第9話_水鏡が嗤う
干潟の黄昏は、海が一度だけ肺の空気を吐ききってなる刻限だ。潮は遠くへ下がり、藻の匂いが濃くなる。鏡の欠片②が隠れていると目星をつけた場所は、砂洲の鞍部—人の足が自然と集まる緩い谷筋。結花は膝まで裾をからげ、裸足で砂に立った。足の裏で、砂の温度が変わるのが判る。冷たい場所は、水が最近まであった場所だ。そこに、鏡は痕跡を残す。
「半拍ずれのお守り、効いてる?」華が囁く。結花の帯で鈴が小さく鳴った。
「効いてる。心が揺れたら、鈴を叩く」
「揺れた心は、戻るときに大きく動く」静が太鼓を抱え、波打ち際の少し上に座る。「戻る拍は、こっちで用意しておく」
空は遠巻きに見張り、光は退路の鐘を握る。晃太は薬湯を用意し、歩美は刻限を記し、沙耶香は槍の間合いで群衆を遠ざける。港の外れから見物に来た町人が数人、石に腰を下ろして様子を伺っている。
結花は地面に掌を当てた。湿り気、砂の目の向き、表皮だけが乾いている箇所の分布—全部がひとつの図面になる。息を吸い、吐く。吸った息が胸を通り過ぎるとき、身体のどこで冷えるかを確かめる。冷える場所へ、欠片は寄る。
「—そこ」結花は砂に印を付け、霊槌の柄を立てた。「下は浅いけど、面は広い」
その時だった。潮の鏡面に、光の姿が揺れた。いや、光の“偽物”の姿だ。額の小さな傷まで同じ、けれども目の奥の温度が違う。偽の光は、結花を見下ろす角度を深くし、口の端を上げた。「—遅い」
「遅いのは、わざと」結花は即座に返す。鈴がひとつ、鳴る。心の揺れが一瞬で戻る。「遅れて来ると、潮が味方する」
偽の光は笑い、足で砂をひと蹴りした。砂は予想よりも遠くへ飛び、粉のように砕けて散った。乾いている。ここ一帯に、見えない風が走っている。
「乾いた風」結花はつぶやく。「誰かが、風を作ってる」
空が遠くから合図を送った。帆の布が、干潟の外れに不自然に張られている—囮だ。帆布で風の道を作り、砂の上の匂いと湿り気を偏らせ、視覚と嗅覚の両方を騙す。偽の光は、結花の一挙手一投足に合わせて動く。完璧すぎる。完璧な模倣は、不気味だ。
「近づかない」光の本物が短く告げた。「比喩で言えば—鏡に映った火に手をかざしても、暖かくはならない。だが火傷はする。目が」
結花は頷き、偽の光に背を向けて、あえて視界から外した。「鈴」
帯の鈴を指で弾く。半拍のずれが胸に戻り、心臓の拍が整う。偽の光は、つまらなそうに肩を竦めた。「逃げるのか」
「退く。退いて、学ぶ」結花は歩きながら言う。「その違いは、あなたには判らない」
静の太鼓が、低く三つ鳴った。沈む拍子だ。足元の砂の中で、薄い膜が震える感触がした。欠片は確かに近い。だが、偽の光が笑うたび、水鏡の表面に細波が立ち、震えは散らされる。相殺される方向が、わざと作られている。
「逆位相」結花は呟き、静の傍へ膝で移動した。「私が歩くから、合わせて打って。私の右足が落ちる拍で打ったら、左足で逆に踏む」
「合図は?」
「鈴」
鈴が鳴り、太鼓が応え、結花の足が砂に沈む。砂は呼吸を覚え、膜は再び動き始める—そこへ、偽の光が笑い、波を作る。散る。
結花は一度、完全に退いた。腰を下ろし、深く息を吸って、吐く。潮の匂いが肺に入り、頭の中の熱を洗う。彼女は砂を一掴み取り、掌で揉みながら言った。「—罠は、三つ」
「三つ?」空が近寄ってくる。
「一つ、帆布の風。二つ、偽の光。三つ目は、私の焦り」
「三つ目は、外せる」光が言った。
「うん。外す。—言い訳、する」結花は笑って立ち上がり、偽の光へ向き直る。「ねえ、偽物。私は失敗する女です。失敗から学ぶ女です。だから今日のところは、あなたの笑い方を覚えるだけでいい?」
偽の光は、瞬きもしなかったが、笑いの角度が一度だけ変わった。人は嘲笑するとき、右と左の口角のどちらかが一瞬だけ先に上がる。偽物は、左。—風の向きと同じだ。
結花は砂の上に短い線を二本引いた。左から右へ、右から左へ。静が太鼓で応じ、線の間隔は音の間隔に変換される。華が遠くで踊り、観客の心が半拍ずれる。空が帆布の一枚を外させ、風の通り道が曲げられる。光が鐘を一度だけ打ち、退路が開く。
「退く」結花は宣言した。「退くけど、忘れない」
干潟を離れる途中、港の端に立っていた子どもが声を上げた。「ねえ、逃げたの?」
「違うよ」結花は立ち止まり、しゃがんで目線を合わせた。「逃げるのは、怖いから遠ざかること。退くのは、怖いを連れて帰ること。怖いの取扱説明書を、明日また読むために」
「取扱説明書?」
「うん。今日の笑い方を、紙に書いておくの」
夜、帳場に戻ってから、結花は白砂の代わりに紙の上へ線を引いた。笑いの角度、風の向き、太鼓の拍、潮の呼吸。歩美が脇で時刻を書き、晃太が身体の拍の観点から注釈を入れ、空が帆の配置を図面に起こす。華は踊りの“半拍ずれ”を図で示し、静は太鼓の皮の張り具合を書き添えた。
「ねえ、光。人が笑うときの、いい比喩は?」結花が尋ねる。
「笑いは、橋の継ぎ目だ」光は答えた。「継ぎ目が良ければ、板はしなる。継ぎ目が悪ければ、板は割れる」
「じゃあ、明日は“しなる笑い”で行く」結花は筆を置いた。「割る笑いは、もう見たから」
床の間に置いた鏡の面が、ふと曇った。港の朝の桟橋で聞いた、あの声が微かに触れる—《…たすけて》。結花は鏡へ近づき、掌を当てた。「待ってて。今日は、退いた。明日は、一歩、前に」
その夜は、誰も派手に喜ばなかったし、誰も深く落ち込まなかった。退くことは、勝ち負けからいったん降りることじゃない。勝ち筋を一本増やすための作業だ。結花は布団に入り、鈴を枕の下に置き、目を閉じる前にひとつだけ笑った。—偽物の笑い方の角度を、完璧に思い出せたから。
退いたあとも、干潟の空気は背中に張り付いて離れなかった。結花は港の階段に座り、膝の上で砂を指で丸めた。丸めた砂は、指先で少し力を抜くとすぐ崩れる。偽物の笑いも同じだ。固く見えるほど、崩れる瞬間がはっきりしている。
