせいで、駅にいた他の人たちが何事かと振り向く。明星も驚いた顔でオレを見ている。
「本当に、そういうんじゃなくて……あのさ、明星はそんなことないって言うけど、明星って本当にすげーヤツなんだよ。オレなんか、ずっとこんなんなのに……でも明星を見てたら、オレもちゃんとしたいって思うようになった。けど、胸張ってお前の前に立てるまでには、なれてないんだよ」
「…………? 天地がなに言いたいのか、全然分かんないんだけど」
「…………っ、オレさ」
ああ、なんだか緊張してきた。リュックの紐を、両手でぎゅっと握りこむ。斜め下を見ながら三回深呼吸をして、意を決して顔を上げた。
「オレにはなにもない、って、あの時言ったけど。本当になかったけど……やりたいこと、見つかったんだ」
「へえ。そうなんだ」
「うん……でも、本当にやれるのかなとか、オレなんかがやってみてもいいのかな、って。決心が、つかない」
「……ふ」
「……へ? 笑った? ええ、なんで笑うんだよお!」
たったこれだけのことでも、言葉にするのにバカみたいに勇気を使ったのに。まさか笑われるなんて思いもしなかった。反射的に、涙まで浮かんできてしまった。お願いだから気づくなよ明星! と念じながら、オレはへなちょこパンチを明星の腕にお見舞いする。
「ごめん、悪い意味で笑ったんじゃない」
「じゃあなんだよ……バカ明星」
「ごめんって。あー……なんて言えばいいんだろうな。あのさ、天地がなんで、そんなネガティブなのかは知らねえけどさ」
少しずつ区切りながら、明星はゆっくりと話す。明星なりに、頑張って言葉を探してくれているのが分かる。笑われた腹立たしさがまだ胸のところでくすぶっているけれど、それをちゃんと聞きたくて。明星を見上げたオレは、思わず「わ……」と声を漏らしてしまった。明星が笑っていたからだ。さっきみたいな、ついこぼれたみたいなヤツじゃなくて。くちびるが柔らかく上がっていて、野暮ったい前髪の下で、目は優しく細められていた。
「天地が自分にしてやれないんなら、俺が言ってやる」
「……え?」
オレはどうやら、明星の見せた初めての表情に見入っていたらしい。ワンテンポ遅れて返事をしたら、指先で頬をかきながら明星が口を開いた。
「やりたいことがあるんなら、やったらいいと思う。夢中になってるお前、俺はちょっと見てみたい」
「明星……。っ、なんで、そんな……」
「俺も……俺もお前に背中押してもらったから。お返し」
「…………? そんな覚え、オレ全然ないけど」
「あるんだよ」
「それっていつ……」
「あ、電車来た」
どういうことか気になったけど、電車がホームに入ってきた。轟音と、つい足に力がこもるくらいの風と。それから下車してくるたくさんの人たちに、オレの質問も紛れてしまった。
ドアの近くに、ふたりで身を寄せて立つ。電車が走り出したら、明星が
「なあ」
と声をかけてきた。さっきのことを聞きたいけど、明星からの話題には乗っかるしかない。レアだから。
「なに?」
「天地のやりたいことってなに? って聞いていい?」
「あー……うん。明星のおかげだし、特別な?」
「ふ。はいはい」
「……ギター」
「あ、マジ?」
「うん。父親にもらって前から触ってて、楽しいなとは思ってたんだけど。真剣にやるってことを考えてなかったというか、考えることから逃げてたっていうか」
なんだか妙に照れくさくて、窓の外に視線を逃がす。すると明星が、大きな背を折り曲げて身を乗り出してきた。
「……明星?」
「なあ、それって弾き語りだったりする?」
「あ……うん。唄うのも好きだから、そうできたらって思ってる」
「へえ、そうなんだ」
「……え、なに? なんでちょっと嬉しそうなん?」
