第7話_簪を折る
下山の夜、街道の宿場は、雨上がりの匂いと油紙の擦れる音で満ちていた。時刻は宵四つ。瓦の端から雫が落ち、石畳を丸く暗くする。賭場の暖簾には「福」の字が裏返りに縫い取りされ、灯は赤く低い。誰がいつでもどこでもやることは同じ—金の行き先を決める。そのやり口が違うだけ。結花は路地の陰で息を整え、勇気の背中が暖簾をくぐるのを見送った。彼の指が一瞬だけ左へ開いた。—合図。中に、目当ての男がいる。
床几のきしむ音。賽子の転がる乾いた音。甘い煙草と汗の匂い。勇気は卓の中心を陣取り、女中に湯飲みを頼んだ。「今日は、紙の勝負で行こうや」
「紙?」向かいの席で、異国の男が細い指を組む。エヴァン—商館の通訳。袖口には海風の塩の白い跡。瞼の影は浅く、笑えば消える種類の疲れ。「紙一重の勝負なら、今夜は風が味方だ」
「紙一重って言うだろ」勇気は笑って、札束の角で卓を軽く叩いた。「命と紙一重。仕事と紙一重。恋と紙一重。紙は薄いが、紙ほど強い」
…、君たちが嫌いな種類の紙です」
「嫌いな紙なら、好きな札に替えよう」勇気は掌を上に向け、街場の芝居口調で周囲を煽った。「さあさ、みなさまお立会い、今宵は紙一重の渡り遊び。向こう岸に渡れない紙は、風に乗せて返してやる!」
賭場のざわめきが笑いに変わり、店の奥の三味線が二の糸を弾いた。勇気は一手、札を切る。仕草は派手だが、目は決して手元から逸れない。相手の肩の呼吸、唇の乾き、指先の汗—どこで緊張が跳ね、どこで緩むかを読むのは、勝負の前提だ。
結花は路地で簷下の水をすくい、小瓶に落として香りを確かめる。雨上がりの匂いが濃い夜は、人の嘘を浮かべやすい。華は屋根の上で瓦と瓦の間を渡り、合図の拍を保つ。光は露地の出口で酔客をいなす。「港の真ん中で相撲を取るなよ。土俵は、ここだ」
「条件がある」エヴァンは封書を指先ではじいた。「この紙は、君たちが港を壊す道に使うなら渡せない」
「壊す道は選ばない」勇気は肩をすくめた。「港は、壊すより賭けた方が増える」
「賭け?」
「信用を賭けるんだよ」勇気は身を乗り出す。「目に見える金や鉄を賭けると、負けたときに残るのは恨みだ。目に見えないものを賭けると、負けても残るのは学び—次の勝ち筋だ」
「…あなたは、言葉で世界を作る」エヴァンは呟き、封書を卓に置いた。「私は、それを羨ましいと思う」
勝負は短かった。勇気は二合目でわざと負け、三合目で帳場の視線を自分に集め、四合目の拍で、札の山と封書をすり替えた—観客の大拍手と笑い声が、最良の目隠しになる瞬間を、彼は逃さない。女中の袖が広がる角度、三味線の間が一拍伸びる瞬間、賽子が床を跳ねる音のあとに生まれる静けさ—そこに手を入れる。賭場は、音楽だ。
裏口で待っていた結花は、勇気の袖から封書を受け取ると、封蝋の簪に息を吹きかけた。「古王家の女の意匠。わざわざ見せるってことは、脅しでもあり、助け舟でもある」
「どっちだと思う」勇気が問う。
「どっちでもいいように、こちらの“順番”を決める」結花は封を切らず、袖に収めた。「開けるのは、場を移してから」
店の裏手、井戸端に灯をひとつ。華が瓦からひらりと降り、光が露地の見張りを交代する。「密書に手が回る前に動くぞ」と光。「比喩で言えば—火の粉は手で叩き落とすより、風向きを変えた方が早い」
その時、賭場の奥から怒声が起きた。すり替えに気づいたのは、勇気がわざと作った“遅れ”のせいだ。遅れて気づくと、人は大きな声で威力を取り戻そうとする。光は肩を竦め、「予定通りだ」と笑う。三人は井戸の蓋を少しずらし、路地の先の細道へ滑り込んだ。雨の名残は、追手の足跡を消してくれる。
「開ける?」華が囁く。
「まだ」結花は首を振る。「ここは匂いが強すぎる。紙は匂いを吸う」
