いよいよ文化祭の二日目、土曜日。今日はオレと明星(みよせ)にとって、特別な日だ。

「うう、緊張する……」
「大丈夫だ、天地(あまち)。ほら、ちゃんと飯は食え」
「食欲ない……」

 午前中はおばけ屋敷の受付にフルで座って、今は自由時間。明星と一緒に飲食のブースでホットドッグとたこやきを買って屋上前に来たけど、オレの食欲が行方不明になってしまったところだ。

「力が出ないと唄えねぇぞ」
「それはイヤだ……食べます」

 明星の言うことはもっともだ。おかげでちょっと食べる気になってきた。どうやらオレの食欲は、明星のポケットにでも入っていたらしい。

「なあ明星」
「ん?」

 たこやきは四つ食べた。ホットドッグは一個食べきれなくて、半分明星に食べてもらった。ペットボトルの水を飲んで、天井に向かってふうと息を吐く。

「オレの歌さ、絶対下手だと思うんだよ。初めて作ったから、音楽的にセオリー外れてるのかどうかとかも、全然わかんないし」
「うん、って返事したほうがいい?」
「はは、うん。それでいい。でもさ、オレ、気持ちだけはすげーこめたんだ」
「それはそうだな。頑張ってきたもんな」
「うん。自分の努力を認めてあげられるのって、初めてかも。オレ、一生懸命作った!」

 夏からこっち、約四ヶ月。数字にすると長く感じるけど、毎日必死にやってるとあっという間だった。その日々をいちばん知ってくれている人に、いちばんしっかり見ていてほしい。

「ギターやっていいのかなって悩んでた時、背中押してくれてありがとうな。他にもいっぱい、明星にはいっぱいお世話になりました」
「そんなかしこまって言われると、俺までなんか緊張してくるな」
「はは。なあ、ちゃんとまっすぐ見てて、聴いててな。オレ、頑張るから」
「うん。まっすぐはちょっと、約束できないかもだけど」
「えっ、なんでだよー!」
「まあまあ。でもちゃんと、絶対に。見るし聴くよ。俺も今日がずっと、楽しみだったから」

 立ち上がって、明星に向かって拳を突き出す。そこに明星の拳が重なって、勝ち気に笑ってくれた。それだけでもう、やり遂げられる気がするから不思議だ。


 体育館で行われる有志によるステージは、十三時に開演。オレの出番は十四時半頃だ。十三時半すぎに体育館に入ると、女子たちがキラキラした衣装を着てアイドルの歌を唄って踊っている最中だった。客席は大いに盛り上がっていて、踊っている子たちの名前なのだろう、しきりに呼んでは「キャー!」との歓声が上がっている。正直、圧倒される。オレ、ここで唄うんだ、たったひとりで。ギターケースのストラップを握る手に、つい力がこもる。でも、もう逃げられない。いや違う、逃げる気はない。

「よし」

 ひとりちいさく呟いて、ステージの袖裏へ向かう。そこは出番を待つ生徒たちでたくさんだった。漫才をやるふたり組もいれば、自分たちで考えた台本で芝居をする人たちもいる。楽しんでいる人も、真剣に取り組んでいる人たちも、きっとそれぞれが今日この瞬間のために練習を重ねてきたんだろう。

 ギターを抱いてはじっこの椅子に座り、緊張したりステージを眺めたりしていると。出番の三つ前に森山(もりやま)さんがやってきた。オレを見つけて、手を振ってこっちに近づいてくる。

「森山さん! 引き受けてくれて、ほんっとにありがとう! 今日はお世話になります!」
「いえいえ、どういたしまして」
「前にも言ったけどさ、どうしてもピアノの伴奏がほしかったから。すげー助かります」

 近くにあった空いている椅子を引き寄せて、森山さんに勧める。腰を下ろした森山さんは、なぜかオレをじーっと見つめてきた。

「…………? 森山さん? どうかした?」
「なんていうか、天地くん変わったよね」
「変わった?」
「うん。二年で初めて一緒のクラスになったけどさ。なんか、今すごくキラキラしてるよ」
「わあ、マジ?」

 まさか、そんなことを言われるとは思ってもみなかった。キラキラしてる、か。そんな綺麗な言葉が似合うとは思えないけれど、でももしそうなんだとしたら、明星しか理由が見当たらない。そう言おうとしたら、

