「ふあ〜……」
「すげーあくびじゃん。昨日はあの後カラオケで練習したんだよな? 遅かったのか?」
金曜日。まずは校内の教師や生徒のみでの、文化祭がスタートした。外部の人を迎える明日のため、流れを見るという目的もある。オレと明星は教室の外に並べられた机の前に座り、受付の仕事に就いているところだ。
「高校生は十一時までしかダメらしくて、それまでだったけどな」
「なるほどな。でも気持ちは分かるけど、体調崩したら元も子もねえんだから、ちゃんと寝ろよ」
「うん。なあ、今日って明星の家行っても平気? あ、いらっしゃいませー」
一年生の女の子三人組がやってきた。このおばけ屋敷の初のお客様だ。立ち上がったオレは教室の後方へ向かい、
「入口はこちらでーす。楽しんできてね」
と案内する。その間に明星が前方の扉を少し開けて、中にいるクラスメイトに来客を伝える。この合図で、おばけたちがスタンバイできるというわけだ。しばらくしたら中から悲鳴が聞こえて、明星とハイタッチをする。滑り出しは最高のようだ。オレは絶対に、おばけ屋敷なんて入りたくないけれど。
「さっきの話だけど、うちは来てもらって平気。てか、普通に来ると思ってた」
「あ、マジ? やった。明日は土曜っつっても学校だからさ、勝手が違うかなって一応聞いてみた」
「なるほどな」
「うん。でも、ダメって言われても行ってたかも! いつも通りお泊まりの準備もしてきたし」
「はは、なんだよそれ。聞く意味」
「それな」
お窺いは立てなきゃと本当に思っていたのだけれど、ダメと言われてもマジで行くつもりだった。今日は金曜だから。夏休みのあの一件から、一度も親父さんからの連絡はない。こんなに空いたことは初めてらしく、心を入れ替えたのかもしれないと明星は言っていた。そうだったらそれがいちばんいい。でも万が一があるから、金曜日はどうしても明星のそばにいたかった。
「終わった〜!」
文化祭一日目が終了し、帰りのホームルームには宮田からの反省点がいくつか上がった。それじゃあ明日はどうするか、とみんなで意見を出し合って解散。今日は久しぶりに、まだ外が明るいうちの下校となった。
伊藤と宮田と駅で別れ、明星とふたりで明星の家へと向かう。おじいちゃんとおばあちゃんに挨拶して、二階の明星の部屋に上がる。ケースからギターを取り出して、ベッド前に腰を下ろす。
「あー、やっぱここでギター触んのがいちばん落ち着く……」
「ちょっと久しぶりだよな」
「な。最高」
明日はいよいよ、文化祭のステージでオリジナル楽曲を披露する。真正面の壁に貼ってある、夏に明星と書いた紙を眺める。ちょっとたるんでしまった紙が、この数ヶ月を物語っている。
“この夏のオレたちの夢!!
明星→小説を一本書き上げる
11月しめ切りのコンテストに応募!
天地→オリジナル曲を作る
文化祭のステージに出る!”