裏長屋の一室。晃太の手当て場を兼ねる小部屋で、結花はようやく封蝋を割った。中には、異国語と和文が併記された目録、港の倉の鍵番の名前、そして祠の裏手の見取り図。どの紙にも、小さく簪の印が押されている。
「わざと見つけさせる紙だ」晃太が言う。「導かれている」
「導かれても、踊るのはこっちの拍で」結花は目録の端に線を引いた。「—これ、兵器化の実験計画。影を詰めた器を人に装着する。失敗例が赤い印」
部屋の空気が少し重くなった。誰も言わないが、想像は同じ方向に進む。使えなくなった人間は、どこへ行くのか。
「簪の紋に、もう一つ、細工がある」歩美が帳簿を抱えて入ってきた。捨て印の位置が不自然で、浮紙の下に微細な書き込みが隠されている。「—『橋にするなら、王座から降ろせ』」
「誰が書いた?」
「筆圧が二種。異国語側は硬い癖、和文側は柔らかい癖。たぶん二人で書いてる」
「内通者が二人」光が言う。「うち、ひとりは“王座から降ろせ”と書くくらい、王権に飽いてる」
結花は簪の紋を、指の背で撫でた。冷たい。—簪は、髪をまとめ、見えない乱れを見えにくくする道具。王家の女は、髪の乱れも、心の乱れも、見えないように留めてきた。留めすぎれば、折れる。
「簪は折れる」結花は呟いた。「折るべき時に、折れなかったら、首が折れる」
「物騒だな」勇気が笑う。
「物騒な比喩は、覚えやすい」光が返す。
封書の一枚に、港の蔵の夜警の交代時刻が赤で丸を付けて記されていた。「今夜、三更と五更の間」華が指を置く。「干満の間(あわい)で、鍵番が仮眠に落ちる」
「そこへ入る」結花は立ち上がる。「でも正面からは行かない。—“簪を折る”。髪を留めている簪を、抜くときの角度で」
実行前に、結花は一度だけ外の雨樋の下で立ち止まった。掌に細い雨が落ちる。「エヴァン、あなた、どこまで味方?」口の中だけで問う。返事はもちろん返らない。けれども、封書の筆圧は正直だ。彼は、壊すより遅らせる人間だ。遅らせる人間は、橋の床板を一枚ずつ確かめるのに向いている。
港の倉。三更。潮が引き、石の匂いが強い。夜警の足音が規則正しく遠のき、戻る。壁の影が膨らみ、縮む。結花たちは屋根伝いに近づき、雨樋の鎖を伝って地に降りた。勇気が合図し、華が簪—いや、細工針を出す。鍵穴の縁に触れると、冷たい金の匂いが指に移った。
「風向き、よし」光が低く言う。「比喩で言えば—扇を開く角度で」
華の指が二度、三度、回る。金属が柔らかく息を吐く。閂が外れる。扉が鳴らないよう、布を当てて押し広げる。中は暗く、乾いた藁と薬品の匂い。
人の気配があった。寝息。鍵番だ。晃太が脈を見、「浅い」と囁く。「薬の匂いで、浅くなってる」
「起こさない」結花は短く答え、封書の地図どおりに棚と棚の間を抜ける。簪の紋の付いた木箱が三つ。ひとつは軽い。ひとつは重い。もうひとつは、ほとんど音を立てない。
「音のしない箱ほど、うるさいものが入ってる」勇気が冗談めかして言った。
「開けるのは外」結花は三つを抱え、蔵の裏手の塀を越える。
開けた箱の一つには、薄い雲母板と銀粉。祠の脇で見つけた囮と同じだ。二つ目には、封札の焼け跡と同じ匂いの薬品。三つ目—細い金具と革の枷、内側に細かい文字で注意書き。「—『装着時、意志の弱い者より試すこと』」
「怒りが、喉まで上がってくる」華が小さく言う。「吐く代わりに、息を整える」
「吐くなら、朝にしよう」光が言う。「今は、運ぶ」
運ぶ—どこへ? 結花は短く迷い、決めた。「海へ。潮に晒して匂いを飛ばす。証拠は残す」
「奉行所に?」歩美が尋ねる。「今はまだ早い」
「うん。空の段取りと合わせる。証拠は、順番を変える最後の一押しに使う」
