「はい、じゃあ今日の連絡事項はこれくらいだな。気をつけて帰れよー」
「うーっす。よっしゃー終わったー! 詠太ー、宮田ー、帰ろー!」
先生から帰りのホームルームを終える号令が出ると、伊藤が間髪入れずに大声を張り上げた。遊びすぎるなよ、なんて先生から注意をはーいとあしらいつつ、ふたりがオレの席へとやってくる。放課後もこのメンツで過ごすことが、オレの日常だ。
「どこか寄るとこある?」
「俺はない。詠太は?」
「オレも特にないな」
「じゃあ今日はまっすぐ帰るか! なあなあ俺さ、明日は寄りたいとこあってさー」
伊藤に相槌を打ちながら、首にヘッドホンを装着する。ひとりになるまでなにも聴かないけれど、登下校時はこれがないと落ち着かない。オレの準備が整ったのを機に、三人で出口へと向かう。すると、はしゃぐ伊藤の体が近くの机にぶつかってしまった。運が悪いことに、明星の席だ。
「あっ、ごめん!」
「…………」
伊藤はすぐに謝ったが、明星は一瞬伊藤を目に入れただけで、そのまま無言で出ていってしまった。苦笑いするしかない微妙な空気が、オレたち三人の間に流れる。
「なんだよー、俺謝ったじゃんな!?」
つい三日前、メモ帳を拾ったのをきっかけに、初めて言葉をかわしたけれど。会話なんてそれっきりで、明星は相変わらずあんな調子だ。誰とも関わろうとする気配はなく、むしろ近寄るなと言わんばかりの態度。無視されたからって、腹を立てるのもきっと無駄だ。
「返事するのもだりぃんだろ。伊藤がうるさいから」
「はあ!? なあ詠太、宮田がひどいこと言うんだけど!」
「んー、伊藤がうるさいのは本当だしなー」
「え……なんだよ詠太までー!」
「はは、ごめんごめん。で、どこ?」
「……なにが」
「明日。どこか寄り道すんだろ?」
「あっ、そうだった! ゲーセン! ハマってるゲームのフィギュアが明日から出んだよ!」
「あー、伊藤がいつもやってるヤツ」
「そう! 宮田がいつまでもインストールしてくれないヤツ!」
伊藤をなだめつつ、今度こそ教室を出る。放課後の廊下は、それぞれの部活に向かう生徒でいっぱいだ。
「俺、人狼系のゲームは向いてないんだよ。詠太はゲーム自体しないもんな」
「だなー。ハマれた試しねえんだもん」
オレたちは全員、部活も委員会も入っていない。高校は遊ぶと決めていたらしい伊藤は強い信念で属さず、宮田は友人に頼まれて写真部に名前だけ貸しているらしい。
オレは中学では陸上部に入っていたけど、辞めた。
「あ、天地」
階段のほうに向かっていると、誰かに名前を呼ばれた。振り返ると、そこには同級生の室井が立っていた。
「室井。あー……これから部活?」
「おう。もうすぐ試合なんだ」
室井とは、中学からの付き合いだ。陸上部に入っていて、次期キャプテンだと期待されているらしい。クラスの女子たちが噂しているのを聞いたことがある。
「そっか」
「天地!」
「……んー?」
オレと室井を見やって、伊藤と宮田が「先に下行ってるぞー」と階段を下りていってしまった。気を使ってくれるなら、いてくれたほうが助かるのに。
「なあ、本当にもう走らねぇの?」
伊藤と宮田を見送るオレに、室井が問いかけてくる。背中を向けて意思表示をしたつもりだけど、どうやら伝わらなかったみたいだ。
「はは、またその話? 走らないってば。もう一年以上やってないんだし、無理無理」
「でも」
「試合頑張ってなー。応援してる」
室井がまだなにか言いたそうなのは、分かっているけれど。オレとしては、この話はさっさと切り上げたいわけで。室井には悪いけど気づかないふりをして、ひらひらと手を振って階段へと急いだ。