「青春だねぇ」

 なんて森山さんにニヤニヤされてしまった。

「ええ〜……なんか恥ずかしいんだけど」
「いいじゃん、そういうの。すごくいいと思うよ」
「そうかなあ」

 明星とのこの数ヶ月を、他の人にもそう言ってもらえるのはなんだか誇らしい。あとで明星にも教えてやろう。と思うのだけれど。森山さんがなおもニヤニヤしていて、不思議に思えてきた。

「森山さん、なんでそんなニヤニヤしてんの? なんかあった?」
「んー? 最初はビックリしたけど、いいお役目をもらえたなあって。そばで見られて、私もなんか頑張りたいなって思えるし」
「う、うん。そんな風に思ってもらえて、オレも嬉しいよ。急にお願いしちゃったから、負担になってないならよかった」
「ふふ、まあそういうことにしとこっか」

 なんでだろう、会話が噛み合ってない気がする。もうちょっとつっこんで聞きたかったけど、

「次の方間もなく出番です、スタンバイお願いしまーす。えーっと、二年の天地詠太(えいた)さーん」

 とステージを運営する生徒に呼ばれてしまった。

「うわ、きた! じゃあ行ってくる! 二曲目になったらよろしくね!」
「はーい、いってらっしゃーい」

 ステージに続く階段を上りつつ振り返ると、森本さんが両手で手を振ってくれた。あれ、楽譜は? 森山さんが手ぶらなことに今気づいた。もう暗記しちゃったのかな、すごすぎる。

 ああ、緊張がやばい。もうどうにでもなれ! と勢い任せにステージへ出る。すると、大きな拍手が沸き起こった。すごいな、誰が上がっても快く迎えてもらえるんだ。勇気をもらいつつ、中心に置かれたスタンドマイクの前へ立つ。深呼吸をして、ブレザーのポケットのスマホにぶら下がる、黒い毛玉をぽんぽんと撫でる。宣言通り明星の真似をして、お守りとしてここまで連れてきた。

「えーっと。こんにちは。二年の天地です」

 緊張のあまり、自分の声がなんだか遠く聞こえる。なるほど、心臓が口から出そうって本当だったんだ。そんなことを頭の端っこで考えながら、ギターを構える。

「今日は二曲、唄わせてもらいます。一曲目は――」

 ステージの持ち時間は、一組最大で十分。十分も要らないな、フルで使わなくたっていいか、と最初は思ったけれど。せっかくだから、二曲披露させてもらうことにした。オリジナルの曲だけじゃ、きっとほとんどの人はつまらないから。まずはみんなが知っている曲を唄って、興味を持ってもらいたい。ギターを本気でやってみようと思い立って、最初に練習した曲。この曲はギター一本で、ワンコーラスと大サビを弾き語りで唄う。

 印象的なイントロに、体育館の中がザワッとしたのを肌で感じる。やばい、ゾクゾクする。音楽って、すげー楽しい。緊張で固くなっていた指先も、震えていた声も、いつもの調子へと溶けていく。余裕が出てきてふと顔を上げると、体育館の後ろのほうでこちらに手を振る三人組が見えた。伊藤(いとう)宮田(みやた)、それから明星だ。ちゃんと見てくれている、そう思うとすごく安心する。

 シャウトするように唄い上げて、ギターの音が消えて。一曲目が終わった時。呼吸に胸を上下させて顔を上げたら、大きな拍手がそこら中で鳴り響いた。

「あ、ありがとうございました!」

 マイクにお礼の言葉を乗せて、深く頭を下げる。すると拍手が少しずつ止んで、けれどみんなの目はオレに向けられているままだった。

「え、っと……二曲目は、オレのオリジナル曲になります」

 どうしよう。また緊張が胸に舞い戻ってきた。しかも、さっきまでより巨大だ。ドキドキと鳴る心臓が、耳にうるさい。

「この曲を作ろうと思ったきっかけなんですけど……オレはもうずっと、なににも真剣になれないまま、のらりくらり生きてました。でも、あるきっかけでギターをやりたいなって思い始めて、でもオレなんかがやっていいのかなって悩んだりもして……そんな時、背中を押してくれた人がいました。この曲は、その人とのことを書いた曲です」

 ちゃんと伝わっているだろうか。ここまで言ったら、明星にはさすがに誰のことか分かるよな。反応が気になって、体育館の後ろのほうに目を向ける。でもそこから、明星の姿はなくなっていた。