作業が終わるころ、東の空が淡く割れ始めていた。潮の匂いが、夜の終わりを告げる。結花は簪の細工針を拾い上げ、空に掲げるようにして一度だけ眺めた。細くて、よく曲がる。折ろうとすれば、すぐ折れる。折らずに使い続ければ、いずれは髪を傷める。
「折る」結花は小さく言い、針の先を石に当てた。ぴし、と乾いた音。針は二つに割れ、朝の光がその断面で一度だけ跳ねた。
帰り道、結花は港の縁で立ち止まった。「エヴァン、これが私の返事。—壊す道は選ばない。でも、折るべきものは折る」
潮は静かで、波は二度、三度、同じ場所に寄せては返した。彼女の言葉が正しいかどうかを測るのは、いつだって次の行動だ。行動は、拍を持つ。拍が揃えば、橋は掛かる。
夜が明ける。港の空は薄青く、帆の影が動き始める。結花は仲間と目を合わせただけで、それぞれの持ち場へ散った。言葉は倉に預け、拍だけを胸に残して。
明け方の薄闇、賭場の裏手の桟橋で、結花はひとり立ち止まった。板の継ぎ目から潮が置き土産のように白く浮き、縄の結び目には夜露が鈍く溜まっている。背後で足音。「—君は、時々こわい」エヴァンだった。どこから見ていたのか、袖口は雨ではなく汗で濡れている。
「こわいのは、私じゃなくて“決めること”の方」結花は振り向かずに言った。「決めないと、誰かが決める。誰かが決めた順番は、たいてい、後ろに並ぶ人を踏む」
「君は、順番の話をよくする」
「だ…を抜いた。「わかった。次の紙には、私の時間を書こう。君が読める字で」
「ありがとう」結花は軽く会釈し、桟橋から跳び降りた。板の裏側の湿り気が、足裏にひやりと移る。彼女は走り出した。港はもう、朝の音に切り替わるところだ。
その日、昼前。空が開いた帳場で、結花と空は地図を挟んで向き合った。「段取りを増やすな」と空。「増やすと破綻点も増える」
「段取りを増やすのは、渡れる人の数を増やすため」結花は即答する。「一本の縄橋より、二本の綱。人は、揺れに強い方と弱い方がいる」
「強い弱いの前に、資格と許可だ」空は木札を並べる。「港の中で誰がいつどこへ入れるか、帳面で決まる」
「帳面で決まらない拍もある」結花は笑う。「だから帳面と拍、二本で行こう」
言い合いは、いつものことだった。二人の会話は、喧嘩というより調律に近い。最後には必ず、二つの線がどこかで交わる。交わる点さえ決めれば、あとは各自の拍で走れる。
夕刻前、歩美が書役の机を叩いて「間に合う」と言った。「条目の下書きは準備できた。『橋は公共の道と認む』—あとは証拠」
「証拠はある。匂い付きでね」結花は囮の雲母板と薬壜と革枷を見せ、観音開きの箱に丁寧に並べた。「匂いは時間の印。誰がいつ触れたか、鼻は覚える」
「鼻に頼る条目は書けないが—鼻に頼って集めた証拠は、紙にできる」歩美は微笑む。「紙の重さで、橋の板を増やそう」
宵の口、再び賭場の前を通ると、暖簾は取り外され、店の中は静かだった。昼までに奉行所の手が入ったのだ。勇気が片眉を上げる。「俺たちのせいじゃないが、俺たちのせいでもある」
「責任を分けたからね」結花は軽口で返す。「ほら、簪を折ったら髪がほどけた。ほどけた髪は、洗える」
「また比喩」華が笑い、扇を鳴らす。「でも好きよ。その言い回し」
夜、灯が浅くなるころ、結花は再び井戸端に立った。水面に、昼の自分が少し遅れて落ちてくる。遅延は、記憶の深呼吸だ。今日一日で決めたこと、折ったこと、折らなかったこと。指を水に浸すと、冷たさが骨に伝わる。
「—よし」彼女は短く言い、井戸の縁を軽く叩いた。拍の確認。次は、砂の上に線を引く。白砂に、道を。誰のためでもない道を。
翌朝、港の端で、エヴァンが紙を一枚差し出した。筆致は拙いが、読みやすい和文。「『私は、三更から五更まで、倉の裏で時間を伸ばした。理由は、君の言った“拍”を聴きたかったから。遅らせたことは罪だが、罪は私が持つ』」