「角度、二十三度」結花は独り言のように呟く。「左の口角が先。目は笑ってない。頬の筋肉は、遅れて動く」
「書いて」歩美が横から筆と紙を差し出した。「数字は嘘を減らす」
「了解」結花は紙に角度を書き、頬の筋肉の動きを矢印で描いた。矢印の向きが風の向きと一致したところで、彼女は筆を止める。「—明日は風を右に曲げる」
「帆布の配置、変えさせる」空が加わった。「表向きは“干した布の移動”。裏の理由は紙に残さない」
晃太は診療所の棚から小瓶を持ってきた。中には乾いた海藻を砕いた粉が入っている。「これは湿気を吸う。砂に薄く混ぜれば、風が通っても表面に出ない。乾きすぎて目が痛むのを防げる」
「目は、嘲笑に弱い」結花は瓶を受け取り、小さく頷く。「目が痛むと、心も細る」
沙耶香は稽古の合間にやってきて、槍を壁に立てかけた。「退き際、良かった」
「ありがとう」
「だが、次は踏み込みがいる」彼女は真顔で言う。「あの偽物がもう一段下がる前に、こちらから間合いを詰める」
「間合いは槍で詰めて」結花は笑う。「私は、拍で詰める」
「拍?」
「静の太鼓と、華の踊りと、空の帆と、貴之の読経と、歩美の紙と、晃太の瓶。全部を、同じ“戻り”に合わせる」
沙耶香は口の端を上げ、「面白い」とだけ言って戻っていった。
夜、華が踊りの稽古をしている広場に、結花は座った。鈴は五つから四つに減り、代わりに扇の骨が一本増えている。「骨が増えると、返しが滑らかになる」華は踊りながら言う。「明日は“滑らかな嘲笑”で、観客の心を撫でる。撫でられた心は、安心して動く」
「安心した心は、深く動く」結花は鈴を指で弾く。「深く動いた拍は、鏡に届く」
夜半、風が変わった。港の灯が一瞬だけ揺れ、波頭が白く立つ。結花はそれを見て、紙の上の線を二本、交差させた。「—風の読み替え」
光が背後で腕を組み、言う。「比喩で言えば—笑いを“風にする”。風は、見えないが、旗で読める。笑いは、見えるが、意味は旗の向きだ」
「難しい比喩」結花は笑う。「でも好き」
翌未明、干潟に入る前に、結花は皆に短く確認をした。「退きの合図は鈴、踏み込みの合図は太鼓、風の転換は鐘。帆の位置は空、読経は貴之、湿りの調整は晃太、紙の記録は歩美、踊りの半拍は華、槍の間合いは沙耶香。光は、全部を“話”にまとめる」
「話?」光が首をかしげる。
「うん。終わったあとに語る物語。物語は、次の行動の手順書になる」
「それなら、今から結末を一つ決めておこう」光は言った。「—“退いたが、笑いを測った”。これを結末にする」
「採用」結花はうなずく。「明日は、“笑いを返した”。その次は、“笑いを橋にした”。」
干潟に着くと、昨日の偽物はまだいた。だが、笑い方が変わっていた。角度は二十度、今度は右。目の奥がほんのわずか柔らかい。帆布の配置が変わり、風が右から抜けるからだ。「右に来た」結花は鈴を弾き、静に合図した。太鼓の皮は昨日より固く張られている。音は少し高く、返りが速い。足裏の砂は、昨日より温かい。
「今は試さない」結花は心の中だけで言い、微笑んだ。偽物の笑いが、一瞬だけ迷う。—人は、自分の笑いに自信があるとき、他人の微笑に敏感になる。敏感さは、隙だ。
退いたあと、結花は白砂の上で子どもたちの輪に入り、“笑いの角度遊び”を教えた。片方の口角だけを上げてみる。上げる側の目は細くなるか。頬はいつ動くか。最初は遊びだが、観察は技術になる。子どもたちの笑い声が高く澄み、干潟の緊張を薄い膜のように剥がしていく。
「笑いは、武器になる?」と一人が訊く。
「武器にも、橋にもなる」結花は答えた。「使い方次第で」
帳場に戻る頃、空はすでに帆布の移動を完了していた。歩美の紙には、時刻と人手の配分が丁寧に記されている。晃太の瓶は干潟の端に埋められ、湿り気の偏りをやわらげる準備ができた。貴之は短い読経の文を二つ用意し、「どちらも戻る拍に効く」と言う。華は扇の骨をもう一本増やし、鈴を三つにして、半拍のずれをさらに深くする。
「—これで、明日、笑いは“しなる”」結花は紙をすべて重ね、帯に挟んだ。「割れない笑いで、鏡に触る」
夜、結花はひとり、旧商館の裏で空を見上げた。雲は切れ、星が多い。星座は、昔の人が“線を引いた跡”だ。線は見えないが、物語が見える。彼女は指で空の線をなぞり、胸の内でひとつ言葉を決めた。「—明日は、ひとつ前に」
その言葉は言い訳ではない。順番だ。退く、測る、返す、橋にする。順番に従えば、怖さは小さくなる。怖さが小さくなれば、笑いに飲まれない。笑いを、こちらの拍に載せられる。
最後に、鏡の面へ掌を当てる。冷たい。冷たいが、昨日より少しだけ柔らかい。「待ってて」結花は囁いた。「あなたの笑い方も、いつか見せて」
鏡は答えない。答えない鏡は、いつもそうだ。答えない沈黙が、最も多くを語る。結花は掌を離し、帯の鈴を軽く鳴らし、灯を落とした。
翌朝に向けて、エヴァンが港の端で短く告げた。「今夜、帆布の予備がもう二枚来る。北ではなく西に回す。—私は遅らせる」
「ありがとう」結花は頷き、彼の目の影が昨日より浅いことに気づく。「あなたの遅らせた時間、紙に書いた?」
「書いた」
「じゃあ、あなたの罪は薄まる。私たちの責任が増える」
エヴァンは苦笑し、「それは救いだ」と言った。
静は太鼓の皮の端を湿らせ、音の返りを微調整する。「拍は、刃の返し。刃は、押すと鈍る。返して使うと、長持ちする」
「じゃあ、笑いも返して使う」結花は鈴を鳴らした。「明日は、返す日」
浜に立つと、風向き板が右を指した。空は木札をひとつ裏返し、「準備よし」とだけ言った。結花は深く頷き、心の中で四つ数える。—退く、測る、返す、橋にする。四拍子。足の裏に砂の温度。帯の鈴に指先の温度。胸の内の温度。全部が、同じ調子に合っていく。第10話_籠灯を掲げる
