言い訳しない恋と鏡橋――湊桜もののけ開港記

第8話_白砂に書く
 浜の帳場は、潮の匂いと新しい木材の青い香りが混ざり合い、朝の風に乗って扉から抜けていった。時刻は辰の刻。誰がいつどこへ運び、なにをどう積むか—その一覧が、空の前に広がる机にぎっしりと並ぶ木札に刻まれている。空の手は早い。札を立て、倒し、横に滑らせ、流れを作る。そこへ結花が裸足で砂を踏み、白砂の上へしゃがみ込んだ。
 「机の上は空に任せる。私は、浜の紙に書く」
 「浜の紙?」空は筆を止め、眉を上げる。
 「うん、白砂は消える紙。間違っても、次の波が消してくれる」結花は指先で線を引いた。湾の形、潮の癖、風の抜け道。指の腹が砂に沈み、白い粉がつめの間に溜まる。「昨日の祭り前夜で見えた“心の集まり”と、潮の呼吸を重ねる。欠片②は、人が集まる拍で動く」

 光が帳場に入ってきて、比喩で場の温度を整える。「川を渡るとき、綱が一本なら度胸が要る。二本なら歌が要る。三本なら、子どもでも渡れる」
 「だから二本で行く」結花は言う。「空の綱と、私の綱」
 「三本目は?」
 「華の歌」結花と空は同時に答え、思わず顔を見合わせて笑った。

 帳場の隅には、華がすでに踊りの扇を開いていた。扇には小さな鈴が五つ、糸で吊ってある。「歌は、言葉が無くても歌える」
 「鈴の数、五つ?」結花が訊く。
 「うん。五拍子。今日は“ずれ”を作る」華は片目で笑い、扇を閉じる。「観客の心を、半拍ずらす。ずれた心は、戻るときに大きく動く」
 「大きく動く時、鏡が反応する」結花は頷く。「それが、砂の線に載る」

 空は机の上で、木札を地図に並べ替えた。船籍、荷の種類、出航予定、帰港予定。歩美が帳簿を抱えて入り、墨の匂いが広がる。「帳面の方は、奉行所との通しが済んだわ。港内の人の動線は刻限ごとに制限をかける。—けど、抜け道は必ず生まれる」
 「抜け道は、橋の予行演習に使う」結花は白砂の線に、細い枝で点を打つ。「点が拍になって、拍が道になる」

 昼前、潮が満ち始めた。白砂の線の端が、ひたひたと水にほどけていく。結花は指で波の跡をなぞって言った。「消えるから、怖くない。怖くないから、書ける」
 「消えない線しか読まない人がいる」空は机の上の木札に目を落としながら言う。
 「そういう人に渡す紙は、歩美が作ってくれる」結花が笑いかけると、歩美はわざとらしく咳払いをして見せた。「紙にする前の言葉は、ここで寝かせてね」

 午後、倉庫通りを一巡り。結花は屋並みの間を歩き、干し網の影と魚籠の匂い、桶に張った水面の揺れを確かめた。欠片は、目に見えない拍を食べる。だから、見えるものを通して目に見えないものを確かめる。「ね、晃太。人の拍は、どこで測るのが正確?」
 診療所の窓越しに、晃太が脈拍計を手にして答える。「手首もいいけど、指先の爪の色の変化と呼吸の間(ま)を見るのが早い。緊張している人は、呼吸と視線の動きが合わない」
 「視線の拍子?」
 「うん、嘘をつくと視線は拍から半拍ずれる。ずれは悪じゃない。けど、ずれが続くと身体は疲れる」

 港の角、酒樽が積まれた日陰で、エヴァンとすれ違った。彼は目を伏せ、しかし足は止めない。「今日は、紙は持っていない」
 「紙に書けないことを、身体で教えて」結花は言う。「例えば、歩幅」
 エヴァンは一瞬だけ足を止め、右足のつま先を半歩だけ外へ向けた。結花は小さく頷く。—港の北東、倉の二番戸。そこが“紙に書けない”抜け道。

 夕刻、空と結花は、白砂の上で線と線を重ね合わせた。潮の引き際、砂が最も乾く刻限に、二つの線は交差する。そこに、小さな小石を三つ置く。華が鈴を鳴らし、半拍ずれの踊りで観客の心を引き、静が太鼓の打ち手をひとり、ふたりと増やす。拍が集まり、波が引き、欠片の気配が砂の下から持ち上がる。
 「見えないものに、見える影を作る」結花は呟く。「それが、白砂の役目」