明星の表情が、いつもよりちょっと緩んでいる気がする。今日はずいぶんと、新しい表情を見せてくれる。
「あー、音楽は結構好き。それに……実は前から、天地いい声してんなって思ってたから」
「え……え! なにそれ!?」
「バカ、声デカい」
「あっ……ごめん」
まさかの答えが返ってきて、電車内だということを一瞬忘れてしまった。慌てて両手で口を塞ぐと、明星が吹き出しそうなのを堪えた顔を見せる。
「なあ明星、どういうことか教えろよぉ……」
顔を寄せて、小声で問いただす。明星はオレをちらりと見てから、窓の外へと視線を移した。
「音楽の授業で、歌のテストがあっただろ」
「テスト? ああ、うん。五月くらい? にあったな」
「手抜いてるみたいだったから、ちゃんと唄ってんの聴いてみたいと思ってた。結構いい声してんのになって」
「ひえ、マジか……」
たしかに、学校のテストでガチで唄ってもなと適当にやったのを覚えている。それを見透かされていたのも、ちゃんと聴いてみたいと思われていたことも、青天の霹靂で。一瞬で顔が熱くなる。
「なあ、そんな顔されると、俺も気まずいんだけど……」
「うう、見んなってぇ……」
だって、仕方ないと思う。明星のおかげでようやくやりたいことが見つかって、その明星に背中を押してもらえただけで胸が震えたのに。まさか声を褒めてもらえるなんて、思ってもみなかったから。
ううー、と唸りながら、顔をパタパタと扇ぐ。するとすぐに、明星の最寄り駅にまもなく到着する旨の車内アナウンスが流れた。
「じゃあな」
と下りる準備をする明星の腕を、慌てて掴む。
「待った! なあ、連絡先教えて! ラインとか!」
「ああ、うん」
ポケットからスマホを取り出して、急いでIDを交換する。電車は失速を始めていて、間に合ったことに安堵の息をつく。
「そんな慌てなくたって、学校でいつでもできんだろ」
「そうだけど、今したかったんだよ」
「ふ、あっそ」
ホームへと電車が入って、ドアが開く。手を上げて下りていく明星に、オレはもう一度声をかける。
「明星!」
少し離れてしまったけど、明星は背が高いから顔がよく見える。大きく手を振って、
「また明日な!」
と叫ぶ。周りの人たちに迷惑だよなあと思いはするけれど、言わずにはいられなかった。
軽く手を挙げた明星が、ぱくぱくと口を開く。あ、「またな」って言ってくれている。それが嬉しくてさっそくラインでスタンプを連投したら、『うるさい』の一言だけが返ってきてつい笑ってしまった。
明星がいなくなった電車内で、オレはひとり、今日の出来事を反芻する。中途半端な心のままでは、明星と向かい合えないと思っていたけれど。また明星に、力をもらってしまった。オレ自身がオレの努力を認めてあげられなくたって、明星が「それを見たい」と言ってくれる。オレにとって、今なによりも必要な力だった。
『今日はありがとう』
明星にもう一言、メッセージを送る。すぐ既読がついたのに三分ほど経ってから返ってきたのは、よく知らないゆるキャラがただ棒立ちしているスタンプだった。三分悩んで、これかよ。おかしくて、おもしろくて。つい漏れてしまう笑い声を、口に当てた拳に逃がす。
電車の音と、このスタンプ、それから夏の夕方の匂い。なんだかちょっと、青春って感じがする。この光景をきっとオレは、ずっとずっと忘れないのだろう。
「兄ちゃーん、ごはんできたってー」
ドンドン! とオレの部屋の扉をたたいて、弟が呼びかけてくる。
「んー……」
でもオレは、生返事を返すことしかできない。こんなんじゃ、弟に聞こえないって分かっているけど。オレの意識は全部、ギターに持っていかれている。
「もー兄ちゃん! ごはんだってば!」