「室井のヤツも飽きないよな。オレなんて、いないほうがいいに決まってんのに」
階段を下りながら、オレはひとり軽口をたたく。
室井は足が速くてイケメンで、勉強もできる。オレなんかにいつまでも構ってくれちゃうところは、玉に瑕ってヤツだろう。迷惑をかけたオレのことなんか、ほっとけばいいのに。オレだって、陸上部での出来事は忘れてしまいたい。
昇降口につくと、すでに靴を履き替えた伊藤と宮田が外から手を振ってきた。中学の時のことなんか知らないふたりの笑顔を見ると、ほっとする。
「詠太ー、はーやーくー!」
「おー、今行くー」
走る気なんてもう、これっぽっちもない。それどころか、あの頃みたいになにかに本気で打ちこむことも、もうない気がしている。これでいい、これがいい。なにも深く考えず、軽い気持ちで日々をやり過ごす。それがオレには、よく似合っている。
翌日の放課後。伊藤の希望通り、オレたちは横浜にあるゲームセンターへと向かった。投入店舗は少ないらしく、学校からだとここがいちばん近かった。無事に伊藤の欲しかった景品をゲットして、今はファーストフードのハンバーガーセットを食べているところだ。
「はあー……マジもう今月金なくてヤバい……」
「結局いくら使った?」
「聞くなよ宮田ぁ……考えたくもないっつーの。あーあ、俺昨日は一晩中、クレーンゲームの攻略動画観てきたのに!」
伊藤の狙う景品はよほどの人気商品なのか、設定がありえないほど鬼畜だった。健闘もむなしく、何回両替したか考えるのも怖くなった頃。急にアームの力が強くなって、あっけなく獲得できた。最初からそのように設定されているのだろう。決められた金額を使わないと、ちょっとやそっとじゃ獲れないというわけだ。
ちなみに、伊藤が奮闘している間にオレもプレイしてみた。ちいさめの筐体に、ちいさい景品が入っているヤツ。比較的簡単な設定だったみたいで、ちょっとやっただけでゲットできた。しかも、ラッキーなことにふたついっぺんに落ちてきた。毛玉みたいなふわふわの物体に目玉がついた、オレンジと黒のものがひとつずつ。
「でもまあ、獲れてよかったじゃん」
「そうそう、詠太の言う通り。終わりよければ全てよしってヤツ」
「まあなー……それはそうだけどぉ」
食事を終えて、店を出る。今日は金曜の夜で、明日は学校がないから解放感がある。横浜の街も、そこらじゅうが賑わっている。
「この後どうする? どっか行く?」
伊藤が元気に提案してきた。
「別に予定ないし、いいよ。詠太は?」
さっそく宮田が乗って、オレに尋ねてくる。
「オレも暇だから行こっかな。ちなみに、どこ?」
「んー、カラオケとか? こないだのテストで詠太歌上手かったし、もっと聴きたい!」
「あ、それいいな。俺も賛成」
「はは、別に上手くないって」
話がまとまって、カラオケならこの近くにあったよなと歩き出す。
「てか伊藤、お金は大丈夫なん?」
なんて、茶化しながら聞いてみた時だった。ふと見やった先を、見覚えのある背格好の人物が横切った。気のせいかと一瞬思ったけど、間違いない。明星だ。
「うっ! それな……でも、フリータイムの代金くらい払えっから! なけなしの俺の金舐めんな?」
「なけなしの金、カラオケに使っていいのかよ。なあ、詠太も伊藤になんとか言ってやって」
伊藤と宮田の会話をどうにか耳に入れつつも、オレは立ち止まった。別に街中でクラスのヤツを見かけることくらい、たまにあるけど。どうも気にかかる。
明星のヤツ、顔にケガしてなかったか?