これを達成するんだ。明星も、オレも。明星はもう完成だと言っていたけれど、明日の応募に向けてもう一度見直しをしているようだ。その背中を頼もしく思いながら、オレはギターの弦を押さえ、音を奏でる。歌詞はここでは唄えないから、ハミングでメロディを口ずさむ。
充実した時間だ。目をつむって、ステージの上を想像して。交互に打ち寄せる緊張と期待に、息を深くしていた時。スマホの着信音が部屋の中に響いた。鳴ったのは明星のスマホで、メッセージを受信した報せのようだ。
「…………」
「…………? 明星?」
スマホの画面を確認した明星が、息を飲んだのが分かった。嫌な予感がする。外れていてほしい。そう願いながらも名前を読んだら、ぎこちない動きで明星がこちらを振り返った。
「……天地」
「うん」
眉間をぎゅっと寄せて、くちびるはちいさく震えているように見える。オレは思わず立ち上がって、明星の肩に手を置いた。
「……連絡、父さんからだった」
「っ、なんだって?」
「今日こっちに来るから、会いたいって」
「絶対行かせたくないんだけど」
「でも、行かないとここまで来る。じいちゃんたち巻きこみたくない」
どうして、よりにもよってこんな日に連絡を寄越してくるんだろう。明星は物語にピリオドを打って、大きな一歩を踏み出そうとしているところなのに。タイミングが悪すぎる。
「じゃあオレも行く」
「ダメだ、連れていきたくない」
ちょっとだけ期待した。オレも行くと言ったら、オレのために明星は行かない選択をするんじゃないかって。でもそうじゃないなら、こっちだって意志は決まっている。絶対に、絶対に引いてやらない。
「明星、お前ふざけんなよ」
「っ、え……?」
「オレはさ、冗談とかその場の勢いでオレも行くって言ったんじゃねえからな。こないだも、今も。お前が自分を大事にできないなら、オレがする。もう絶対にケガなんかさせない。あの野郎、オレが殴ったっていい。マジだから」
「……天地。ごめ……」
「あっ、このことで謝るのも禁止って言ったよな?」
「……ん、そうだったな」
それからオレたちは、おじいちゃんとおばあちゃんにちょっと出かけてくると声をかけて明星家を出た。歩いている時も電車に乗っている時も明星は黙りこんでいて、なんだか今にも崩れるんじゃないかって不安で。オレは明星のズボンのベルトループに、ずっと指をひっかけ続けた。
今までと同じ、横浜の夜の街。明星の父親が指定した場所は、とあるレストランだった。
「なんでレストラン?」
明星はずいぶんと戸惑っていて、不安そうに瞳を揺らしている。今までは必ず、あの路地裏だったらしい。その背中に手を添えて、オレはただ「なんでだろうな」と同調することしかできないけれど。人目につくところを選んだのだと思うと、殴ったり殴られたりの最悪の事態は避けられる気もする。
入店すると、奥のほうに明星の父親が座っていた。店員の人に待ち合わせだと声をかけて、そこへと向かう。
「君はこないだの……」
「こんばんは。明星ひとりで来させたくなかったんで」
明星の父親は相変わらずスーツをきちんと着こなしていて、真面目に見える。いや、見た目で判断することは本当に意味がないって、身を持って知っているけれど。
「響、それから……」
「天地です」
「天地くん。お腹は空いてる? 好きなものを注文してほしい」
「いえ、オレは……」
「俺もいらない」
「……そうか。じゃあ、飲みものだけでも注文させてくれ。すみません」
明星の父親は、紅茶を三つ注文した。それが運ばれてくるまで、誰もなにも話さない。オレでさえ緊張しているのに、明星はどんな思いでいるだろう。