しびれを切らした弟・翔太が叫びながら乱暴に扉を開けた。7月に入ったばかりなのに、むわっとした暑い空気が一気に流れこんでくる。そこでようやく、オレは顔を上げた。
「翔太……後で食うって言っといて」
「えー、また? 兄ちゃん、今日も怒られるんじゃない?」
「かもなー。でも今はごめん、パス」
「はーい。お母さーん、兄ちゃんごはんいらないってー!」
「いや、いるよ! 後で食うって!」
オレの話を誤変換しながら、弟は颯爽と行ってしまった。小学三年生って、あんな感じだっけ。自分のことを思い出そうにも、もう遠い記憶で分からない。
気を取り直して、ギターを抱え直す。今まで本当に適当に触ってきたから、まずは一曲弾けるようになりたいと毎日練習中だ。こういうのを、夢中になっている、と言うのだろうか。
明星を見ていたら、気づいてしまった。軽薄で面倒なことはのらりくらりかわして、なにもかも中途半端。そんな自分を、本当は変えたいんだって。そう理解した時、頭に浮かんだのはやっぱりギターだった。とことん真剣にやってみたい。
それでも、暗い思いが胸を過ぎる。中学時の思い出のほとんどを占めるのは、毎日励んだ陸上部のことだ。毎日のように走って、部員のみんなとたくさんの時間を過ごした。ついに迎えた、中三の引退をかけたリレーの試合。最悪なことに、オレはバトンを渡す直前で転んでしまった。オレの次の走者は室井で、何度もバトンパスの練習をしてきたのに。全部、気が逸ったオレのせい。そう、オレのせいで仲間たちの夢は途絶えてしまった。それなのに……
弦を押さえる手から力が抜け、右手に持っていたピックが転がり落ちる。やり遂げることができるのだろうか、オレなんかに。のめり込んでもいいのだろうか。オレなんかが。
夏休みを来週に控えた放課後。今日は珍しく、伊藤と宮田とは別行動だ。他クラスの女子も交えて、大勢でカラオケに行くらしい。ついに彼女できちゃうかも! と伊藤はだいぶはしゃいでいた。オレも誘われたけど、パスさせてもらった。彼女とかそりゃあちょっとは羨ましいし、カラオケは好きだけど。それより今は、早く帰ってギターに触りたい。
ヘッドホンで音楽を聴きながら、階段を下りる。クラスの靴箱に到着すると、そこには明星の姿があった。
「あ……明星。これから帰るとこ?」
ヘッドホンを首に下ろし、声をかける。
「ああ」
「そっか。オレも」
「…………」
オレ、明星になにか気に障ることでもしちゃったかな。明星は靴を履き終わっているのに、その場に立ったままオレをじいっと見てくる。なんだか気まずくて、動きがぎこちなくなってしまう。オレっていつも、靴はどっちの足から履いてたっけ。
そんな事を考えていたら、
「なあ」
と明星が声をかけてきた。おお、珍しい。
「ん? なに?」
「天地、最近元気ないな」
「え……そう? かな?」
ギターを真剣に触り始めてから、オレの毎日は激変したけれど。学校では特に変わりないつもりだった。現に伊藤や宮田からはなにも言われないし、今までみたいにバカなことを話したりしているし。勉強はやっぱり、身が入らないし。明星にはなぜそう思われたのだろう。首を傾げていると、
「なんつうか……つきまとってこなくなったなって思って」
と明星がぽつりとつぶやいた。
「へ……」
まさか、そんなことを言われるとは思っていなかった。だってそれはそもそも、明星にとっては望ましいことのはずで。
「あー……いや。今の忘れろ」
目を丸くしていると、明星は妙に気まずそうな顔をして、大きな手でそれを隠した。そして逃げるかのように、そそくさと昇降口を出ていく。
なんだろう、胸騒ぎがする。このまま放っておいたら、また全く話さなかった頃に逆戻りになりそうな。いや、今だって仲がいいと言えるような関係じゃ全くないけど!