「……あれ?」

 なんでいなくなったんだ? 絶対聴いてって言ったのに。絶対聴くって言ってくれたのに。トイレにでも行っちゃったのかな。伊藤と宮田は明星がいないことに気づいていないのか、笑顔でこっちに手を振っている。

「あのー、天地くん。次の曲、お願いします」
「あ……はい。すみません」

 つい明星を探してしまって、運営の生徒に進めるように言われてしまった。時間は決まっているのだから、明星の戻りを待つことはできない。落胆する胸をごまかせないままギターを抱え直し、でも諦めきれずにもう一度後方を見る。すると、さっきまで明星がいた場所になぜか森山さんが立っていた。

「え!?」

 驚きの声がマイクに乗ってしまった。集まっている生徒たちが、何事かと首を傾げる。そんなの、オレだって分かんねえよ……

 戸惑っていると、伊藤と宮田、それから森山さんが笑顔でこっちを指差してきた。なんなんだ? マジで分かんない。やばい、ちょっと泣きそうになってきた。すると伊藤が口元に両手を当て、

「詠太ー、後ろー!」

 と大声を上げた。

「……後ろ?」

 言われるがままに振り返ったオレは、ますますなにが起こっているのか分からなくなった。舞台の後方、下手側にはグランドピアノが置かれている。そこに置いてある椅子に、明星が座っていた。

「え……な、なんで?」

 本来、そこには森山さんが座っているはずで。でも森山さんは体育館の後ろに立っていて、そこにいたはずの明星がここにいて。思わずピアノに駆け寄ると、明星が眉を下げながらそっと笑った。

「驚かせてごめん。でも、ピアノはちゃんと弾けるから。俺に任せてほしい」
「明星が、弾くの……?」
「うん」
「……オレ、明星の伴奏で唄うってこと?」
「だな。ダメか?」
「っ、ううん。ダメじゃない、全然!」

 なにがなんだか、オレはきっと起きていることの半分も分かっていない。でも――明星の伴奏とオレのギターで、オレが作った曲を唄う。それだけが分かれば、今はとりあえず充分な気がする。

 深呼吸をひとつして、マイクの前に戻る。

「バタバタしちゃってすみません! えっと、二曲目、やります! オレのオリジナル曲です。タイトルは……“blue”」

 明星のほうを振り返り、目を合わせる。ギターのボディを指先で二回たたき、ギターを弾き始める。4小節分演奏したら、ピアノの伴奏が入ってくる。ああ、やばい。すげー楽しい。明星と頷き合って、マイクに向き直る。

《くだらないと全部はぐらかして
 でもいちばん味けないのは自分自身で》

 歌詞に悩むオレに明星は言った、オレにとっていちばん大事な気持ちを書くといいんじゃないか、って。だったら、オレが唄うのはひとつしかない。

《振り返ったら今も痛い、傷んでいることが正解だ
 きっとずっとそうなんだろう
 僕が奏でる昨日はブルー》

 陸上部でのトラウマは、オレの十字架だった。オレのせいでみんなを巻き添えにしたのに、前を向くなんて許されないと思っていた。でも、背中を押してくれる人が現れた。

《遠い気がしたよひとりの背中が
 でも遠ざけていたのは僕のほうだった》

 ピアノの綺麗な音色が、オレを後ろから支えている。届いているだろうか、この歌が。

《その手がなかったら進めない僕を知っているだろう
 優しい世界は君の中にある
 君が綴る明日はブルー》

 明星と出逢わなかったら、どんなオレだっただろう。きっと未だに、適当に生きていた。でも、明星だって強いわけじゃないんだよな。痛みを知っているから、添えられる手を持ってるんだよな。

《響かせてくれるから見える光があるよ、この道だ
 君もそうだと思ってもいい?
 僕らの紡ぐ心はブルー》

 この歌は明星の、明星とオレの歌だ。オレが明星に見る光を、オレも少しくらいあげられていたらいいなって。明星が輝くことを願ってやまない歌だ。悲しい青に、美しい青、それから未来を願う青。泣くように、叫ぶように、息を切らしてでも唄いたい。そんな青春の歌になったよ、明星がいてくれたから。

 ゆっくりと消えるピアノの音に、ギターの音も溶けていく。静寂に包まれた体育館に、息を吸うオレの音だけが響いて。次の瞬間、信じられないくらいの歓声が空間を埋めつくした。