 空は腕を組み、線の交差を睨んだ。「ただし、明日の干潟は危険だ。商人同盟が囮を用意する」
 「用意させよう」結花は笑う。「囮は、正しい場所を教えてくれる札」
 「危険を危険のまま使うのは、無謀だ」空の声は硬い。「無謀と大胆は違う」
 「知ってる。だから二本の綱を張る」結花は砂にもう一本、細い線を走らせた。「私は囮を追い、空は裏の道を塞ぐ。光は合図の鐘を打つ。華は観客を引き、静は拍を守る。晃太は“倒れたときの道”を引いておく。さとみと惇は鍛冶場の火を落とさない。歩美は紙の道を繋ぐ。沙耶香は槍の間合いで人の道を守る。—誰がどこでなにをどうやるか、決めてから大胆になる」

 光が笑った。「比喩で言えば—船は沖で帆を張るより、港で帆の癖を直しておく方が速い」
 「帆の癖ね」結花は頷き、砂に描いた波の線を指で押して“癖”をつけた。「鏡にも癖がある。人の拍にも」

 日が傾き、浜の影が長くなる。白砂の線は、潮風で少しずつ削れ、形を変え、しかし骨格だけは残る。結花は線の上に片足を置き、目を閉じて呼吸を一つ整えた。「—明日、干潟で笑う水鏡を見たら、退く。退いて、笑い方を真似る」
 「真似る?」空が眉を寄せる。
 「うん。嘲笑は、動揺の裏返し。鏡が笑う時は、揺れてる時。揺れの拍が測れる」
 「測ってどうする」
「逆位相で打つ」結花は目を開いた。「静の太鼓と合わせて、揺れを相殺する」

 暗くなる前に、結花は白砂の線を両手で崩し、線があったことを砂の中にだけ残した。「残骸が、道になる」
 空は帳場の木札を箱に納め、歩美は条目の下書きを巻物に巻いた。華は扇の鈴をひとつ外し、結花の帯に結ぶ。「半拍ずれのお守り」
 「ありがとう」結花は鈴を指で弾き、小さな音を胸にしまった。

 夜。帳場の戸が閉まり、風が音を薄くする。結花は砂に座り、海を見た。遠くで灯がひとつ、ふたつ、点いたり消えたりする。波は暗く、しかし穏やかだ。彼女は掌を砂に押し当て、言葉をひとつ置いた。「—明日は、退く。退いて、学ぶ」
 それは言い訳ではない。順番だ。退き、学び、戻る。戻ったら、掛ける。橋を。
 背後で、空が立ち止まり、短く言う。「明日は、俺が嫌われ役をやる。退き際を告げる役だ」
 「嫌われ役は、橋の中で一番強い板」結花は笑い、立ち上がった。「折れたら、私がもう一枚差し込む」

 ふたりは並んで浜を離れた。白砂は足跡を残し、消した。消えた跡は記憶だけに残る。記憶に残った線は、翌朝の足の運びになる。明日が来る。潮が引く。水鏡が、きっと笑う。

 夕餉前、沙耶香が義勇の若い連中を連れて浜に来た。槍先には布が巻かれ、足運びは軽い。「左利きの鏡妖が来たと仮定して、間合いを半歩詰める—その稽古を今のうちから」彼女の声は低く、しかしよく通る。稽古の足音が砂に拍を刻み、結花の描いた線が踏み固められていく。
 「左利き?」と若者が問う。「妖に利き手なんて」
 「ある」沙耶香は即答する。「波が右から打つ場所で育ったものは、左に返す癖がつく。利き手は、その癖と同じ」
 結花は笑ってうなずく。「だから、線を二本にした」
 「二本?」
 「右に返す線と、左に返す線」

 鍛冶場から駆け付けたさとみと惇は、火箸を杖にして息を整えた。「霊槌の柄、替えを三本用意した。渦紋の向きが少し違う」さとみは布包みを開く。「どれが、手に馴染む?」
 結花は一本ずつ握り、砂の上で軽く振ってみる。柄の重心の位置が微妙に違い、振動の抜け方も違う。「—これ」
 「真ん中の?」惇が目を輝かせる。「渦紋が左右反転してる」
 「左右の返しを両方試すから」結花は答えた。「今日の笑いは左だった。でも明日は右かもしれない」

 貴之は祠から持ち帰った紙垂を潮風に晒し、湿り気の変化を見ている。「紙は、風の詩を教える」と彼は言った。「同じ風でも、紙の重さと切り口で、音が変わる」
 「貴之さん、お願いがある」結花は頼む。「明日、干潟の外れで短い読経を。—拍の錨を打ちたい」
 貴之は穏やかにうなずいた。「任された」