「ちょっ、待って! 明星! 待ってってば!」
急いで靴に足をつっこんで、かかとを踏んだまま走り出す。すでに十メートルは先を行っていた明星が、迷惑そうに振り返った。
「お前、声デカすぎ」
「明星が置いてくからだろ!」
「別に、一緒に帰る約束もしてないだろ」
「してなくたっていいじゃん! な、マジでちょっと待って。まだ靴ちゃんと履いてない」
「はあ……」
大げさなくらいため息をつきながらも、明星は観念したみたいに立ち止まってくれた。なんだかんだで待ってくれるのだから、明星はいいヤツだ。ちゃっかり肩に掴まらせてもらって、改めて靴を履き直す。
「よし、履けたー。さんきゅ」
つま先をコンコンと地面に当てて、顔を上げる。すると明星がむくれた顔でそっぽを向いていたから、なんだか笑ってしまった。
「ははっ。すげー嫌そうな顔してる」
「…………」
「なあ、明星んちってどこ?」
「……市内。なんてとこだったっけな。駅は――」
「あ、マジ? 電車同じ方向じゃん。オレと五駅違いだ。よし、一緒帰ろ」
「……拒否権は?」
「なーい」
「はあ……」
ため息をつきながらも、明星はもう先に帰ろうとはしない。許されたと思っていいのだろう。明星と並んで歩くのは、すごく新鮮だ。だからだろうか。校門を出て、たまに会う顔見知りに「じゃあな」と手を振って。そんな当たり前のことに、いちいち心が浮つく。
駅について、改札を通る。ホームに下りると、あと十分ほどで電車が来るところだった。三ドア用の乗車目標位置に立って、オレはようやく話したかったことを切り出す。
「さっきのさ、オレが明星につきまとわなくなったってヤツなんだけどさ」
「それは……忘れろって言ったろ」
もうその話はしたくないのか、明星はオレが立っているのとは逆方向に顔をそらした。でも、聞いてほしい。
「やーだ。なあ、オレ、明星ともっと話したいって思ってたよ。でもなんつうか、オレの覚悟……っていうのかな。それがさ、決まりきらなくて」
「覚悟? ……ああ、俺と話してると天地まで、他のヤツらに変な目で見られたりするか」
「は……? なっ、違う。ぜーんぜん! 違う!」
明星って、そんなことを考えていたのか。いや、思わせてしまってたんだよな。みんなが、いやオレが、オレたちが。第一印象だけで明星の人となりを決めつけて、最初から距離を置いたからだ。
オレが大きな声を出したせいで、駅にいた他の人たちが何事かと振り向く。明星も驚いた顔でオレを見ている。
「本当に、そういうんじゃなくて……あのさ、明星はそんなことないって言うけど、明星って本当にすげーヤツなんだよ。オレなんか、ずっとこんなんなのに……でも明星を見てたら、オレもちゃんとしたいって思うようになった。けど、胸張ってお前の前に立てるまでには、なれてないんだよ」
「…………? 天地がなに言いたいのか、全然分かんないんだけど」
「…………っ、オレさ」
ああ、なんだか緊張してきた。リュックの紐を、両手でぎゅっと握りこむ。斜め下を見ながら三回深呼吸をして、意を決して顔を上げた。
「オレにはなにもない、って、あの時言ったけど。本当になかったけど……やりたいこと、見つかったんだ」
「へえ。そうなんだ」
「うん……でも、本当にやれるのかなとか、オレなんかがやってみてもいいのかな、って。決心が、つかない」
「……ふ」
「……へ? 笑った? ええ、なんで笑うんだよお!」
たったこれだけのことでも、言葉にするのにバカみたいに勇気を使ったのに。まさか笑われるなんて思いもしなかった。反射的に、涙まで浮かんできてしまった。お願いだから気づくなよ明星! と念じながら、オレはへなちょこパンチを明星の腕にお見舞いする。
「ごめん、悪い意味で笑ったんじゃない」
「じゃあなんだよ……バカ明星」
「ごめんって。あー……なんて言えばいいんだろうな。あのさ、天地がなんで、そんなネガティブなのかは知らねえけどさ」
少しずつ区切りながら、明星はゆっくりと話す。明星なりに、頑張って言葉を探してくれているのが分かる。笑われた腹立たしさがまだ胸のところでくすぶっているけれど、それをちゃんと聞きたくて。明星を見上げたオレは、思わず「わ……」と声を漏らしてしまった。明星が笑っていたからだ。さっきみたいな、ついこぼれたみたいなヤツじゃなくて。くちびるが柔らかく上がっていて、野暮ったい前髪の下で、目は優しく細められていた。
「天地が自分にしてやれないんなら、俺が言ってやる」
「……え?」
オレはどうやら、明星の見せた初めての表情に見入っていたらしい。ワンテンポ遅れて返事をしたら、指先で頬をかきながら明星が口を開いた。
「やりたいことがあるんなら、やったらいいと思う。夢中になってるお前、俺はちょっと見てみたい」