ふと隣を見ると、明星は足の上でぎゅっと拳を握っていた。どうにかほどいてやりたいと思った時、明星のズボンのポケットからあのオレンジの毛玉が覗いているのに気がついた。リュックにつけていたはずなのに、いつの間に。知らなかったなあと思いつつ、明星のスマホをそっと抜き取る。怪訝そうに明星がこちらを見るけれど、気にせず明星の手を開いて毛玉を滑りこませた。やわらかいものを手の中で遊ばせていたら、ちょっとは落ち着くんじゃないかな。その意図が伝わったのか、明星はほんの少しほほ笑んでくれた。
それからしばらくして、紅茶が運ばれてきた。でも誰も手をつけない。沈黙を破ったのは、明星の父親だった。
「響……今まですまなかった」
「……え?」
まさか、この人が謝るなんて想像もしていなかった。明星も同じように感じたようで、信じられないといった様に目を見開いている。
「こんな風に呼び出したりするのも、最後にする。母さんのことも、もうきっぱり忘れるよ」
「……本当に? そんな、急に言われても信じられない。そんなこと言って、また……!」
呼吸を荒らげながら、明星が自分の髪をくしゃっと握りこんだ。混乱しているんだろう。毛玉を握っているほうの手に、手を重ねる。すると明星は少し落ち着いたのか、深呼吸をひとつした。よかった。
ただ、オレも明星と同じ気持ちだ。簡単に「そうですか、それじゃあよかった」と済ませられるような話じゃない。
「……なんで? なんで急にそういう気になった?」
「この前、天地くんが来ただろ。君にまでケガをさせてしまって……申し訳なかった。それで、もうこういうことは辞めようと思ったんだよ。本当はどこかで分かってた。こんなことをしたところで、響も母さんも戻ってくることはないって」
「…………」
なんだろう。すごく、すごくムカつく。腹が立ちすぎて、じわりとまぶたが熱くなってきた。だって、おかしいだろ。オレにケガをさせたから気づいた? その前から、明星はもっとひどい傷を負って、苦しんでいたのに。
「あのっ!」
思考は上手くまとまらないけど、ぶちまけてやろうと思った。他の客の目もどうだっていい。
でもそんなオレを制止したのは、他の誰でもない明星だった。明星の手に重ねているオレの手を、明星はもう片手で上からぎゅっと握りこんだ。
「っ、なんで止めんだよ!」
「ごめん。でも、俺に先に言わせてほしい」
「明星……」
「お父さん。もう一回聞くけど、さっき言ったのは本当? お母さんにも俺にも、もう関わんない?」
「……ああ、約束する」
「よかった。すげーしんどかったから……殴られたのも、すげー痛かった」
「……本当にすまなかった。ひどいことをした」
「っ、でも!」
「……響?」
明星の手に、ぎゅっと力がこもった。ああ、歯を食いしばって頑張ってるんだ。なんとか力になりたくて、明星の指先を握りこむ。ひとりじゃないって伝われって、願いながら。
「なんでそれ、最初から気づいてくれなかったんだよ。天地のこと、っ、大事な友だちのこと、ケガさせられて俺もすげー後悔した。俺のせいで、天地までケガしちゃった、って。でもお父さんは、あんたは! もっと早くから、こんなことになる前から、分かってほしかった! あんたの言葉で、手で、お母さんと俺はずっと痛かったのに……天地を傷つけないと気づけなかったとか、マジで……っ、ムカつく……! なんなんだよ!」
明星の声は途中から、涙で濡れていた。言葉が途切れて、絞り出すような声の隙間で喉が鳴って、聞いているオレが苦しくなるくらい、心からの叫びだった。明星の父親はそんな明星を見て、愕然とした顔でくちびるを強く噛みしめていた。
明星に言われる今の今まで、本当に分かっていなかったのだろう。連絡をしなかったこの数ヶ月の後悔と最初に謝った言葉が、明星と明星のお母さんにまっすぐ向いていなかったことを。他人を傷つけるのはさすがにまずいだなんて、ただ自分の体裁を守っていただけだ。
「明星、他に言いたいことはある?」
明星の肩を支えながらそっと尋ねる。
「じいちゃんとばあちゃんのとこにも、絶対に来んな」
震えた声でそう言った明星に、明星の父親は力なく頷きながら