「……ごめん。オレやっぱ、カラオケパス」
「え?」
「は? おい、詠太!?」
驚くふたりの声を背に、オレは走り出した。自分の行動に驚いているのはオレも同じだと言いたいけど、あいにくそんな暇もない。人がいっぱいで、上手く進めない。もたもたしていたら、明星が角を曲がって見えなくなってしまった。
なにをこんなに必死になっているんだろう。冷静なオレが、頭の中で問いかけてくる。なんでだろうな。多分、その答えはきっと、“違和感”だ。
「すいません、ちょっと通ります」
迷惑そうな顔をされながら、人の間をすり抜ける。急いで角を曲がる。明星の姿は、やはり見当たらない。舌をひとつ打って、当てずっぽうでもうひとつ先の角を曲がる。よかった、ビンゴだ。見慣れた制服の背中に、勢いに任せて走り寄る。
「明星!」
「……は? あ、お前……」
腕を掴むと、ぎょっとした顔で明星が振り返った。やっぱりだ。くちびるの端が切れて、血が出ている。教室の前で無愛想に自己紹介をした、あの時みたいに。
「どうしたんだよ、そのケガ」
「……お前には関係ない」
「…………っ!」
たしかに、明星の言う通りだ。そんなことは、最初から分かっている。そもそも以前のオレだったら、ケガをしている明星を見かけたところで、眉をしかめて終わっていた。でも――
「なあ、なんでケンカなんかすんの?」
「だから、お前に関係ないっつって……」
「そういうの、明星に似合わないと思う」
明星の言葉を遮ってそう言うと、
「……はあ?」
とその眉間がぎゅっと寄せられた。俺のなにを知ってんだよ、と腹が立ったんだろう。そりゃあそうだ。でもオレは、自分でも不思議なくらい熱くなっている。オレこそが、らしくないって分かってる。
「だって、明星のあのメモに書いてあったじゃん。“優しい物語”、って」
「……っ、お前! 見てねえって言ってたのに、見てんじゃねえか!」
明星のメモの中身は一瞬しか見えなかったけれど。他の文字より少し大きな字で書いてあった、“優しい物語”という言葉。丸で囲んでまであった。明星にとっていちばん大事なことなのかもしれないと、そう感じた。
だからあれ以来、ずっと違和感があった。不良だと恐れられ、みんなから距離を置かれている明星は、本当の明星なのだろうか。転校してきた時も、今目の前にある生々しい傷も。明星には似合わない、そんな気がして仕方ない。
「なあ、あのメモってなに?」
「言うかよ。ほっとけ」
「でも、すげー気になる」
「知らねえよ……」
「頑固じゃん」
「あっそ。お前はしつこい」
「…………」
埒が明かなくて、オレは頭をかきながら深いため息をついた。
少し冷静に考えれば、明星にとってオレが迷惑なのは正直分かる。突然話しかけてきたと思ったら、秘密にしたいことを根掘り葉掘り聞いてきて。ムカつくよな、当然だ。でも、ここまできて引き下がるのも癪だ。明星に声をかけるのに、それなりの勇気を使ったし。意地になっているだけだと言われたら、そうなのかもしれないけど。
「うーん……あ、じゃあさ、いいもんやるよ。明星は黒とオレンジだと、どっちが好き?」
「は?」
ふと思いついて、ポケットからキーホルダーをふたつ取り出す。さっきゲーセンでゲットしたヤツだ。
「見て」
「なにそれ」
「知らん、毛玉? うーん、じゃあ明星はオレンジな。オレがオレンジ持ってたら、お前とそっくりじゃんとか言っていじられそうだし」
「いや、いらない」
「黒のほうがよかった?」
「そういう意味じゃない」
「そ。じゃあオレンジな」
「ちょっ、いらねえって……」
「別に捨ててくれてもいいし」
受け取ってくれないから、明星のパンツのポケットに無理やりねじこんだ。大きなため息をついた明星が、
「お前、マジでうざすぎんだけど……」
と唸りながら夜空を仰ぐ。
「うん、オレもそう思う」
「……まさかとは思うけど、この毛玉と引き換えに教えてもらおうとか思ってる?」
「お、正解」
そりゃあもちろん、こんなおもちゃで釣れると本気で思ってるわけじゃない。でもなんでもいい、それこそ苛立ちでも構わないから、明星の気を引きたかった。
「マジでバカじゃん……」
「はは、そう。オレバカなの」
「……あー、もう!」
ぐしゃぐしゃと自分の髪をかき混ぜた明星は、今度は深く俯いてしまった。かと思えばまた空を仰いで、見下すようにオレをその目に映す。
「分かったよ……言わないと、いつまでもしつこそうだし。見られたもんは、お前を消しでもしないとどうにもならねえもんな」
「わーお、物騒〜」
さすが不良と名高い明星響だ。言い回しがちゃんと物騒。でも、もう不思議と怖くはない。話すほどに、オレの中に生まれた違和感は正しい気がしてくる。
そんなことより、話の続きが気になる。聞き逃さないようにと、明星との距離を数センチつめる。迷惑そうな顔をしたけれど、明星は逃げないでいてくれた。