祭り前夜の湊桜は、海の匂いに蜜の匂いが混じり、どの路地にも灯りの種が転がっているようだった。いつ、どこで誰が始めたのか判らない“仮の踊り場”が、街のあちこちに生まれる。桶を伏せた太鼓台、縄を編んだ即席の鳥居、提灯の短い列。結花は足袋を脱ぎ、籠灯を両手で掲げた。灯の中で、紙の繊維が薄く呼吸する。「—心が動く場所を、見つける」
華は髪を高く結い、扇の鈴を三つだけ残して他を外した。「半拍ずれのまま、戻す。観客の胸の中に、波の返しを作る」
静は太鼓の皮に薄く水を差し、指の腹で張りを確かめる。「拍の軸は、落とさない」
空は路地の入口を見渡し、道の“詰まり”を木札に書き付ける。「人の流れを逆流させない」
歩美は奉行所から預かった通行札を腰に下げ、刻限ごとの許可の出し入れを采配する。「紙で守り、紙で解く」
晃太は背負い籠に薬湯と清水を詰め、酔いと興奮が行き過ぎた…惇は鍛冶場から持ってきた細い鉄環を、灯の柱の根元に埋める。「倒れない支えは、見えない所に置く」
光は人の輪の外周に立ち、比喩で場の空気を撫でて回る。「—今日は、船を砂に置く。明日は水に浮かべる。その違いは、拍と角度だ」
結花は最初の踊り場に入った。籠灯の光は、誰かの顔を照らし、別の誰かの顔を照らす。光は移るたびに色を変える。油の匂い、汗の塩、髪の香、紙に移った手の温度。彼女は踊らない。見て、線を引く。人が集まって離れる弧。笑いの広がり方。子どもが走る方向。年寄りが座る位置。—心が動いた瞬間、空気が薄くなる。薄くなった空気は、鏡の面を引く。
「ここ」結花は囁き、砂の上に小石を置いた。「明日、太鼓をひとつ増やす」
静が頷く。「戻りの拍を厚くする」
次の踊り場では、華が観客の目を一斉に自分へ引きつけてから、あえて視線を“外す”という妙手を使った。観客の心は、置いて行かれたことに気づいて慌てて追いかける。その一拍遅れた戻り—そこに、籠灯の光が吸い込まれるように集まった。結花は灯の口を狭め、光の束を細くする。細い光は、刺さる。刺さった光の先で、鏡の“薄い膜”が一瞬きしむ感じがした。
「…動いた」結花は呟く。
「見えた?」華が笑う。
「見えないけど、触った」
通りの角で、歩美が書役の札をひとつ返した。「この先、行列はここまで。—でも、脇道は開けておく」
「抜け道がないと、人は怒る」光が横から言う。「怒りは、拍を壊す」
「怒りは、拍から外れた力」結花は灯を傾けた。「外れた力は、橋を折る」
鼓笛の子どもたちが通り過ぎる。桶を叩く手はぎこちないが、ぎこちなさは“ずれ”を生む。ずれは戻る。戻ると、大きく揺れる。結花は子どもたちの列の後ろにつき、足並みの乱れを観察した。ひとり、足を引きずる子がいる。彼の足元で、砂が深く沈む。その沈みが、まっ港の方へ線を引く。—欠片は、沈む拍を好む。沈む拍は、戻りの拍を強くするから。
「静、明日は子ども隊をもう一度ここに通して」
「了解。拍の“谷”を作る」
宵の口、勇気が屋台の陰から手だけで合図した。賭場ができかけている。火の粉が舞う前に、風向きを変える必要がある。光は即座に“盃相撲”を提案し、勇気は賭けの種を「勝ち札ではなく歌詞」に替えた。歌詞を賭け、笑いを賭け、負けた者は自分の失敗を一つ歌に混ぜる。—言い訳の歌。人々は腹を抱えて笑い、賭場は歌場になった。結花は籠灯の火を少しだけ強め、笑いの熱を鏡へと送った。
「笑いが“しなる”」光が小さく呟く。「割れない」
夜が更けるほど、町の温度は上がるが、結花は灯の温度を下げた。灯は熱くても冷たくても駄目だ。灯が“人の体温”に近いほど、影は柔らかくなる。柔らかい影は、形を変えやすい。形を変える影は、鏡の面の硬さを揺るがす。—明日、干潟の面が柔らかければ、足は沈み、線は深くなる。
踊りの合間、結花は一人だけ、鏡に話しかけるように灯へ言葉を落とした。「—あなたの笑い方も、いつか見せて」
灯は何も答えない。けれど、火が一度だけ低くなり、また戻る。その呼吸が、鏡の呼吸と重なる気がした。
宵の終わり、静が太鼓の数を数え直し、華が扇の鈴を二つにし、歩美が札を整え、空が木札の流れを止め、晃太が残りの薬湯を蓋で締め、沙耶香が槍の布を解き、勇気が屋台の主に“歌詞の帳付け”を教え、さとみと惇が灯の鉄環を回収した。最後に光が短くまとめる。「—明日は、退かない日か、退く日か、やってみなければ判らない。けれど、退くための道と、進むための道、どちらも描けた」
「描いた道は、明日消える」結花は笑った。「でも、消えるから、踏める」
解散のあと、結花はひとりで港の端に立った。海は真っ黒で、空の黒と重なり合って境が消えている。籠灯の火を小さくして、紙をほとんど透かす。薄い火は、風の筋をよく見せる。風は西から東へ、波は南から北へ。二つの力が交わる場所が、明日の“谷”になる。彼女は灯を消し、深く息を吸った。灯の匂いが鼻の奥に残る。それは、港の匂いとは違う、祭りの匂いだ。
背後で足音。エヴァンが立っていた。彼は声を低くして言った。「—明日、帆布は北ではなく西に増える。私は遅らせる。それでも、誰かが急ぐ」
「急ぐ者のための網は、もう編んだ」結花は答えた。「歌と太鼓と札と槍と灯。どれも道具だけど、全部、戻り道になる」
「君は、戻る道の話をよくする」
「戻る道を作れないと、進む道は嘘になる」結花は微笑んだ。「だから、戻る道の方が先」
帰り道、結花は帯の鈴を指でつまみ、音を出さないまま揺らしてみた。音が鳴らなくても、身体が拍を覚えていれば足は迷わない。彼女は肩で息をし、眠りに入る町を見渡した。明日は、干潟が笑う。笑い返す準備は、できている。