「明星……」

 胸を大きく上下させながら、後ろを振り返る。するとすぐそばに明星が立っていて、オレは無我夢中で抱きついた。

「明星! ちゃんと聴いてた? オレの、お前の歌」
「うん、聴いてたよ」
「っ、伝わった?」
「ああ、すげー伝わった。俺のこと、書いてくれてたんだな」
「うん、うん。そうだよ」

 今もみんなが拍手をしてくれているから、耳元じゃないと声が届けられなくて。しがみついたまま話せば、明星もオレの耳元で頷いてくれた。

「二年生の、天地詠太さんでしたー!」

 運営の生徒が、オレの出番の終わりを告げるアナウンスをした。そしてオレたちのそばに駆け寄ってきて、

「お取りこみ中すみません……次の人たちがスタンバイするので、はけてもらえますか?」

 と困ったように言われてしまった。オレはそこで初めて、体に力が入らないことに気づく。

「うわ、力抜けちゃったかも……」
「マジ? 天地、ちょっとギター背中に回すぞ」
「へ? うん……って、うわあ!」

 なにをするのかと思った次の瞬間には、オレは明星に抱えあげられていた。上半身を明星の肩に担がれていて、うん、米俵の気持ちってこんな感じなんだなあ。体感する日がくるなんて、思ってもみなかった。なぜか「キャー!」と上がる歓声を背中に聞きながら、明星と共に舞台袖へとひっこむ。するとそこには、伊藤と宮田が待ってくれていた。

「詠太、すげーじゃん。めっちゃよかったぞ」
「マジびっくりした! 詠太歌うまっ! やっぱ俺、先見の明? ってヤツ? あるわ〜」
「へへ、さんきゅ」
「天地、立てそうか?」
「あ、うん。多分」

 ゆっくりと下ろしてもらったら、ちゃんと立ててほっとした。ギターを抱え直していると、

「天地くん、お疲れ様!」

 と声をかけられた。森山さんだ。

「あ! 森山さん! 顔上げたら後ろに立ってるから、めっちゃびっくりしたんだけど!? てかそうだよ、明星も! どういうこと!?」
「直前で申し訳なかったんだけど、俺に弾かせてほしいって、森山さんに無理言った」
「そーう。明星くんがピアノ弾けるって言うから、ほんとびっくりした。だったらふたり仲いいんだし、明星くんが弾くほうがいいに決まってんじゃん。せっかくだからサプライズにしようよって、提案させてもらいました」
「マジか……」

 森山さんがピースサインをしながら、事の顛末を説明してくれた。オレの知らないところで、そんなことが起きていたなんて考えもしなかった。放心していると、

「あのー、終わった方はここからもはけて頂く決まりなので……」

 と運営係に注意されてしまった。オレたちが悪いのに、言いづらそうにしていてこちらこそ申し訳ない。

「すみません、すぐ出ます! 今日はお世話になりました!」
「あ、こちらこそ! 天地さんのステージ、すごくよかったです!」
「えっ、ありがとうございます!」

 森山さんは友だちと約束があるらしく、「じゃあね!」とすぐに去っていった。伊藤と宮田が先に出て、それに続いて舞台袖から出た時。

「天地」

 と明星に呼び止められた。

「んー?」

 ステージでは大音量で音楽が鳴っていて、声が聞こえるように顔を寄せ合う。

「なあ、天地ここ、押してほしい」
「押す? なに?」

 明星は手にスマホを持っていて、画面を見せてきた。なんだろう。

「コンテストの応募画面。ここ押したら、応募完了だから」
「マジか。えっ、オレが押すの!? 今!?」

 驚いて明星の顔を見ると、明星はどこか清々しそうな笑顔をしていた。ああ、本当にオレがこのボタンを押すことを望んでいるんだ。もう一度画面を見てみても、詳しくないオレにはちっとも分かんないけど。ここに明星の努力が全部詰まっているんだと思うと、このボタンに重みを感じてくる。

「天地の歌、本当にマジでよかった。だから今ここで、天地に押してほしい」
「うん、分かった」

 体育館の前方、舞台袖の控室を出たところ。ここにいる全員の視線は、ステージ上で披露されているヒップホップのダンスに集中している。多くの人がいるのに、なんだか明星とふたりきりみたいな感覚になる。