「約束する」
とだけ答えた。
「天地、帰りたい」
「うん、行こう」
立ち上がったオレたちに、明星の父親はなにも声をかけてこない。明星とオレも、もうなにも言うことはなかった。手つかずになってしまった紅茶からあがる湯気まで、この人の後悔に強く刻まれればいい。
レストランを出ると、明星が
「こっち」
とオレの手を引いてひとつ奥の道へと歩き出した。今の今まで支えていたのはオレのほうだったのに、明星の手は迷いなくオレを引っ張っていく。
「明星? どうした?」
答えることなく進んで、人気のない場所で明星は立ち止まる。そしてこちらを振り返って、オレの肩に頭を乗せてきた。
「ちょっと、肩貸して」
「明星……好きなだけどうぞ。今ならタダにしてやる」
「……ふ、いつもは有料なんだ?」
「あは、そう。でもまあ、明星なら特別にいつでもタダでいいけど」
「なんだそれ」
声は笑っているのに時折鼻をすすって、深い息を吐く。肩のところがちょっと濡れてきた。そんな明星の髪をぽんと撫でると、明星は少しずつ心を零しはじめる。
「天地がさ、俺の父親のこと、すげー怒ってくれんじゃん」
「うん」
「それが結構衝撃だったんだよ。俺、怒ってもよかったのかって。耐えることが正解だと思ってたから」
「……うん」
「だから、さっき気持ち全部言えたと思う。俺、怒ってたよな?」
「うん、すげー怒ってた。ちゃんと言えてて、かっこよかったよ」
顔を上げた明星と、どちらからともなくパチンと手を合わせる。本当に、すごくかっこよかった。明星はやっと怒りの感情を露わにすることで、自分のことを大切にできたんだ。
駅までの道を、ふたりで並んで歩く。明星のポケットで揺れる毛玉を指でつつきながら、
「明星、いつの間にスマホにつけたん? 毛玉」
と尋ねてみた。
「さっき、家出てくる時。その……お守りになるかなって思って」
「へえ〜? お守りねえ?」
「天地……そのニヤけ顔やめろ」
「えー、だって嬉しいんだもん。オレがあげたヤツがお守りになるとか。でもー、本体が隣にいますよー」
「……うっせ」
「はは。でもいいな。オレもリュックじゃなくてスマホにつけよっかな。いちばん身近なもんだしな」
「なあ、天地」
「んー?」
ゆっくりと立ち止まった明星が、こちらを振り返った。真剣な顔でちょっとだけくちびるをきゅっとしながら、
「あのさ、今日は本当にありがとな。明日本番なのに、ギターの時間減っちゃったよな」
と申し訳なさそうに言う。
「それは明星も同じだろ。小説の推敲ってヤツ、やってたろ」
「まあ、そうだけど。自分の親のことだから、俺はしょうがないし」
「いいんだよ。明星のことはもう、オレのことみたいなもんだから」
「はは、そっか。……うん、ありがとう」
もしかして、ちょっとくさいこと言っちゃったかな。でも本当に、明星のことは自分のことみたいに、いや自分のこと以上に感じる瞬間がたくさんある。なんだか恥ずかしくなってきた頃、
「あのさ……俺、実はもう一個やりたいことがあって」
と明星が言った。なんだか、意を決したような表情だ。
「やりたいこと? 小説以外にってこと?」
指先で頬をかいて、視線は少し斜め先の道路を見ている。明星って、照れ隠しする時にぜったいに頬をかくんだよな。
大事なことを差し出すみたいに、明星は続ける。
「うん。本当はずっと言いたかったんだけどさ。踏ん切りつかなくて。でも決めた、今決めた」
「うん」
「ただ、俺の気持ちだけで動けることじゃなくて……オーケーもらえたら、やる」
「うん。……え、なに? もしかして、今は教えられないって話?」
「そういうことだな」
「ええ!? なんだよそれぇ! そこまで言っといて?」
「決意表明だけはしておきたかったから」
「ええ、むりー! めっちゃ気になるー!」
「はは、マジですぐだって。ダメだったとしても、ちゃんと教える」