屋台の奥で、古い占い婆が碁石を弾き、「灯の芯は短い方が嘘をつかない」と言った。結花は芯を指先で摘み、ほんの短くした。灯の影が丸くなる。丸い影は、境界をあいまいにする。境界があいまいだと、人は一歩を踏み出しやすい。踏み出した足の拍が、明日の干潟に届く。
「芯一本、拍ひとつ」結花が呟くと、婆は歯のない口で笑った。「あんたは、拍で物を運ぶ女だねえ。なら、運び先を間違えなさんな。拍は、よう流れる」
「大丈夫。拍は二本で持つ」結花は灯を掲げ、群衆の背の高さを測る。「空の綱と、私の綱」
通りの突き当たりで、若い恋人たちが喧嘩をしていた。男は祭りに夢中で、女は明日の仕込みの手伝いをしてほしいらしい。言い争いは、拍を荒らす。結花は灯を二人の間に入れ、「灯を持って立って」と女に渡した。手に灯を持つと、人は声を落とす。火は、他人の言葉より自分の息の音を先に教えるから。女の呼吸が落ち、男の肩が下がる。彼らは目を合わせ、同時に小さく笑った。
「火は、喧嘩を煮物にする」と光が囁いた。「煮えたら、箸で分ければいい」
「分け方は、明日の紙に」歩美が横から差し込み、二人に小さな貸し札を渡した。「返す日付を書いて」
路地裏では、子どもたちが影絵で遊んでいた。掌の形が狐になり、鳥になり、橋になり。結花はしゃがんで、影の橋を指でなぞった。「橋には真ん中の板が一番たわむ。—そこで跳ぶと、高く跳べる」
「ほんと?」
「ほんと」
子どもは影の橋の真ん中で跳び、笑った。笑いは軽く、しかし芯があった。芯のある笑いは、割れない。
夜の更け際、芸者衆が即興の掛け合いで客を沸かせる。華はその輪に一瞬だけ入り、抜けた。抜けた瞬間の“間(ま)”に、客の心は引き寄せられる。結花は灯を低く構え、膝を折って視線の高さを下げた。低い灯は、子どもの目線に合う。子どもの笑いは、大人の笑いより深く揺れる。深い揺れは、鏡の奥へ届く。
「—明日は、子どもの隊列を前に」結花が言うと、静は頷き、太鼓の小さな面を二つ、子ども用に作る約束をした。
終わりが近づいたとき、空が帳場へ戻ってきて、木札のいくつかを裏返した。「明朝の船二艘、出航を遅らせる」
「理由は?」
「潮と、拍」空は短く答え、笑った。「お前の言い方を借りるなら、“橋板の乾き待ち”」
「乾き待ち、大事」結花も笑った。「濡れた板で走ると、転ぶ」
灯が最後の油を吸い切るころ、結花は祠に向かって一礼し、灯を吹き消した。闇は、は暗闇にならない。瞳が広がるまでの短い時間、世界は灰色の薄膜で覆われる。—その薄膜の感触が、鏡の表面と同じだと、彼女は知っていた。明日は、その膜に触れる。指で、拍で、笑いで。
港のはずれ、波除けの祠にも灯が並んだ。静が小さな祝詞を唱え、貴之が読経で二拍だけ支える。結花は灯を地面に置いて、両手を空に伸ばした。「—明日、退くなら、退く理由を。進むなら、進む理由を。どちらでも、後悔しない拍を」
静は笑って、「後悔は、次の拍を強くします」と言い、太鼓の面を撫でた。面は柔らかく、しかし芯がある。今日、何度も触れた“芯”という言葉が、彼女の中で重なっていく。灯の芯、笑いの芯、人の芯。芯のないものは、揺れで割れる。芯のあるものは、揺れてもしなる。
途中、提灯の列の端で、小さな火事が起きかけた。子どもが走って紐を引っ掛け、灯が倒れたのだ。誰かが声を上げ、群衆の拍がざわつく。結花は反射的に膝を滑らせ、灯の下へ手を差し入れて倒れる方向を変えた。火は砂に広がらず、布に移らず、吸い込まれるように消えた。「—大丈夫」彼女が短く言うと、静が太鼓をひとつ鳴らし、拍を戻す。光は比喩で場を丸く包み、勇気は子どもに飴玉を渡し、歩美は帳面の端に「灯倒、無害」の一行を加えた。
「危ないのに、格好つけるなよ」と空が小声で言う。
「格好つけじゃない。拍を戻す儀式」結花は肩で笑った。「怖いは、見せずに流す」
踊りの一座の中に、異国の衣装を纏った女—クリスタルがいた。彼女はまだ“無難”な顔をしているが、目の奥に小さな波が立っている。結花が視線で合図すると、クリスタルはほんの短いステップで返してきた。人目にはただの所作に見えるが、その拍には“自分で選ぶ”強さがあった。「—明日、彼女の拍も借りよう」結花は心の中で決めた。借りるものは、必ず返す。返すために、借りる。
夜半、結花と光は屋根に上がった。町の灯りは、星のように不規則で、しかし全体では一つの川のように流れている。「比喩をもう一つ」と光。「祭りは練習だ。練習でできないことは、本番でできない。練習でやり過ぎたことは、本番で折れる」
「じゃあ、今日は“やり過ぎない練習”」結花は頷く。「明日は“やり切る本番”」
ふたりは黙って風を受けた。風は冷たいが、嫌ではない。嫌ではない冷たさは、前に進む合図だ。
解散直前、空が最後の確認をした。「明日、退く合図は鈴、踏み込みは太鼓、風の転換は鐘。帆布の位置は夜明け前に変える。—寝ろ」
「命令口調」結花が笑う。
「橋の釘は、命令口調なんだ」
「了解。釘に従う」
深夜、結花は鈴の鳴らし方を三種に決めた。ひとつは“退く”の長鈴、ひとつは“集まれ”の短鈴、もうひとつは“見ろ”の間の鈴。静と華に合図を伝え、太鼓と扇で応答する稽古をした。離れていても、拍が合えば、同じ床板を踏める。
勇気は博打場の主から借りた古い鐘を磨き、「鐘は俺の役目だ」と胸を叩いた。「鐘はでかい。でかい音は、でかい言い訳を消す」
「消えない言い訳もある」結花が笑う。
「それは、お前の台詞にしな」
港の外れの縄場で、空は帆布を束ね直し、結び目に目印の布を括った。「暗くても手が覚えるように」
「ありがとう」結花は布の感触を確かめ、「—私の手も、覚えた」と呟いた。
最後に、結花は灯の油を補充し、芯をもう一度だけ短く切った。火は小さく、しかしくっきり立つ。彼女は火に向かって小さく礼をし、心の中で約束した。「明日、笑いを返す。返したら、橋にする。橋にしたら、誰にでも渡れるようにする」