「……あれは、小説用のメモ」
目をそらしてぶっきらぼうに、小声で明星がつぶやいた。
「おー、マジか。すげえ……明星、小説書いてんだ?」
正直、予想はついていた。だから、やっぱり、というのが正直な感想だ。あの時見えたプロットという言葉を検索してみたら、ストーリーの構成だとか地図だとか、そういったことが書いてあった。マンガか映画か、もしくは小説か。色々な想像をしたけれど、小説が正解だったらしい。
「……まあ、そんな感じ」
「すげーじゃん……えっ、すげー!」
「バカ、声でかい……別に、すごくもなんともねえよ」
不良だと恐れられて、こうして新たな生傷をこさえていても。明星はその手で、小説を書いている。しかもきっとそれは、優しい物語のはずで。どんなレッテルを貼られていようと、明星には“小説を書く”という芯があるらしい。
なぜだろう、無性に胸が熱くなってくる。下手したら、焦げつきそうなくらいに。この感情はなんだっけ。分かりそうで分からなくて、なんだか苦しい。それを誤魔化すように、もしくは正体が知りたくて。オレは明星に更に話しかける。
「なあ、いつから書いてんの? やっぱ難しい?」
「だからうるせえって……てか、俺もう帰るから。おい、天地」
「あ、オレの名前知ってんだ?」
「そりゃ知ってるだろ。秘密握られたかもしんない相手の名前くらい、把握してる」
「ええ、なにそれ怖い」
はは、と笑ってみせると、明星はやっぱりため息をついた。それから鋭い目でオレを射抜きながら、真正面から指さしてくる。うん、やっぱり物騒。そんでちょっと、失礼だ。
「いいか、お前の質問に俺は答えた」
「うん、教えてくれてありがとう」
「だから、もうつきまとうな」
「うーん、つきまとったわけじゃないけど。遊んでたら、たまたま見かけただけだし」
「屁理屈はやめろ。とにかく。話は終わった。もう俺のことはほっとけ。あ、あと、その……小説のこと、誰にも言うなよ」
「うん、言わない。それは絶対約束する」
両手を顔の横に掲げつつ、オレは神妙に頷いてみせた。絶対に、誰にも言ったりしない。言うもんか。明星のそれは、なんだか宝物のように思えるから。
「……はあ。じゃあ、帰る」
手を振ることすらせず、明星はさっさと駅のほうへ消えていった。なんだかオレは動けなくて、その背中をいつまでも見送った。胸にはまださっき灯った熱がくすぶっていて――知らず知らずのうちに、オレは心臓の部分のシャツをぎゅっと握りこんでいた。
「うーっす。よっしゃー終わったー! 詠太ー、宮田ー、帰ろー!」
先生から帰りのホームルームを終える号令が出ると、伊藤が間髪入れずに大声を張り上げた。遊びすぎるなよ、なんて先生から注意をはーいとあしらいつつ、ふたりがオレの席へとやってくる。放課後もこのメンツで過ごすことが、オレの日常だ。
「どこか寄るとこある?」
「俺はない。詠太は?」
「オレも特にないな」
「じゃあ今日はまっすぐ帰るか! なあなあ俺さ、明日は寄りたいとこあってさー」
伊藤に相槌を打ちながら、首にヘッドホンを装着する。ひとりになるまでなにも聴かないけれど、登下校時はこれがないと落ち着かない。オレの準備が整ったのを機に、三人で出口へと向かう。すると、はしゃぐ伊藤の体が近くの机にぶつかってしまった。運が悪いことに、明星の席だ。
「あっ、ごめん!」
「…………」
伊藤はすぐに謝ったが、明星は一瞬伊藤を目に入れただけで、そのまま無言で出ていってしまった。苦笑いするしかない微妙な空気が、オレたち三人の間に流れる。
「なんだよー、俺謝ったじゃんな!?」
つい三日前、メモ帳を拾ったのをきっかけに、初めて言葉をかわしたけれど。会話なんてそれっきりで、明星は相変わらずあんな調子だ。誰とも関わろうとする気配はなく、むしろ近寄るなと言わんばかりの態度。無視されたからって、腹を立てるのもきっと無駄だ。
「返事するのもだりぃんだろ。伊藤がうるさいから」
「はあ!? なあ詠太、宮田がひどいこと言うんだけど!」
「んー、伊藤がうるさいのは本当だしなー」
「え……なんだよ詠太までー!」
「はは、ごめんごめん。で、どこ?」
「……なにが」
「明日。どこか寄り道すんだろ?」
「あっ、そうだった! ゲーセン! ハマってるゲームのフィギュアが明日から出んだよ!」
「あー、伊藤がいつもやってるヤツ」
「そう! 宮田がいつまでもインストールしてくれないヤツ!」
伊藤をなだめつつ、今度こそ教室を出る。放課後の廊下は、それぞれの部活に向かう生徒でいっぱいだ。
「俺、人狼系のゲームは向いてないんだよ。詠太はゲーム自体しないもんな」
「だなー。ハマれた試しねえんだもん」