明星が一体なんの話をしているのか、オレにはちっとも分からない。なのに明星はどこかすっきりとした顔をして、駅へ向かって歩き出してしまった。
「ちょ、明星〜! すぐっていつ!? それだけでも教えろよぉ!」
「うーん、明日」
「明日? 絶対だな!?」
「うん、絶対」
明星のやりたいことってなんだろう。見当もつかない。でも、明日教えてくれるのなら、ちょっとだけの我慢か。
明日は文化祭のステージ本番で、明星の小説をコンテストに応募する日。そして、明星のもうひとつのやりたいことを教えてもらう日。明日は予定がてんこもりだから、今日はもうしっかり休むのがいいかも。でもやっぱりギターにちょっとは触りたいし、もっと明星と話していたい。
「明星ー」
名前を呼んだら、明星が振り返る。
「なんだ?」
「なんでもなーい」
「ふ、なんだそれ」
気の抜けたように笑う明星の隣に、数歩を駆けて並ぶ。今日は色々なことがあったけれど、今明星が笑っていてくれてよかった。明日も笑っていられたら、夏からこっちのオレたちに花丸をつけてあげたい。
「すげーあくびじゃん。昨日はあの後カラオケで練習したんだよな? 遅かったのか?」
金曜日。まずは校内の教師や生徒のみでの、文化祭がスタートした。外部の人を迎える明日のため、流れを見るという目的もある。オレと明星は教室の外に並べられた机の前に座り、受付の仕事に就いているところだ。
「高校生は十一時までしかダメらしくて、それまでだったけどな」
「なるほどな。でも気持ちは分かるけど、体調崩したら元も子もねえんだから、ちゃんと寝ろよ」
「うん。なあ、今日って明星の家行っても平気? あ、いらっしゃいませー」
一年生の女の子三人組がやってきた。このおばけ屋敷の初のお客様だ。立ち上がったオレは教室の後方へ向かい、
「入口はこちらでーす。楽しんできてね」
と案内する。その間に明星が前方の扉を少し開けて、中にいるクラスメイトに来客を伝える。この合図で、おばけたちがスタンバイできるというわけだ。しばらくしたら中から悲鳴が聞こえて、明星とハイタッチをする。滑り出しは最高のようだ。オレは絶対に、おばけ屋敷なんて入りたくないけれど。
「さっきの話だけど、うちは来てもらって平気。てか、普通に来ると思ってた」
「あ、マジ? やった。明日は土曜っつっても学校だからさ、勝手が違うかなって一応聞いてみた」
「なるほどな」
「うん。でも、ダメって言われても行ってたかも! いつも通りお泊まりの準備もしてきたし」
「はは、なんだよそれ。聞く意味」
「それな」
お窺いは立てなきゃと本当に思っていたのだけれど、ダメと言われてもマジで行くつもりだった。今日は金曜だから。夏休みのあの一件から、一度も親父さんからの連絡はない。こんなに空いたことは初めてらしく、心を入れ替えたのかもしれないと明星は言っていた。そうだったらそれがいちばんいい。でも万が一があるから、金曜日はどうしても明星のそばにいたかった。
「終わった〜!」
文化祭一日目が終了し、帰りのホームルームには宮田からの反省点がいくつか上がった。それじゃあ明日はどうするか、とみんなで意見を出し合って解散。今日は久しぶりに、まだ外が明るいうちの下校となった。
伊藤と宮田と駅で別れ、明星とふたりで明星の家へと向かう。おじいちゃんとおばあちゃんに挨拶して、二階の明星の部屋に上がる。ケースからギターを取り出して、ベッド前に腰を下ろす。
「あー、やっぱここでギター触んのがいちばん落ち着く……」
「ちょっと久しぶりだよな」
「な。最高」
明日はいよいよ、文化祭のステージでオリジナル楽曲を披露する。真正面の壁に貼ってある、夏に明星と書いた紙を眺める。ちょっとたるんでしまった紙が、この数ヶ月を物語っている。
“この夏のオレたちの夢!!
明星→小説を一本書き上げる
11月しめ切りのコンテストに応募!
天地→オリジナル曲を作る
文化祭のステージに出る!”