「待って、なんか緊張する!」
「ふ、天地が?」
「だーって、明星が頑張ってたの知ってるからさあ」
「ありがとう。だから天地にやってほしいんだよ、天地が唄ったここで」
「明星……ん、そっか」

 気を取り直して、ボタンの上に指をかざす。

 明星の夢が、届きますように。真摯で優しい人の夢こそ、どうか叶ってほしい。

「いくぞ」
「うん」

 指先に力をこめて、オレはいよいよ「えい!」とボタンをタップした。するとすぐに画面が切り替わって、“投稿が完了しました”との文字が表示された。明星はいつの間にか息を詰めていたみたいで、ふーっと深く息を吐き出した。

 分かるよ、すげー分かる、その気持ち。感極まりながら明星に向かって手をかざすと、そこに明星の手が重なった。パチン、といい音が鳴って、オレたちはまたどちらからともなくハグをした。

「お疲れ、明星!」
「天地もお疲れ」

 ステージを終えたばかりのオレと、コンテストへの投稿を完了した明星。ふたりの夢が重なって、ひとつになる。そんな心地が、たしかにオレの胸に生まれた。


「今送ったURL開いたら読めるから。俺が書いた小説」
「うん、分かった。やば、すげー楽しみ」

 二日間に渡って開催された文化祭は、大盛況で閉幕した。担任の先生がジュースを買ってきてくれて、まだおばけ屋敷のままの教室でみんなで乾杯をした。

 解散になった頃には外はもう夕焼けで、明星とふたりで駅までの道を歩いている。ちなみに伊藤と宮田、それから多くのクラスメイトはカラオケで打ち上げをするらしい。オレも誘われたけれど、明星と話したくて断った。明星もきっと同じ気持ちで断ってここにいるんじゃないかなと、そんな気がしている。

「あー、終わっちゃったなあ」
「だな」
「てか、明星には色々聞きたいことがある!」
「あー、だよな」
「うん。ピアノ弾けたんだ?」

 つい立ち止まって尋ねると、明星は指先で頬をかきながら、目を逸らして頷いた。

「小さい時から、母さんとかじいちゃんに教えてもらっててさ。自分の意志ではじめたわけじゃなかったけど、楽しくて好きだった。でも……母さんが出ていった後、俺が弾いてたら父親に怒られた。うるさい、そんなの弾くなって。そんで、その後すぐに捨てられた」
「そんな……」
「母さんのこと思い出すからだったんだろうけど、それが結構ショックでさ。じいちゃんちに引っ越してからも、嫌な思い出のほうが強烈で……全然弾く気にならなかった」
「そうだったんだ……」

 明星の家に初めて行った時、居間から見えるピアノを誰が弾くのか尋ねたことがある。たしかに明星はひと言も、俺も弾けるよだなんて言わなかった。

「でもさ、不思議だよな。明星のギター毎日聴いてたら、また俺もピアノ弾きたいなって少しずつ思うようになって。明星がオリジナル曲にピアノの伴奏がほしいって言った時は、俺がやりたいってすぐに思った。でも、なかなか踏ん切りつかなくて……」
「あ……もしかして、たまに明星が悩んでそうな顔してたの、それ?」
「あー……うん、だな。でも、昨日やっと決心がついた」
「っ、昨日やりたいことあるって言ってたのも、これか!」
「当たり。でも森山さんの気持ち次第だって思ったから、言えなかった。横取りするわけにはいかないしな。言うの遅くなってごめん」
「っ、そんなのいい! 明星と一緒に音楽できるなんて夢にも思わなかったから、最高に嬉しかった!」
「そっか。それならよかった。ちなみに、なんだけどさ……」
「ん?」

 なにかを言おうとしながら、明星が立ち止まった。オレも立ち止まって、明星の顔を覗きこむ。

「明星? どうした?」
「あの伴奏……じいちゃんが作ったんじゃないんだ」
「え……え!? もしかして……」
「うん。俺が考えた。じいちゃんには正直に言ったほうがいいって言われたけど、じいちゃんが作ったことにしてくれって頼んだんだ」
「ひえ、マジか……」