オレたちは全員、部活も委員会も入っていない。高校は遊ぶと決めていたらしい伊藤は強い信念で属さず、宮田は友人に頼まれて写真部に名前だけ貸しているらしい。
オレは中学では陸上部に入っていたけど、辞めた。
「あ、天地」
階段のほうに向かっていると、誰かに名前を呼ばれた。振り返ると、そこには同級生の室井が立っていた。
「室井。あー……これから部活?」
「おう。もうすぐ試合なんだ」
室井とは、中学からの付き合いだ。陸上部に入っていて、次期キャプテンだと期待されているらしい。クラスの女子たちが噂しているのを聞いたことがある。
「そっか」
「天地!」
「……んー?」
オレと室井を見やって、伊藤と宮田が「先に下行ってるぞー」と階段を下りていってしまった。気を使ってくれるなら、いてくれたほうが助かるのに。
「なあ、本当にもう走らねぇの?」
伊藤と宮田を見送るオレに、室井が問いかけてくる。背中を向けて意思表示をしたつもりだけど、どうやら伝わらなかったみたいだ。
「はは、またその話? 走らないってば。もう一年以上やってないんだし、無理無理」
「でも」
「試合頑張ってなー。応援してる」
室井がまだなにか言いたそうなのは、分かっているけれど。オレとしては、この話はさっさと切り上げたいわけで。室井には悪いけど気づかないふりをして、ひらひらと手を振って階段へと急いだ。
「室井のヤツも飽きないよな。オレなんて、いないほうがいいに決まってんのに」
階段を下りながら、オレはひとり軽口をたたく。
室井は足が速くてイケメンで、勉強もできる。オレなんかにいつまでも構ってくれちゃうところは、玉に瑕ってヤツだろう。迷惑をかけたオレのことなんか、ほっとけばいいのに。オレだって、陸上部での出来事は忘れてしまいたい。
昇降口につくと、すでに靴を履き替えた伊藤と宮田が外から手を振ってきた。中学の時のことなんか知らないふたりの笑顔を見ると、ほっとする。
「詠太ー、はーやーくー!」
「おー、今行くー」
走る気なんてもう、これっぽっちもない。それどころか、あの頃みたいになにかに本気で打ちこむことも、もうない気がしている。これでいい、これがいい。なにも深く考えず、軽い気持ちで日々をやり過ごす。それがオレには、よく似合っている。
翌日の放課後。伊藤の希望通り、オレたちは横浜にあるゲームセンターへと向かった。投入店舗は少ないらしく、学校からだとここがいちばん近かった。無事に伊藤の欲しかった景品をゲットして、今はファーストフードのハンバーガーセットを食べているところだ。
「はあー……マジもう今月金なくてヤバい……」
「結局いくら使った?」
「聞くなよ宮田ぁ……考えたくもないっつーの。あーあ、俺昨日は一晩中、クレーンゲームの攻略動画観てきたのに!」
伊藤の狙う景品はよほどの人気商品なのか、設定がありえないほど鬼畜だった。健闘もむなしく、何回両替したか考えるのも怖くなった頃。急にアームの力が強くなって、あっけなく獲得できた。最初からそのように設定されているのだろう。決められた金額を使わないと、ちょっとやそっとじゃ獲れないというわけだ。
ちなみに、伊藤が奮闘している間にオレもプレイしてみた。ちいさめの筐体に、ちいさい景品が入っているヤツ。比較的簡単な設定だったみたいで、ちょっとやっただけでゲットできた。しかも、ラッキーなことにふたついっぺんに落ちてきた。毛玉みたいなふわふわの物体に目玉がついた、オレンジと黒のものがひとつずつ。
「でもまあ、獲れてよかったじゃん」
「そうそう、詠太の言う通り。終わりよければ全てよしってヤツ」
「まあなー……それはそうだけどぉ」
食事を終えて、店を出る。今日は金曜の夜で、明日は学校がないから解放感がある。横浜の街も、そこらじゅうが賑わっている。
「この後どうする? どっか行く?」
伊藤が元気に提案してきた。
「別に予定ないし、いいよ。詠太は?」
さっそく宮田が乗って、オレに尋ねてくる。
「オレも暇だから行こっかな。ちなみに、どこ?」
「んー、カラオケとか? こないだのテストで詠太歌上手かったし、もっと聴きたい!」
「あ、それいいな。俺も賛成」
「はは、別に上手くないって」
話がまとまって、カラオケならこの近くにあったよなと歩き出す。
「てか伊藤、お金は大丈夫なん?」
なんて、茶化しながら聞いてみた時だった。ふと見やった先を、見覚えのある背格好の人物が横切った。気のせいかと一瞬思ったけど、間違いない。明星だ。
「うっ! それな……でも、フリータイムの代金くらい払えっから! なけなしの俺の金舐めんな?」
「なけなしの金、カラオケに使っていいのかよ。なあ、詠太も伊藤になんとか言ってやって」
伊藤と宮田の会話をどうにか耳に入れつつも、オレは立ち止まった。別に街中でクラスのヤツを見かけることくらい、たまにあるけど。どうも気にかかる。
明星のヤツ、顔にケガしてなかったか?