宵が深まる前、結花はひとつだけ個人的な用事を足した。旧商館の裏手、小さな石段を上がったところに、破れた戸板が立てかけてある。戸板の裏に、小刀で細い線が刻まれていた—かつて誰かが、ここで身長を測った跡。「…王女」結花は線に指を重ねる。昔の線は、思っていたより低い。背伸びしていたのは、身体ではなく、心だったのかもしれない。
 石段を降りると、エヴァンが角の陰で立っていた。驚くでもなく、ただ帽子の庇をいじっている。「君の描く線は、いつも消える…のうち、正しいのは何本?」
「明日にならないと判らない」
 エヴァンは吹き出し、しかしすぐ真顔に戻る。「—明日、干潟の北側は見るな。帆布の数が増える」
 「見るな、ね」結花は小さく笑って、鈴を指で弾いた。「ありがとう」

 夜半、歩美の机で、条目の仮題が三つ並んだ。『港内橋梁仮規定』『鏡柱暫定管理法』『人妖往来安全章程』。歩美は筆を止め、結花に言う。「言葉は、道具。鋭すぎても、鈍すぎても、血が出る」
「だから寝かせる」結花は頷く。「明日の朝、もう一度読む」
 「あなたは?」
 「白砂に、もう一本だけ線を引く」
 歩美は微笑んだ。「消える線は、私の紙の上で“残る線”にする。順番、よろしく」

 明け方前、結花は浜へ戻った。潮はまだ高く、白砂はほとんど見えない。星が薄い布の下に小さく瞬き、冷えた風が肌を撫でる。彼女は膝をつき、波の引いた跡に指を差し込んだ。砂は冷たく、しかし硬くはない。「—ここに、道」
 線は波で消えた。けれど、消えたことが合図だった。彼女は立ち上がり、背伸びをして肺の奥に冷たい空気を満たし、吐いた。吐いた息が白砂の上で薄く広がる。それで充分だ。彼女は踵を返し、港の灯の方へ歩き出した。

 港の端で、光が待っていた。「比喩を一つ」彼は言った。「今日の退き際は、引き潮に似せろ。戻る準備をした退き際だ」
 「じゃあ合図は?」
 「鈴と太鼓と鐘。三つ揃ったら、退く」
 「了解」結花は笑い、指で鈴を弾いた。小さな音が、まだ明けない空に浮かび、消えた。

 日の出直前、帳場の屋根に登ると、港全体が一枚の図に見えた。帆の影、桶の列、猫の通り道、早起きの魚売りの声。結花は胸の前で掌を合わせ、昨夜引いた百本の“消える線”を、頭の中で一本に束ねた。「—私は、退くとき、退く。進むとき、進む。言い訳は、その間に板を渡すために使う」
 空が梯子を上ってきて、隣に腰を下ろした。「俺は、嫌われ役をやる」
 「もう聞いた」
 「念押しだ」
 「念押しは、橋の釘」結花は笑い、屋根の棟木をとん、と叩く。「ありがとう」
 ふたりは港を見渡し、同じところで目を細めた。干潟の向こう、帆布の白がひとつ増えている。「—見ない北側」結花は小さく呟き、鈴を弾いた。合図は、もう決まっている。退く。退いて、学ぶ。そして、戻って、掛ける。

 その時、桟橋の端で子どもたちが棒切れを持って真似事をしていた。「半拍ずれ!」と叫びながら、鈴の代わりに貝殻を打ち鳴らす。結花は思わず笑って降りていき、貝殻の鳴らし方を少しだけ直してやった。「ほら、ここで一拍、息をためる。ためた息は、戻るときに音になる」
 「おねえちゃん、明日も来る?」
 「来るよ」
 「逃げないの?」
 「退くの」結花は目を細めた。「退いたら、戻ってくる」

 朝日が水平線から顔を出し、白砂は金に変わった。結花は掌を砂に押し付け、熱の移り変わりを確かめる。今日の砂は昨日より少しだけ温かい。温かい砂は、足を速くする。彼女は立ち上がり、帯の鈴をもう一度だけ鳴らした。「—行こう。線を、道にするために」

 背後で空が短く頷き、木札の束を持ち直した。「段取りは俺が持つ。拍はお前が持て」
 「了解」結花は短く答え、白砂の端を踏み出した。足跡はすぐ消えたが、心には深く刻まれた。今日という一日のために、百本の線が一本の道になる。