 今日は一体、何度驚けばいいのだろう。胸の奥がじわりと熱くなりはじめて、ああやだなあと思うのに、涙になって出てきてしまう。

「天地? え、泣いてる?」
「だって、すげー嬉しいじゃん、そんなの……」
「嬉しい?」
「もちろん、おじいちゃんが作ってくれたんだったとしてもすげー嬉しかったよ? でもさ……明星は小説だって一生懸命書いてたし、まだピアノに踏ん切りがつかなかった時だろ?」
「あー……うん、そうだな」
「それでも、オレの曲のために考えてくれたんだ?」
「まあ、な」
「明星がいなきゃ、blueはそもそも書けなかったのに。明星のおかげで、どんどん宝ものになってく感じする」
「大げさじゃね?」
「ぜーんぜん。本気で思ってるから」

 明星はそっぽを向いちゃったけど、赤い顔をしていた気がする。照れているのかもしれない。だとしたら、オレの感謝の気持ちがちゃんと伝わってるということだ。満足感を覚えつつ、オレばっかり頼ってるなあ、なんてことも思えてくる。

「天地? どうかしたか?」
「え?」
「口、とがってる」
「あ……」

 駅に着いて、改札を抜ける。タイミングよく電車がやってきて、すぐに乗ることができた。

「なんていうかさー、オレは明星にめっちゃ助けられてるじゃん。最初からずーっと。でもオレは明星にそんなたくさんのこと、できてないなって。そんなん、ちょうど50:50でなんて無理だって分かるけど、ちょっと寂しく思っちゃった」

 それだけじゃない。夏休みにかかげたオレたちの夢は、今日どちらも達成してしまった。友だちはずっと友だちだけど、もうこんなに一緒にいることはないのかなって。金曜日になったって、もう明星の家に泊まる理由はない。いいことなのに、めちゃめちゃ寂しい。

 なんだか明星の顔が見られなくなって、オレは窓の外に視線を移す。この電車だって、もうすぐさようならの瞬間を連れてくる。ああ、ダメだな。なんだかなにを取ったって、感傷的になってしまう。

「天地」
「んー?」
「あーまーち。こっち見て」
「…………」

 数秒黙りこんでから、オレはゆっくりと明星のほうを見る。とがったくちびるを戻せないままのオレを、ガキだなって笑えばいいよ。そう思ったのに。明星はやけに優しい顔で、オレを見ていた。

「たしかに、50:50は無理だよな」
「……だよな」

 だけど、話の内容は辛辣だ。現実をつきつけられてしまう。

「多分勘違いしてると思うけど、俺のほうが天地にたくさんのものをもらってるって意味だぞ」
「……いや、そんなことはないだろ」
「そんなことあるよ、そんなことしかない」
「ええー、例えば?」

 電車が停まって、多くの人を飲みこんだ。押しやられたオレたちは、ぎゅっと体が近づく。

「例えばっていうか……今俺にあるものは全部、天地がくれたものだしな」
「…………? どういう意味?」
「父親のこともだし、その……学校で、ひとりじゃなくなった。天地が俺といるから、みんな安心したんだろうな。最初は別にひとりで平気って思ってたけど、クラスで受け入れられるようになってさ。やっぱり、嬉しい」
「明星……」
「それに……小説も。天地のおかげで完成させられた」
「それはだって、オレもだよ。明星と一緒に明星の家でやったから、完成させられたし」
「そういう意味じゃなくて」
「え? ……あ、明星んちの駅だ」

 まもなく明星の降りる駅に到着するアナウンスが流れ、電車が減速をはじめた。あーあ、話も途中になっちゃうな。ラインで聞けばいいかな。電話もいいけど、月曜に学校で教えてもらうのは待てないかも。

 そんなことを考えていたら、手首を明星に掴まれた。

「へ? なに?」
「天地のおかげでできた小説だって、早く読んで実感してほしい。いや、そうじゃなくてもだけど」
「…………? うん」
「うち、来てよ」
「えっ」

 電車が駅に入った。ドアが開いて、周りの人たちが一斉に動きはじめる。明星もその波に乗ったから、手を握られているオレは一緒に降りてしまった。呆然とするオレとそれに付き合う明星を置いて、同時に下車した人たちはぞくぞくと改札へ向かっていく。

「この後なんか用事あった?」

 人が少なくなった頃に、明星がオレの顔を覗きこんできた。

「いや、ないけど……え、いいの? 行っても」
「もう金曜日も怖くないし、一緒に叶える夢もないけど……天地との時間が好きだったし。天地は? もういらない?」
「っ、いる! オレも! オレもめっちゃ好きだった! もうなくなんのかなって、寂しかったけど言えなかった!」
「そっか、よかった」