干潟の黄昏は、海が一度だけ肺の空気を吐ききってなる刻限だ。潮は遠くへ下がり、藻の匂いが濃くなる。鏡の欠片②が隠れていると目星をつけた場所は、砂洲の鞍部—人の足が自然と集まる緩い谷筋。結花は膝まで裾をからげ、裸足で砂に立った。足の裏で、砂の温度が変わるのが判る。冷たい場所は、水が最近まであった場所だ。そこに、鏡は痕跡を残す。
「半拍ずれのお守り、効いてる?」華が囁く。結花の帯で鈴が小さく鳴った。
「効いてる。心が揺れたら、鈴を叩く」
「揺れた心は、戻るときに大きく動く」静が太鼓を抱え、波打ち際の少し上に座る。「戻る拍は、こっちで用意しておく」
空は遠巻きに見張り、光は退路の鐘を握る。晃太は薬湯を用意し、歩美は刻限を記し、沙耶香は槍の間合いで群衆を遠ざける。港の外れから見物に来た町人が数人、石に腰を下ろして様子を伺っている。
結花は地面に掌を当てた。湿り気、砂の目の向き、表皮だけが乾いている箇所の分布—全部がひとつの図面になる。息を吸い、吐く。吸った息が胸を通り過ぎるとき、身体のどこで冷えるかを確かめる。冷える場所へ、欠片は寄る。
「—そこ」結花は砂に印を付け、霊槌の柄を立てた。「下は浅いけど、面は広い」
その時だった。潮の鏡面に、光の姿が揺れた。いや、光の“偽物”の姿だ。額の小さな傷まで同じ、けれども目の奥の温度が違う。偽の光は、結花を見下ろす角度を深くし、口の端を上げた。「—遅い」
「遅いのは、わざと」結花は即座に返す。鈴がひとつ、鳴る。心の揺れが一瞬で戻る。「遅れて来ると、潮が味方する」
偽の光は笑い、足で砂をひと蹴りした。砂は予想よりも遠くへ飛び、粉のように砕けて散った。乾いている。ここ一帯に、見えない風が走っている。
「乾いた風」結花はつぶやく。「誰かが、風を作ってる」
空が遠くから合図を送った。帆の布が、干潟の外れに不自然に張られている—囮だ。帆布で風の道を作り、砂の上の匂いと湿り気を偏らせ、視覚と嗅覚の両方を騙す。偽の光は、結花の一挙手一投足に合わせて動く。完璧すぎる。完璧な模倣は、不気味だ。
「近づかない」光の本物が短く告げた。「比喩で言えば—鏡に映った火に手をかざしても、暖かくはならない。だが火傷はする。目が」
結花は頷き、偽の光に背を向けて、あえて視界から外した。「鈴」
帯の鈴を指で弾く。半拍のずれが胸に戻り、心臓の拍が整う。偽の光は、つまらなそうに肩を竦めた。「逃げるのか」
「退く。退いて、学ぶ」結花は歩きながら言う。「その違いは、あなたには判らない」
静の太鼓が、低く三つ鳴った。沈む拍子だ。足元の砂の中で、薄い膜が震える感触がした。欠片は確かに近い。だが、偽の光が笑うたび、水鏡の表面に細波が立ち、震えは散らされる。相殺される方向が、わざと作られている。
「逆位相」結花は呟き、静の傍へ膝で移動した。「私が歩くから、合わせて打って。私の右足が落ちる拍で打ったら、左足で逆に踏む」
「合図は?」
「鈴」
鈴が鳴り、太鼓が応え、結花の足が砂に沈む。砂は呼吸を覚え、膜は再び動き始める—そこへ、偽の光が笑い、波を作る。散る。
結花は一度、完全に退いた。腰を下ろし、深く息を吸って、吐く。潮の匂いが肺に入り、頭の中の熱を洗う。彼女は砂を一掴み取り、掌で揉みながら言った。「—罠は、三つ」
「三つ?」空が近寄ってくる。
「一つ、帆布の風。二つ、偽の光。三つ目は、私の焦り」
「三つ目は、外せる」光が言った。
「うん。外す。—言い訳、する」結花は笑って立ち上がり、偽の光へ向き直る。「ねえ、偽物。私は失敗する女です。失敗から学ぶ女です。だから今日のところは、あなたの笑い方を覚えるだけでいい?」
偽の光は、瞬きもしなかったが、笑いの角度が一度だけ変わった。人は嘲笑するとき、右と左の口角のどちらかが一瞬だけ先に上がる。偽物は、左。—風の向きと同じだ。
結花は砂の上に短い線を二本引いた。左から右へ、右から左へ。静が太鼓で応じ、線の間隔は音の間隔に変換される。華が遠くで踊り、観客の心が半拍ずれる。空が帆布の一枚を外させ、風の通り道が曲げられる。光が鐘を一度だけ打ち、退路が開く。
「退く」結花は宣言した。「退くけど、忘れない」
干潟を離れる途中、港の端に立っていた子どもが声を上げた。「ねえ、逃げたの?」
「違うよ」結花は立ち止まり、しゃがんで目線を合わせた。「逃げるのは、怖いから遠ざかること。退くのは、怖いを連れて帰ること。怖いの取扱説明書を、明日また読むために」
「取扱説明書?」
「うん。今日の笑い方を、紙に書いておくの」
夜、帳場に戻ってから、結花は白砂の代わりに紙の上へ線を引いた。笑いの角度、風の向き、太鼓の拍、潮の呼吸。歩美が脇で時刻を書き、晃太が身体の拍の観点から注釈を入れ、空が帆の配置を図面に起こす。華は踊りの“半拍ずれ”を図で示し、静は太鼓の皮の張り具合を書き添えた。
「ねえ、光。人が笑うときの、いい比喩は?」結花が尋ねる。
「笑いは、橋の継ぎ目だ」光は答えた。「継ぎ目が良ければ、板はしなる。継ぎ目が悪ければ、板は割れる」
「じゃあ、明日は“しなる笑い”で行く」結花は筆を置いた。「割る笑いは、もう見たから」
床の間に置いた鏡の面が、ふと曇った。港の朝の桟橋で聞いた、あの声が微かに触れる—《…たすけて》。結花は鏡へ近づき、掌を当てた。「待ってて。今日は、退いた。明日は、一歩、前に」
その夜は、誰も派手に喜ばなかったし、誰も深く落ち込まなかった。退くことは、勝ち負けからいったん降りることじゃない。勝ち筋を一本増やすための作業だ。結花は布団に入り、鈴を枕の下に置き、目を閉じる前にひとつだけ笑った。—偽物の笑い方の角度を、完璧に思い出せたから。
退いたあとも、干潟の空気は背中に張り付いて離れなかった。結花は港の階段に座り、膝の上で砂を指で丸めた。丸めた砂は、指先で少し力を抜くとすぐ崩れる。偽物の笑いも同じだ。固く見えるほど、崩れる瞬間がはっきりしている。