これを達成するんだ。明星も、オレも。明星はもう完成だと言っていたけれど、明日の応募に向けてもう一度見直しをしているようだ。その背中を頼もしく思いながら、オレはギターの弦を押さえ、音を奏でる。歌詞はここでは唄えないから、ハミングでメロディを口ずさむ。
充実した時間だ。目をつむって、ステージの上を想像して。交互に打ち寄せる緊張と期待に、息を深くしていた時。スマホの着信音が部屋の中に響いた。鳴ったのは明星のスマホで、メッセージを受信した報せのようだ。
「…………」
「…………? 明星?」
スマホの画面を確認した明星が、息を飲んだのが分かった。嫌な予感がする。外れていてほしい。そう願いながらも名前を読んだら、ぎこちない動きで明星がこちらを振り返った。
「……天地」
「うん」
眉間をぎゅっと寄せて、くちびるはちいさく震えているように見える。オレは思わず立ち上がって、明星の肩に手を置いた。
「……連絡、父さんからだった」
「っ、なんだって?」
「今日こっちに来るから、会いたいって」
「絶対行かせたくないんだけど」
「でも、行かないとここまで来る。じいちゃんたち巻きこみたくない」
どうして、よりにもよってこんな日に連絡を寄越してくるんだろう。明星は物語にピリオドを打って、大きな一歩を踏み出そうとしているところなのに。タイミングが悪すぎる。
「じゃあオレも行く」
「ダメだ、連れていきたくない」
ちょっとだけ期待した。オレも行くと言ったら、オレのために明星は行かない選択をするんじゃないかって。でもそうじゃないなら、こっちだって意志は決まっている。絶対に、絶対に引いてやらない。
「明星、お前ふざけんなよ」
「っ、え……?」
「オレはさ、冗談とかその場の勢いでオレも行くって言ったんじゃねえからな。こないだも、今も。お前が自分を大事にできないなら、オレがする。もう絶対にケガなんかさせない。あの野郎、オレが殴ったっていい。マジだから」
「……天地。ごめ……」
「あっ、このことで謝るのも禁止って言ったよな?」
「……ん、そうだったな」
それからオレたちは、おじいちゃんとおばあちゃんにちょっと出かけてくると声をかけて明星家を出た。歩いている時も電車に乗っている時も明星は黙りこんでいて、なんだか今にも崩れるんじゃないかって不安で。オレは明星のズボンのベルトループに、ずっと指をひっかけ続けた。
今までと同じ、横浜の夜の街。明星の父親が指定した場所は、とあるレストランだった。
「なんでレストラン?」
明星はずいぶんと戸惑っていて、不安そうに瞳を揺らしている。今までは必ず、あの路地裏だったらしい。その背中に手を添えて、オレはただ「なんでだろうな」と同調することしかできないけれど。人目につくところを選んだのだと思うと、殴ったり殴られたりの最悪の事態は避けられる気もする。
入店すると、奥のほうに明星の父親が座っていた。店員の人に待ち合わせだと声をかけて、そこへと向かう。
「君はこないだの……」
「こんばんは。明星ひとりで来させたくなかったんで」
明星の父親は相変わらずスーツをきちんと着こなしていて、真面目に見える。いや、見た目で判断することは本当に意味がないって、身を持って知っているけれど。
「響、それから……」
「天地です」
「天地くん。お腹は空いてる? 好きなものを注文してほしい」
「いえ、オレは……」
「俺もいらない」
「……そうか。じゃあ、飲みものだけでも注文させてくれ。すみません」
明星の父親は、紅茶を三つ注文した。それが運ばれてくるまで、誰もなにも話さない。オレでさえ緊張しているのに、明星はどんな思いでいるだろう。
ふと隣を見ると、明星は足の上でぎゅっと拳を握っていた。どうにかほどいてやりたいと思った時、明星のズボンのポケットからあのオレンジの毛玉が覗いているのに気がついた。リュックにつけていたはずなのに、いつの間に。知らなかったなあと思いつつ、明星のスマホをそっと抜き取る。怪訝そうに明星がこちらを見るけれど、気にせず明星の手を開いて毛玉を滑りこませた。やわらかいものを手の中で遊ばせていたら、ちょっとは落ち着くんじゃないかな。その意図が伝わったのか、明星はほんの少しほほ笑んでくれた。