結花は紙を折り、袖に仕舞った。「ありがとう。罪は一緒に分ける。責任も」
エヴァンは驚いたように瞬き、そしてほんの短い笑みを見せた。「君は、いつも折る。そして、もう一度、留める」
「留めるよ。落ちない角度で」結花は言い、背を向けた。空が待つ帳場へ向かう足音に、港の朝の拍が重なる。—進む。
下山の夜、街道の宿場は、雨上がりの匂いと油紙の擦れる音で満ちていた。時刻は宵四つ。瓦の端から雫が落ち、石畳を丸く暗くする。賭場の暖簾には「福」の字が裏返りに縫い取りされ、灯は赤く低い。誰がいつでもどこでもやることは同じ—金の行き先を決める。そのやり口が違うだけ。結花は路地の陰で息を整え、勇気の背中が暖簾をくぐるのを見送った。彼の指が一瞬だけ左へ開いた。—合図。中に、目当ての男がいる。
床几のきしむ音。賽子の転がる乾いた音。甘い煙草と汗の匂い。勇気は卓の中心を陣取り、女中に湯飲みを頼んだ。「今日は、紙の勝負で行こうや」
「紙?」向かいの席で、異国の男が細い指を組む。エヴァン—商館の通訳。袖口には海風の塩の白い跡。瞼の影は浅く、笑えば消える種類の疲れ。「紙一重の勝負なら、今夜は風が味方だ」
「紙一重って言うだろ」勇気は笑って、札束の角で卓を軽く叩いた。「命と紙一重。仕事と紙一重。恋と紙一重。紙は薄いが、紙ほど強い」
…、君たちが嫌いな種類の紙です」
「嫌いな紙なら、好きな札に替えよう」勇気は掌を上に向け、街場の芝居口調で周囲を煽った。「さあさ、みなさまお立会い、今宵は紙一重の渡り遊び。向こう岸に渡れない紙は、風に乗せて返してやる!」
賭場のざわめきが笑いに変わり、店の奥の三味線が二の糸を弾いた。勇気は一手、札を切る。仕草は派手だが、目は決して手元から逸れない。相手の肩の呼吸、唇の乾き、指先の汗—どこで緊張が跳ね、どこで緩むかを読むのは、勝負の前提だ。
結花は路地で簷下の水をすくい、小瓶に落として香りを確かめる。雨上がりの匂いが濃い夜は、人の嘘を浮かべやすい。華は屋根の上で瓦と瓦の間を渡り、合図の拍を保つ。光は露地の出口で酔客をいなす。「港の真ん中で相撲を取るなよ。土俵は、ここだ」
「条件がある」エヴァンは封書を指先ではじいた。「この紙は、君たちが港を壊す道に使うなら渡せない」
「壊す道は選ばない」勇気は肩をすくめた。「港は、壊すより賭けた方が増える」
「賭け?」
「信用を賭けるんだよ」勇気は身を乗り出す。「目に見える金や鉄を賭けると、負けたときに残るのは恨みだ。目に見えないものを賭けると、負けても残るのは学び—次の勝ち筋だ」
「…あなたは、言葉で世界を作る」エヴァンは呟き、封書を卓に置いた。「私は、それを羨ましいと思う」
勝負は短かった。勇気は二合目でわざと負け、三合目で帳場の視線を自分に集め、四合目の拍で、札の山と封書をすり替えた—観客の大拍手と笑い声が、最良の目隠しになる瞬間を、彼は逃さない。女中の袖が広がる角度、三味線の間が一拍伸びる瞬間、賽子が床を跳ねる音のあとに生まれる静けさ—そこに手を入れる。賭場は、音楽だ。
裏口で待っていた結花は、勇気の袖から封書を受け取ると、封蝋の簪に息を吹きかけた。「古王家の女の意匠。わざわざ見せるってことは、脅しでもあり、助け舟でもある」
「どっちだと思う」勇気が問う。
「どっちでもいいように、こちらの“順番”を決める」結花は封を切らず、袖に収めた。「開けるのは、場を移してから」
店の裏手、井戸端に灯をひとつ。華が瓦からひらりと降り、光が露地の見張りを交代する。「密書に手が回る前に動くぞ」と光。「比喩で言えば—火の粉は手で叩き落とすより、風向きを変えた方が早い」