「……ごめん。オレやっぱ、カラオケパス」
「え?」
「は? おい、詠太!?」
驚くふたりの声を背に、オレは走り出した。自分の行動に驚いているのはオレも同じだと言いたいけど、あいにくそんな暇もない。人がいっぱいで、上手く進めない。もたもたしていたら、明星が角を曲がって見えなくなってしまった。
なにをこんなに必死になっているんだろう。冷静なオレが、頭の中で問いかけてくる。なんでだろうな。多分、その答えはきっと、“違和感”だ。
「すいません、ちょっと通ります」
迷惑そうな顔をされながら、人の間をすり抜ける。急いで角を曲がる。明星の姿は、やはり見当たらない。舌をひとつ打って、当てずっぽうでもうひとつ先の角を曲がる。よかった、ビンゴだ。見慣れた制服の背中に、勢いに任せて走り寄る。
「明星!」
「……は? あ、お前……」
腕を掴むと、ぎょっとした顔で明星が振り返った。やっぱりだ。くちびるの端が切れて、血が出ている。教室の前で無愛想に自己紹介をした、あの時みたいに。
「どうしたんだよ、そのケガ」
「……お前には関係ない」
「…………っ!」
たしかに、明星の言う通りだ。そんなことは、最初から分かっている。そもそも以前のオレだったら、ケガをしている明星を見かけたところで、眉をしかめて終わっていた。でも――
「なあ、なんでケンカなんかすんの?」
「だから、お前に関係ないっつって……」
「そういうの、明星に似合わないと思う」
明星の言葉を遮ってそう言うと、
「……はあ?」
とその眉間がぎゅっと寄せられた。俺のなにを知ってんだよ、と腹が立ったんだろう。そりゃあそうだ。でもオレは、自分でも不思議なくらい熱くなっている。オレこそが、らしくないって分かってる。
「だって、明星のあのメモに書いてあったじゃん。“優しい物語”、って」
「……っ、お前! 見てねえって言ってたのに、見てんじゃねえか!」
明星のメモの中身は一瞬しか見えなかったけれど。他の文字より少し大きな字で書いてあった、“優しい物語”という言葉。丸で囲んでまであった。明星にとっていちばん大事なことなのかもしれないと、そう感じた。
だからあれ以来、ずっと違和感があった。不良だと恐れられ、みんなから距離を置かれている明星は、本当の明星なのだろうか。転校してきた時も、今目の前にある生々しい傷も。明星には似合わない、そんな気がして仕方ない。
「なあ、あのメモってなに?」
「言うかよ。ほっとけ」
「でも、すげー気になる」
「知らねえよ……」
「頑固じゃん」
「あっそ。お前はしつこい」
「…………」
埒が明かなくて、オレは頭をかきながら深いため息をついた。
少し冷静に考えれば、明星にとってオレが迷惑なのは正直分かる。突然話しかけてきたと思ったら、秘密にしたいことを根掘り葉掘り聞いてきて。ムカつくよな、当然だ。でも、ここまできて引き下がるのも癪だ。明星に声をかけるのに、それなりの勇気を使ったし。意地になっているだけだと言われたら、そうなのかもしれないけど。
「うーん……あ、じゃあさ、いいもんやるよ。明星は黒とオレンジだと、どっちが好き?」
「は?」
ふと思いついて、ポケットからキーホルダーをふたつ取り出す。さっきゲーセンでゲットしたヤツだ。
「見て」
「なにそれ」
「知らん、毛玉? うーん、じゃあ明星はオレンジな。オレがオレンジ持ってたら、お前とそっくりじゃんとか言っていじられそうだし」
「いや、いらない」
「黒のほうがよかった?」
「そういう意味じゃない」
「そ。じゃあオレンジな」
「ちょっ、いらねえって……」
「別に捨ててくれてもいいし」
受け取ってくれないから、明星のパンツのポケットに無理やりねじこんだ。大きなため息をついた明星が、