「明星……。っ、なんで、そんな……」
「俺も……俺もお前に背中押してもらったから。お返し」
「…………? そんな覚え、オレ全然ないけど」
「あるんだよ」
「それっていつ……」
「あ、電車来た」
どういうことか気になったけど、電車がホームに入ってきた。轟音と、つい足に力がこもるくらいの風と。それから下車してくるたくさんの人たちに、オレの質問も紛れてしまった。
ドアの近くに、ふたりで身を寄せて立つ。電車が走り出したら、明星が
「なあ」
と声をかけてきた。さっきのことを聞きたいけど、明星からの話題には乗っかるしかない。レアだから。
「なに?」
「天地のやりたいことってなに? って聞いていい?」
「あー……うん。明星のおかげだし、特別な?」
「ふ。はいはい」
「……ギター」
「あ、マジ?」
「うん。父親にもらって前から触ってて、楽しいなとは思ってたんだけど。真剣にやるってことを考えてなかったというか、考えることから逃げてたっていうか」
なんだか妙に照れくさくて、窓の外に視線を逃がす。すると明星が、大きな背を折り曲げて身を乗り出してきた。
「……明星?」
「なあ、それって弾き語りだったりする?」
「あ……うん。唄うのも好きだから、そうできたらって思ってる」
「へえ、そうなんだ」
「……え、なに? なんでちょっと嬉しそうなん?」
明星の表情が、いつもよりちょっと緩んでいる気がする。今日はずいぶんと、新しい表情を見せてくれる。
「あー、音楽は結構好き。それに……実は前から、天地いい声してんなって思ってたから」
「え……え! なにそれ!?」
「バカ、声デカい」
「あっ……ごめん」
まさかの答えが返ってきて、電車内だということを一瞬忘れてしまった。慌てて両手で口を塞ぐと、明星が吹き出しそうなのを堪えた顔を見せる。
「なあ明星、どういうことか教えろよぉ……」
顔を寄せて、小声で問いただす。明星はオレをちらりと見てから、窓の外へと視線を移した。
「音楽の授業で、歌のテストがあっただろ」
「テスト? ああ、うん。五月くらい? にあったな」
「手抜いてるみたいだったから、ちゃんと唄ってんの聴いてみたいと思ってた。結構いい声してんのになって」
「ひえ、マジか……」
たしかに、学校のテストでガチで唄ってもなと適当にやったのを覚えている。それを見透かされていたのも、ちゃんと聴いてみたいと思われていたことも、青天の霹靂で。一瞬で顔が熱くなる。
「なあ、そんな顔されると、俺も気まずいんだけど……」
「うう、見んなってぇ……」
だって、仕方ないと思う。明星のおかげでようやくやりたいことが見つかって、その明星に背中を押してもらえただけで胸が震えたのに。まさか声を褒めてもらえるなんて、思ってもみなかったから。
ううー、と唸りながら、顔をパタパタと扇ぐ。するとすぐに、明星の最寄り駅にまもなく到着する旨の車内アナウンスが流れた。
「じゃあな」
と下りる準備をする明星の腕を、慌てて掴む。
「待った! なあ、連絡先教えて! ラインとか!」
「ああ、うん」
ポケットからスマホを取り出して、急いでIDを交換する。電車は失速を始めていて、間に合ったことに安堵の息をつく。
「そんな慌てなくたって、学校でいつでもできんだろ」
「そうだけど、今したかったんだよ」
「ふ、あっそ」
ホームへと電車が入って、ドアが開く。手を上げて下りていく明星に、オレはもう一度声をかける。
「明星!」
少し離れてしまったけど、明星は背が高いから顔がよく見える。大きく手を振って、
「また明日な!」
と叫ぶ。周りの人たちに迷惑だよなあと思いはするけれど、言わずにはいられなかった。
軽く手を挙げた明星が、ぱくぱくと口を開く。あ、「またな」って言ってくれている。それが嬉しくてさっそくラインでスタンプを連投したら、『うるさい』の一言だけが返ってきてつい笑ってしまった。
明星がいなくなった電車内で、オレはひとり、今日の出来事を反芻する。中途半端な心のままでは、明星と向かい合えないと思っていたけれど。また明星に、力をもらってしまった。オレ自身がオレの努力を認めてあげられなくたって、明星が「それを見たい」と言ってくれる。オレにとって、今なによりも必要な力だった。
『今日はありがとう』
明星にもう一言、メッセージを送る。すぐ既読がついたのに三分ほど経ってから返ってきたのは、よく知らないゆるキャラがただ棒立ちしているスタンプだった。三分悩んで、これかよ。おかしくて、おもしろくて。つい漏れてしまう笑い声を、口に当てた拳に逃がす。
電車の音と、このスタンプ、それから夏の夕方の匂い。なんだかちょっと、青春って感じがする。この光景をきっとオレは、ずっとずっと忘れないのだろう。