それからしばらくして、紅茶が運ばれてきた。でも誰も手をつけない。沈黙を破ったのは、明星の父親だった。
「響……今まですまなかった」
「……え?」
まさか、この人が謝るなんて想像もしていなかった。明星も同じように感じたようで、信じられないといった様に目を見開いている。
「こんな風に呼び出したりするのも、最後にする。母さんのことも、もうきっぱり忘れるよ」
「……本当に? そんな、急に言われても信じられない。そんなこと言って、また……!」
呼吸を荒らげながら、明星が自分の髪をくしゃっと握りこんだ。混乱しているんだろう。毛玉を握っているほうの手に、手を重ねる。すると明星は少し落ち着いたのか、深呼吸をひとつした。よかった。
ただ、オレも明星と同じ気持ちだ。簡単に「そうですか、それじゃあよかった」と済ませられるような話じゃない。
「……なんで? なんで急にそういう気になった?」
「この前、天地くんが来ただろ。君にまでケガをさせてしまって……申し訳なかった。それで、もうこういうことは辞めようと思ったんだよ。本当はどこかで分かってた。こんなことをしたところで、響も母さんも戻ってくることはないって」
「…………」
なんだろう。すごく、すごくムカつく。腹が立ちすぎて、じわりとまぶたが熱くなってきた。だって、おかしいだろ。オレにケガをさせたから気づいた? その前から、明星はもっとひどい傷を負って、苦しんでいたのに。
「あのっ!」
思考は上手くまとまらないけど、ぶちまけてやろうと思った。他の客の目もどうだっていい。
でもそんなオレを制止したのは、他の誰でもない明星だった。明星の手に重ねているオレの手を、明星はもう片手で上からぎゅっと握りこんだ。
「っ、なんで止めんだよ!」
「ごめん。でも、俺に先に言わせてほしい」
「明星……」
「お父さん。もう一回聞くけど、さっき言ったのは本当? お母さんにも俺にも、もう関わんない?」
「……ああ、約束する」
「よかった。すげーしんどかったから……殴られたのも、すげー痛かった」
「……本当にすまなかった。ひどいことをした」
「っ、でも!」
「……響?」
明星の手に、ぎゅっと力がこもった。ああ、歯を食いしばって頑張ってるんだ。なんとか力になりたくて、明星の指先を握りこむ。ひとりじゃないって伝われって、願いながら。
「なんでそれ、最初から気づいてくれなかったんだよ。天地のこと、っ、大事な友だちのこと、ケガさせられて俺もすげー後悔した。俺のせいで、天地までケガしちゃった、って。でもお父さんは、あんたは! もっと早くから、こんなことになる前から、分かってほしかった! あんたの言葉で、手で、お母さんと俺はずっと痛かったのに……天地を傷つけないと気づけなかったとか、マジで……っ、ムカつく……! なんなんだよ!」
明星の声は途中から、涙で濡れていた。言葉が途切れて、絞り出すような声の隙間で喉が鳴って、聞いているオレが苦しくなるくらい、心からの叫びだった。明星の父親はそんな明星を見て、愕然とした顔でくちびるを強く噛みしめていた。
明星に言われる今の今まで、本当に分かっていなかったのだろう。連絡をしなかったこの数ヶ月の後悔と最初に謝った言葉が、明星と明星のお母さんにまっすぐ向いていなかったことを。他人を傷つけるのはさすがにまずいだなんて、ただ自分の体裁を守っていただけだ。
「明星、他に言いたいことはある?」
明星の肩を支えながらそっと尋ねる。
「じいちゃんとばあちゃんのとこにも、絶対に来んな」
震えた声でそう言った明星に、明星の父親は力なく頷きながら
「約束する」
とだけ答えた。
「天地、帰りたい」
「うん、行こう」
立ち上がったオレたちに、明星の父親はなにも声をかけてこない。明星とオレも、もうなにも言うことはなかった。手つかずになってしまった紅茶からあがる湯気まで、この人の後悔に強く刻まれればいい。
レストランを出ると、明星が
「こっち」
とオレの手を引いてひとつ奥の道へと歩き出した。今の今まで支えていたのはオレのほうだったのに、明星の手は迷いなくオレを引っ張っていく。
「明星? どうした?」
答えることなく進んで、人気のない場所で明星は立ち止まる。そしてこちらを振り返って、オレの肩に頭を乗せてきた。
「ちょっと、肩貸して」