「お前、マジでうざすぎんだけど……」
と唸りながら夜空を仰ぐ。
「うん、オレもそう思う」
「……まさかとは思うけど、この毛玉と引き換えに教えてもらおうとか思ってる?」
「お、正解」
そりゃあもちろん、こんなおもちゃで釣れると本気で思ってるわけじゃない。でもなんでもいい、それこそ苛立ちでも構わないから、明星の気を引きたかった。
「マジでバカじゃん……」
「はは、そう。オレバカなの」
「……あー、もう!」
ぐしゃぐしゃと自分の髪をかき混ぜた明星は、今度は深く俯いてしまった。かと思えばまた空を仰いで、見下すようにオレをその目に映す。
「分かったよ……言わないと、いつまでもしつこそうだし。見られたもんは、お前を消しでもしないとどうにもならねえもんな」
「わーお、物騒〜」
さすが不良と名高い明星響だ。言い回しがちゃんと物騒。でも、もう不思議と怖くはない。話すほどに、オレの中に生まれた違和感は正しい気がしてくる。
そんなことより、話の続きが気になる。聞き逃さないようにと、明星との距離を数センチつめる。迷惑そうな顔をしたけれど、明星は逃げないでいてくれた。
「……あれは、小説用のメモ」
目をそらしてぶっきらぼうに、小声で明星がつぶやいた。
「おー、マジか。すげえ……明星、小説書いてんだ?」
正直、予想はついていた。だから、やっぱり、というのが正直な感想だ。あの時見えたプロットという言葉を検索してみたら、ストーリーの構成だとか地図だとか、そういったことが書いてあった。マンガか映画か、もしくは小説か。色々な想像をしたけれど、小説が正解だったらしい。
「……まあ、そんな感じ」
「すげーじゃん……えっ、すげー!」
「バカ、声でかい……別に、すごくもなんともねえよ」
不良だと恐れられて、こうして新たな生傷をこさえていても。明星はその手で、小説を書いている。しかもきっとそれは、優しい物語のはずで。どんなレッテルを貼られていようと、明星には“小説を書く”という芯があるらしい。
なぜだろう、無性に胸が熱くなってくる。下手したら、焦げつきそうなくらいに。この感情はなんだっけ。分かりそうで分からなくて、なんだか苦しい。それを誤魔化すように、もしくは正体が知りたくて。オレは明星に更に話しかける。
「なあ、いつから書いてんの? やっぱ難しい?」
「だからうるせえって……てか、俺もう帰るから。おい、天地」
「あ、オレの名前知ってんだ?」
「そりゃ知ってるだろ。秘密握られたかもしんない相手の名前くらい、把握してる」
「ええ、なにそれ怖い」
はは、と笑ってみせると、明星はやっぱりため息をついた。それから鋭い目でオレを射抜きながら、真正面から指さしてくる。うん、やっぱり物騒。そんでちょっと、失礼だ。
「いいか、お前の質問に俺は答えた」
「うん、教えてくれてありがとう」
「だから、もうつきまとうな」
「うーん、つきまとったわけじゃないけど。遊んでたら、たまたま見かけただけだし」
「屁理屈はやめろ。とにかく。話は終わった。もう俺のことはほっとけ。あ、あと、その……小説のこと、誰にも言うなよ」
「うん、言わない。それは絶対約束する」
両手を顔の横に掲げつつ、オレは神妙に頷いてみせた。絶対に、誰にも言ったりしない。言うもんか。明星のそれは、なんだか宝物のように思えるから。
「……はあ。じゃあ、帰る」
手を振ることすらせず、明星はさっさと駅のほうへ消えていった。なんだかオレは動けなくて、その背中をいつまでも見送った。胸にはまださっき灯った熱がくすぶっていて――知らず知らずのうちに、オレは心臓の部分のシャツをぎゅっと握りこんでいた。