「角度、二十三度」結花は独り言のように呟く。「左の口角が先。目は笑ってない。頬の筋肉は、遅れて動く」
「書いて」歩美が横から筆と紙を差し出した。「数字は嘘を減らす」
「了解」結花は紙に角度を書き、頬の筋肉の動きを矢印で描いた。矢印の向きが風の向きと一致したところで、彼女は筆を止める。「—明日は風を右に曲げる」
「帆布の配置、変えさせる」空が加わった。「表向きは“干した布の移動”。裏の理由は紙に残さない」
晃太は診療所の棚から小瓶を持ってきた。中には乾いた海藻を砕いた粉が入っている。「これは湿気を吸う。砂に薄く混ぜれば、風が通っても表面に出ない。乾きすぎて目が痛むのを防げる」
「目は、嘲笑に弱い」結花は瓶を受け取り、小さく頷く。「目が痛むと、心も細る」
沙耶香は稽古の合間にやってきて、槍を壁に立てかけた。「退き際、良かった」
「ありがとう」
「だが、次は踏み込みがいる」彼女は真顔で言う。「あの偽物がもう一段下がる前に、こちらから間合いを詰める」
「間合いは槍で詰めて」結花は笑う。「私は、拍で詰める」
「拍?」
「静の太鼓と、華の踊りと、空の帆と、貴之の読経と、歩美の紙と、晃太の瓶。全部を、同じ“戻り”に合わせる」
沙耶香は口の端を上げ、「面白い」とだけ言って戻っていった。
夜、華が踊りの稽古をしている広場に、結花は座った。鈴は五つから四つに減り、代わりに扇の骨が一本増えている。「骨が増えると、返しが滑らかになる」華は踊りながら言う。「明日は“滑らかな嘲笑”で、観客の心を撫でる。撫でられた心は、安心して動く」
「安心した心は、深く動く」結花は鈴を指で弾く。「深く動いた拍は、鏡に届く」
夜半、風が変わった。港の灯が一瞬だけ揺れ、波頭が白く立つ。結花はそれを見て、紙の上の線を二本、交差させた。「—風の読み替え」
光が背後で腕を組み、言う。「比喩で言えば—笑いを“風にする”。風は、見えないが、旗で読める。笑いは、見えるが、意味は旗の向きだ」
「難しい比喩」結花は笑う。「でも好き」
翌未明、干潟に入る前に、結花は皆に短く確認をした。「退きの合図は鈴、踏み込みの合図は太鼓、風の転換は鐘。帆の位置は空、読経は貴之、湿りの調整は晃太、紙の記録は歩美、踊りの半拍は華、槍の間合いは沙耶香。光は、全部を“話”にまとめる」
「話?」光が首をかしげる。
「うん。終わったあとに語る物語。物語は、次の行動の手順書になる」
「それなら、今から結末を一つ決めておこう」光は言った。「—“退いたが、笑いを測った”。これを結末にする」
「採用」結花はうなずく。「明日は、“笑いを返した”。その次は、“笑いを橋にした”。」
干潟に着くと、昨日の偽物はまだいた。だが、笑い方が変わっていた。角度は二十度、今度は右。目の奥がほんのわずか柔らかい。帆布の配置が変わり、風が右から抜けるからだ。「右に来た」結花は鈴を弾き、静に合図した。太鼓の皮は昨日より固く張られている。音は少し高く、返りが速い。足裏の砂は、昨日より温かい。
「今は試さない」結花は心の中だけで言い、微笑んだ。偽物の笑いが、一瞬だけ迷う。—人は、自分の笑いに自信があるとき、他人の微笑に敏感になる。敏感さは、隙だ。
退いたあと、結花は白砂の上で子どもたちの輪に入り、“笑いの角度遊び”を教えた。片方の口角だけを上げてみる。上げる側の目は細くなるか。頬はいつ動くか。最初は遊びだが、観察は技術になる。子どもたちの笑い声が高く澄み、干潟の緊張を薄い膜のように剥がしていく。
「笑いは、武器になる?」と一人が訊く。
「武器にも、橋にもなる」結花は答えた。「使い方次第で」
帳場に戻る頃、空はすでに帆布の移動を完了していた。歩美の紙には、時刻と人手の配分が丁寧に記されている。晃太の瓶は干潟の端に埋められ、湿り気の偏りをやわらげる準備ができた。貴之は短い読経の文を二つ用意し、「どちらも戻る拍に効く」と言う。華は扇の骨をもう一本増やし、鈴を三つにして、半拍のずれをさらに深くする。
「—これで、明日、笑いは“しなる”」結花は紙をすべて重ね、帯に挟んだ。「割れない笑いで、鏡に触る」
夜、結花はひとり、旧商館の裏で空を見上げた。雲は切れ、星が多い。星座は、昔の人が“線を引いた跡”だ。線は見えないが、物語が見える。彼女は指で空の線をなぞり、胸の内でひとつ言葉を決めた。「—明日は、ひとつ前に」
その言葉は言い訳ではない。順番だ。退く、測る、返す、橋にする。順番に従えば、怖さは小さくなる。怖さが小さくなれば、笑いに飲まれない。笑いを、こちらの拍に載せられる。
最後に、鏡の面へ掌を当てる。冷たい。冷たいが、昨日より少しだけ柔らかい。「待ってて」結花は囁いた。「あなたの笑い方も、いつか見せて」
鏡は答えない。答えない鏡は、いつもそうだ。答えない沈黙が、最も多くを語る。結花は掌を離し、帯の鈴を軽く鳴らし、灯を落とした。
翌朝に向けて、エヴァンが港の端で短く告げた。「今夜、帆布の予備がもう二枚来る。北ではなく西に回す。—私は遅らせる」
「ありがとう」結花は頷き、彼の目の影が昨日より浅いことに気づく。「あなたの遅らせた時間、紙に書いた?」
「書いた」
「じゃあ、あなたの罪は薄まる。私たちの責任が増える」
エヴァンは苦笑し、「それは救いだ」と言った。
静は太鼓の皮の端を湿らせ、音の返りを微調整する。「拍は、刃の返し。刃は、押すと鈍る。返して使うと、長持ちする」
「じゃあ、笑いも返して使う」結花は鈴を鳴らした。「明日は、返す日」
浜に立つと、風向き板が右を指した。空は木札をひとつ裏返し、「準備よし」とだけ言った。結花は深く頷き、心の中で四つ数える。—退く、測る、返す、橋にする。四拍子。足の裏に砂の温度。帯の鈴に指先の温度。胸の内の温度。全部が、同じ調子に合っていく。第10話_籠灯を掲げる