「明星……好きなだけどうぞ。今ならタダにしてやる」
「……ふ、いつもは有料なんだ?」
「あは、そう。でもまあ、明星なら特別にいつでもタダでいいけど」
「なんだそれ」
声は笑っているのに時折鼻をすすって、深い息を吐く。肩のところがちょっと濡れてきた。そんな明星の髪をぽんと撫でると、明星は少しずつ心を零しはじめる。
「天地がさ、俺の父親のこと、すげー怒ってくれんじゃん」
「うん」
「それが結構衝撃だったんだよ。俺、怒ってもよかったのかって。耐えることが正解だと思ってたから」
「……うん」
「だから、さっき気持ち全部言えたと思う。俺、怒ってたよな?」
「うん、すげー怒ってた。ちゃんと言えてて、かっこよかったよ」
顔を上げた明星と、どちらからともなくパチンと手を合わせる。本当に、すごくかっこよかった。明星はやっと怒りの感情を露わにすることで、自分のことを大切にできたんだ。
駅までの道を、ふたりで並んで歩く。明星のポケットで揺れる毛玉を指でつつきながら、
「明星、いつの間にスマホにつけたん? 毛玉」
と尋ねてみた。
「さっき、家出てくる時。その……お守りになるかなって思って」
「へえ〜? お守りねえ?」
「天地……そのニヤけ顔やめろ」
「えー、だって嬉しいんだもん。オレがあげたヤツがお守りになるとか。でもー、本体が隣にいますよー」
「……うっせ」
「はは。でもいいな。オレもリュックじゃなくてスマホにつけよっかな。いちばん身近なもんだしな」
「なあ、天地」
「んー?」
ゆっくりと立ち止まった明星が、こちらを振り返った。真剣な顔でちょっとだけくちびるをきゅっとしながら、
「あのさ、今日は本当にありがとな。明日本番なのに、ギターの時間減っちゃったよな」
と申し訳なさそうに言う。
「それは明星も同じだろ。小説の推敲ってヤツ、やってたろ」
「まあ、そうだけど。自分の親のことだから、俺はしょうがないし」
「いいんだよ。明星のことはもう、オレのことみたいなもんだから」
「はは、そっか。……うん、ありがとう」
もしかして、ちょっとくさいこと言っちゃったかな。でも本当に、明星のことは自分のことみたいに、いや自分のこと以上に感じる瞬間がたくさんある。なんだか恥ずかしくなってきた頃、
「あのさ……俺、実はもう一個やりたいことがあって」
と明星が言った。なんだか、意を決したような表情だ。
「やりたいこと? 小説以外にってこと?」
指先で頬をかいて、視線は少し斜め先の道路を見ている。明星って、照れ隠しする時にぜったいに頬をかくんだよな。
大事なことを差し出すみたいに、明星は続ける。
「うん。本当はずっと言いたかったんだけどさ。踏ん切りつかなくて。でも決めた、今決めた」
「うん」
「ただ、俺の気持ちだけで動けることじゃなくて……オーケーもらえたら、やる」
「うん。……え、なに? もしかして、今は教えられないって話?」
「そういうことだな」
「ええ!? なんだよそれぇ! そこまで言っといて?」
「決意表明だけはしておきたかったから」
「ええ、むりー! めっちゃ気になるー!」
「はは、マジですぐだって。ダメだったとしても、ちゃんと教える」
明星が一体なんの話をしているのか、オレにはちっとも分からない。なのに明星はどこかすっきりとした顔をして、駅へ向かって歩き出してしまった。
「ちょ、明星〜! すぐっていつ!? それだけでも教えろよぉ!」
「うーん、明日」
「明日? 絶対だな!?」
「うん、絶対」
明星のやりたいことってなんだろう。見当もつかない。でも、明日教えてくれるのなら、ちょっとだけの我慢か。
明日は文化祭のステージ本番で、明星の小説をコンテストに応募する日。そして、明星のもうひとつのやりたいことを教えてもらう日。明日は予定がてんこもりだから、今日はもうしっかり休むのがいいかも。でもやっぱりギターにちょっとは触りたいし、もっと明星と話していたい。
「明星ー」
名前を呼んだら、明星が振り返る。
「なんだ?」
「なんでもなーい」
「ふ、なんだそれ」
気の抜けたように笑う明星の隣に、数歩を駆けて並ぶ。今日は色々なことがあったけれど、今明星が笑っていてくれてよかった。明日も笑っていられたら、夏からこっちのオレたちに花丸をつけてあげたい。