 ほっとした顔を見せて、明星はさっさと歩き出してしまう。オレは慌てて追いかけて、明星の前に回りこむ。

「てかさ! さっき言ってたのどういう意味?」
「…………? なに言ったっけ」
「明星の小説、早く読んで実感してほしいって言ってたじゃん! その、オレのおかげでできたーって」
「あー……うん、そう」
「なあ、どういう意味かって聞いてんのー」

 自分で言い出したのに、明星は少しずつ歩くのが早くなってオレより先に改札を抜けてしまった。並ぼうと思ったら走んなきゃいけないくらいには、コンパスに差があって腹立つ。

「まあ、読んでよ。URL送ったろ」
「もしかして、読めば分かるってこと?」
「そういうこと」
「っ、マジか! じゃあすぐ読む! 急いで読む! ……あ、なあ見て。めっちゃ空綺麗」

 駅を出たら、日が沈んだ空が濃い青に染まっていた。夜なのに時間帯で青く見えることがあると、前にテレビで言っていた気がする。

「なあ明星、こういうのなんて言うんだっけ」
「……ブルーアワー。日没後と、日の出前にも見られる」
「へえ、さすが明星。物知りだな」
「まあな」
「なー、明星の小説読むのめっちゃ楽しみ。速攻で読んで、感想言うからな」
「そんなすぐには読めないと思うけどな」
「マジ? どんくらいあんの?」
「10万文字くらい」
「10万文字!? って、どのくらい?」
「読み終わるのに多分……3時間くらい?」
「えっ、長っ! すげー! ちなみに、タイトルは?」

 そう尋ねたら、明星がふと立ち止まった。青い夜空を見上げて、それから両手の指で作ったフレームにオレを収める。

「“ブルーアワーに会いに来て”」
「えっ、ブルーアワー。今言ってたヤツ」
「だな」
「すげー偶然。オレの曲もblueだし。青繋がりだ」
「それ、俺も思った」
「へへ、な。ちなみに名前は? 明星(ひびき)のまま?」
「いや、ペンネームにした」

 再び歩き出した明星を追いかけて、隣に並ぶ。いつも歩いている道だけれど、お互いに成し遂げたものがあるだけで、全く違う場所みたいにも思える。

「マジ? なんてつけたん?」
夕星(ゆうづつ)(しょう)
「ゆうづつ、しょう?」
明星(みよせ)ってさ、“みょうじょう”っても読むの知ってる?」
「うん、知ってる」
「金星のことをさ、明星って言うんだよ。そんで、金星の別名に夕星ってのもあって。夕方の夕に星で、ゆうづつ」
「なるほど、発想がかっこよすぎる。じゃあ“しょう”は?」
「歌唱の唱」
「へえ。あ、それは分かった! 響って、音楽的だもんな。だからだ」

 前に一歩出て、明星の顔を見上げる。自信があったから、ドヤ顔になっている自覚がある。それなのに、

「あー、うん。まあ、そんな感じ」

 と明星の歯切れは悪い。

「え? なんか微妙っぽくない?」
「そんなことないだろ」
「ええ、違うなら教えろよぉ!」
「合ってる合ってる」
「怪しいってー!」

 腕をつかんで揺すってみても、両手をパチンと合わせて懇願しても明星は口を割らない。でもまあ、いいか。これからだってオレたちの仲は続くんだから、ゆっくり教えてもらえばいい。とりあえず今は、今日という日をもっともっと最高にするために、早く明星の家に帰りたい。

「ケチ明星ー。まあ、今日のところは勘弁してやるよ」
「それは助かる」
「あ! ほら、他の意味あんじゃん」
「…………」
「はは、図星ー! でもとりあえず、今は早く夕星唱先生の小説読みたい。早く行こ!」
「おっけ。あ、天地がよかったら、歌ありバージョンもじいちゃんとばあちゃんに聴かせてやってほしい。天地のblue」
「あっ! そうじゃん! 今までハミングだったしな! ピアノは明星な!」
「了解」

 居ても立ってもいられなくなって、ふたりでとうとう走り出す。オレの背中でギターが揺れて、空はまだまだ綺麗なブルーアワー。ふたりのポケットからは、オレンジと黒の毛玉が揺れている。

 今まででいちばん、青春の文字が色濃くオレたちを彩っている気がする。控えめに言って、最高だ。