祭り前夜の湊桜は、海の匂いに蜜の匂いが混じり、どの路地にも灯りの種が転がっているようだった。いつ、どこで誰が始めたのか判らない“仮の踊り場”が、街のあちこちに生まれる。桶を伏せた太鼓台、縄を編んだ即席の鳥居、提灯の短い列。結花は足袋を脱ぎ、籠灯を両手で掲げた。灯の中で、紙の繊維が薄く呼吸する。「—心が動く場所を、見つける」
華は髪を高く結い、扇の鈴を三つだけ残して他を外した。「半拍ずれのまま、戻す。観客の胸の中に、波の返しを作る」
静は太鼓の皮に薄く水を差し、指の腹で張りを確かめる。「拍の軸は、落とさない」
空は路地の入口を見渡し、道の“詰まり”を木札に書き付ける。「人の流れを逆流させない」
歩美は奉行所から預かった通行札を腰に下げ、刻限ごとの許可の出し入れを采配する。「紙で守り、紙で解く」
晃太は背負い籠に薬湯と清水を詰め、酔いと興奮が行き過ぎた…惇は鍛冶場から持ってきた細い鉄環を、灯の柱の根元に埋める。「倒れない支えは、見えない所に置く」
光は人の輪の外周に立ち、比喩で場の空気を撫でて回る。「—今日は、船を砂に置く。明日は水に浮かべる。その違いは、拍と角度だ」
結花は最初の踊り場に入った。籠灯の光は、誰かの顔を照らし、別の誰かの顔を照らす。光は移るたびに色を変える。油の匂い、汗の塩、髪の香、紙に移った手の温度。彼女は踊らない。見て、線を引く。人が集まって離れる弧。笑いの広がり方。子どもが走る方向。年寄りが座る位置。—心が動いた瞬間、空気が薄くなる。薄くなった空気は、鏡の面を引く。
「ここ」結花は囁き、砂の上に小石を置いた。「明日、太鼓をひとつ増やす」
静が頷く。「戻りの拍を厚くする」
次の踊り場では、華が観客の目を一斉に自分へ引きつけてから、あえて視線を“外す”という妙手を使った。観客の心は、置いて行かれたことに気づいて慌てて追いかける。その一拍遅れた戻り—そこに、籠灯の光が吸い込まれるように集まった。結花は灯の口を狭め、光の束を細くする。細い光は、刺さる。刺さった光の先で、鏡の“薄い膜”が一瞬きしむ感じがした。
「…動いた」結花は呟く。
「見えた?」華が笑う。
「見えないけど、触った」
通りの角で、歩美が書役の札をひとつ返した。「この先、行列はここまで。—でも、脇道は開けておく」
「抜け道がないと、人は怒る」光が横から言う。「怒りは、拍を壊す」
「怒りは、拍から外れた力」結花は灯を傾けた。「外れた力は、橋を折る」
鼓笛の子どもたちが通り過ぎる。桶を叩く手はぎこちないが、ぎこちなさは“ずれ”を生む。ずれは戻る。戻ると、大きく揺れる。結花は子どもたちの列の後ろにつき、足並みの乱れを観察した。ひとり、足を引きずる子がいる。彼の足元で、砂が深く沈む。その沈みが、まっ港の方へ線を引く。—欠片は、沈む拍を好む。沈む拍は、戻りの拍を強くするから。
「静、明日は子ども隊をもう一度ここに通して」
「了解。拍の“谷”を作る」
宵の口、勇気が屋台の陰から手だけで合図した。賭場ができかけている。火の粉が舞う前に、風向きを変える必要がある。光は即座に“盃相撲”を提案し、勇気は賭けの種を「勝ち札ではなく歌詞」に替えた。歌詞を賭け、笑いを賭け、負けた者は自分の失敗を一つ歌に混ぜる。—言い訳の歌。人々は腹を抱えて笑い、賭場は歌場になった。結花は籠灯の火を少しだけ強め、笑いの熱を鏡へと送った。
「笑いが“しなる”」光が小さく呟く。「割れない」
夜が更けるほど、町の温度は上がるが、結花は灯の温度を下げた。灯は熱くても冷たくても駄目だ。灯が“人の体温”に近いほど、影は柔らかくなる。柔らかい影は、形を変えやすい。形を変える影は、鏡の面の硬さを揺るがす。—明日、干潟の面が柔らかければ、足は沈み、線は深くなる。
踊りの合間、結花は一人だけ、鏡に話しかけるように灯へ言葉を落とした。「—あなたの笑い方も、いつか見せて」
灯は何も答えない。けれど、火が一度だけ低くなり、また戻る。その呼吸が、鏡の呼吸と重なる気がした。
宵の終わり、静が太鼓の数を数え直し、華が扇の鈴を二つにし、歩美が札を整え、空が木札の流れを止め、晃太が残りの薬湯を蓋で締め、沙耶香が槍の布を解き、勇気が屋台の主に“歌詞の帳付け”を教え、さとみと惇が灯の鉄環を回収した。最後に光が短くまとめる。「—明日は、退かない日か、退く日か、やってみなければ判らない。けれど、退くための道と、進むための道、どちらも描けた」
「描いた道は、明日消える」結花は笑った。「でも、消えるから、踏める」
解散のあと、結花はひとりで港の端に立った。海は真っ黒で、空の黒と重なり合って境が消えている。籠灯の火を小さくして、紙をほとんど透かす。薄い火は、風の筋をよく見せる。風は西から東へ、波は南から北へ。二つの力が交わる場所が、明日の“谷”になる。彼女は灯を消し、深く息を吸った。灯の匂いが鼻の奥に残る。それは、港の匂いとは違う、祭りの匂いだ。
背後で足音。エヴァンが立っていた。彼は声を低くして言った。「—明日、帆布は北ではなく西に増える。私は遅らせる。それでも、誰かが急ぐ」
「急ぐ者のための網は、もう編んだ」結花は答えた。「歌と太鼓と札と槍と灯。どれも道具だけど、全部、戻り道になる」
「君は、戻る道の話をよくする」
「戻る道を作れないと、進む道は嘘になる」結花は微笑んだ。「だから、戻る道の方が先」
帰り道、結花は帯の鈴を指でつまみ、音を出さないまま揺らしてみた。音が鳴らなくても、身体が拍を覚えていれば足は迷わない。彼女は肩で息をし、眠りに入る町を見渡した。明日は、干潟が笑う。笑い返す準備は、できている。
屋台の奥で、古い占い婆が碁石を弾き、「灯の芯は短い方が嘘をつかない」と言った。結花は芯を指先で摘み、ほんの短くした。灯の影が丸くなる。丸い影は、境界をあいまいにする。境界があいまいだと、人は一歩を踏み出しやすい。踏み出した足の拍が、明日の干潟に届く。
「芯一本、拍ひとつ」結花が呟くと、婆は歯のない口で笑った。「あんたは、拍で物を運ぶ女だねえ。なら、運び先を間違えなさんな。拍は、よう流れる」
「大丈夫。拍は二本で持つ」結花は灯を掲げ、群衆の背の高さを測る。「空の綱と、私の綱」
通りの突き当たりで、若い恋人たちが喧嘩をしていた。男は祭りに夢中で、女は明日の仕込みの手伝いをしてほしいらしい。言い争いは、拍を荒らす。結花は灯を二人の間に入れ、「灯を持って立って」と女に渡した。手に灯を持つと、人は声を落とす。火は、他人の言葉より自分の息の音を先に教えるから。女の呼吸が落ち、男の肩が下がる。彼らは目を合わせ、同時に小さく笑った。
「火は、喧嘩を煮物にする」と光が囁いた。「煮えたら、箸で分ければいい」
「分け方は、明日の紙に」歩美が横から差し込み、二人に小さな貸し札を渡した。「返す日付を書いて」
路地裏では、子どもたちが影絵で遊んでいた。掌の形が狐になり、鳥になり、橋になり。結花はしゃがんで、影の橋を指でなぞった。「橋には真ん中の板が一番たわむ。—そこで跳ぶと、高く跳べる」
「ほんと?」
「ほんと」
子どもは影の橋の真ん中で跳び、笑った。笑いは軽く、しかし芯があった。芯のある笑いは、割れない。
夜の更け際、芸者衆が即興の掛け合いで客を沸かせる。華はその輪に一瞬だけ入り、抜けた。抜けた瞬間の“間(ま)”に、客の心は引き寄せられる。結花は灯を低く構え、膝を折って視線の高さを下げた。低い灯は、子どもの目線に合う。子どもの笑いは、大人の笑いより深く揺れる。深い揺れは、鏡の奥へ届く。
「—明日は、子どもの隊列を前に」結花が言うと、静は頷き、太鼓の小さな面を二つ、子ども用に作る約束をした。
終わりが近づいたとき、空が帳場へ戻ってきて、木札のいくつかを裏返した。「明朝の船二艘、出航を遅らせる」
「理由は?」
「潮と、拍」空は短く答え、笑った。「お前の言い方を借りるなら、“橋板の乾き待ち”」
「乾き待ち、大事」結花も笑った。「濡れた板で走ると、転ぶ」
灯が最後の油を吸い切るころ、結花は祠に向かって一礼し、灯を吹き消した。闇は、は暗闇にならない。瞳が広がるまでの短い時間、世界は灰色の薄膜で覆われる。—その薄膜の感触が、鏡の表面と同じだと、彼女は知っていた。明日は、その膜に触れる。指で、拍で、笑いで。
港のはずれ、波除けの祠にも灯が並んだ。静が小さな祝詞を唱え、貴之が読経で二拍だけ支える。結花は灯を地面に置いて、両手を空に伸ばした。「—明日、退くなら、退く理由を。進むなら、進む理由を。どちらでも、後悔しない拍を」
静は笑って、「後悔は、次の拍を強くします」と言い、太鼓の面を撫でた。面は柔らかく、しかし芯がある。今日、何度も触れた“芯”という言葉が、彼女の中で重なっていく。灯の芯、笑いの芯、人の芯。芯のないものは、揺れで割れる。芯のあるものは、揺れてもしなる。
途中、提灯の列の端で、小さな火事が起きかけた。子どもが走って紐を引っ掛け、灯が倒れたのだ。誰かが声を上げ、群衆の拍がざわつく。結花は反射的に膝を滑らせ、灯の下へ手を差し入れて倒れる方向を変えた。火は砂に広がらず、布に移らず、吸い込まれるように消えた。「—大丈夫」彼女が短く言うと、静が太鼓をひとつ鳴らし、拍を戻す。光は比喩で場を丸く包み、勇気は子どもに飴玉を渡し、歩美は帳面の端に「灯倒、無害」の一行を加えた。
「危ないのに、格好つけるなよ」と空が小声で言う。
「格好つけじゃない。拍を戻す儀式」結花は肩で笑った。「怖いは、見せずに流す」
踊りの一座の中に、異国の衣装を纏った女—クリスタルがいた。彼女はまだ“無難”な顔をしているが、目の奥に小さな波が立っている。結花が視線で合図すると、クリスタルはほんの短いステップで返してきた。人目にはただの所作に見えるが、その拍には“自分で選ぶ”強さがあった。「—明日、彼女の拍も借りよう」結花は心の中で決めた。借りるものは、必ず返す。返すために、借りる。
夜半、結花と光は屋根に上がった。町の灯りは、星のように不規則で、しかし全体では一つの川のように流れている。「比喩をもう一つ」と光。「祭りは練習だ。練習でできないことは、本番でできない。練習でやり過ぎたことは、本番で折れる」
「じゃあ、今日は“やり過ぎない練習”」結花は頷く。「明日は“やり切る本番”」
ふたりは黙って風を受けた。風は冷たいが、嫌ではない。嫌ではない冷たさは、前に進む合図だ。
解散直前、空が最後の確認をした。「明日、退く合図は鈴、踏み込みは太鼓、風の転換は鐘。帆布の位置は夜明け前に変える。—寝ろ」
「命令口調」結花が笑う。
「橋の釘は、命令口調なんだ」
「了解。釘に従う」
深夜、結花は鈴の鳴らし方を三種に決めた。ひとつは“退く”の長鈴、ひとつは“集まれ”の短鈴、もうひとつは“見ろ”の間の鈴。静と華に合図を伝え、太鼓と扇で応答する稽古をした。離れていても、拍が合えば、同じ床板を踏める。
勇気は博打場の主から借りた古い鐘を磨き、「鐘は俺の役目だ」と胸を叩いた。「鐘はでかい。でかい音は、でかい言い訳を消す」
「消えない言い訳もある」結花が笑う。
「それは、お前の台詞にしな」
港の外れの縄場で、空は帆布を束ね直し、結び目に目印の布を括った。「暗くても手が覚えるように」
「ありがとう」結花は布の感触を確かめ、「—私の手も、覚えた」と呟いた。
最後に、結花は灯の油を補充し、芯をもう一度だけ短く切った。火は小さく、しかしくっきり立つ。彼女は火に向かって小さく礼をし、心の中で約束した。「明日、笑いを返す。返したら、橋にする。橋にしたら、誰にでも渡れるようにする」