その時、賭場の奥から怒声が起きた。すり替えに気づいたのは、勇気がわざと作った“遅れ”のせいだ。遅れて気づくと、人は大きな声で威力を取り戻そうとする。光は肩を竦め、「予定通りだ」と笑う。三人は井戸の蓋を少しずらし、路地の先の細道へ滑り込んだ。雨の名残は、追手の足跡を消してくれる。
「開ける?」華が囁く。
「まだ」結花は首を振る。「ここは匂いが強すぎる。紙は匂いを吸う」
裏長屋の一室。晃太の手当て場を兼ねる小部屋で、結花はようやく封蝋を割った。中には、異国語と和文が併記された目録、港の倉の鍵番の名前、そして祠の裏手の見取り図。どの紙にも、小さく簪の印が押されている。
「わざと見つけさせる紙だ」晃太が言う。「導かれている」
「導かれても、踊るのはこっちの拍で」結花は目録の端に線を引いた。「—これ、兵器化の実験計画。影を詰めた器を人に装着する。失敗例が赤い印」
部屋の空気が少し重くなった。誰も言わないが、想像は同じ方向に進む。使えなくなった人間は、どこへ行くのか。
「簪の紋に、もう一つ、細工がある」歩美が帳簿を抱えて入ってきた。捨て印の位置が不自然で、浮紙の下に微細な書き込みが隠されている。「—『橋にするなら、王座から降ろせ』」
「誰が書いた?」
「筆圧が二種。異国語側は硬い癖、和文側は柔らかい癖。たぶん二人で書いてる」
「内通者が二人」光が言う。「うち、ひとりは“王座から降ろせ”と書くくらい、王権に飽いてる」
結花は簪の紋を、指の背で撫でた。冷たい。—簪は、髪をまとめ、見えない乱れを見えにくくする道具。王家の女は、髪の乱れも、心の乱れも、見えないように留めてきた。留めすぎれば、折れる。
「簪は折れる」結花は呟いた。「折るべき時に、折れなかったら、首が折れる」
「物騒だな」勇気が笑う。
「物騒な比喩は、覚えやすい」光が返す。
封書の一枚に、港の蔵の夜警の交代時刻が赤で丸を付けて記されていた。「今夜、三更と五更の間」華が指を置く。「干満の間(あわい)で、鍵番が仮眠に落ちる」
「そこへ入る」結花は立ち上がる。「でも正面からは行かない。—“簪を折る”。髪を留めている簪を、抜くときの角度で」
実行前に、結花は一度だけ外の雨樋の下で立ち止まった。掌に細い雨が落ちる。「エヴァン、あなた、どこまで味方?」口の中だけで問う。返事はもちろん返らない。けれども、封書の筆圧は正直だ。彼は、壊すより遅らせる人間だ。遅らせる人間は、橋の床板を一枚ずつ確かめるのに向いている。
港の倉。三更。潮が引き、石の匂いが強い。夜警の足音が規則正しく遠のき、戻る。壁の影が膨らみ、縮む。結花たちは屋根伝いに近づき、雨樋の鎖を伝って地に降りた。勇気が合図し、華が簪—いや、細工針を出す。鍵穴の縁に触れると、冷たい金の匂いが指に移った。
「風向き、よし」光が低く言う。「比喩で言えば—扇を開く角度で」
華の指が二度、三度、回る。金属が柔らかく息を吐く。閂が外れる。扉が鳴らないよう、布を当てて押し広げる。中は暗く、乾いた藁と薬品の匂い。
人の気配があった。寝息。鍵番だ。晃太が脈を見、「浅い」と囁く。「薬の匂いで、浅くなってる」
「起こさない」結花は短く答え、封書の地図どおりに棚と棚の間を抜ける。簪の紋の付いた木箱が三つ。ひとつは軽い。ひとつは重い。もうひとつは、ほとんど音を立てない。
「音のしない箱ほど、うるさいものが入ってる」勇気が冗談めかして言った。
「開けるのは外」結花は三つを抱え、蔵の裏手の塀を越える。
開けた箱の一つには、薄い雲母板と銀粉。祠の脇で見つけた囮と同じだ。二つ目には、封札の焼け跡と同じ匂いの薬品。三つ目—細い金具と革の枷、内側に細かい文字で注意書き。「—『装着時、意志の弱い者より試すこと』」
「怒りが、喉まで上がってくる」華が小さく言う。「吐く代わりに、息を整える」
「吐くなら、朝にしよう」光が言う。「今は、運ぶ」
運ぶ—どこへ? 結花は短く迷い、決めた。「海へ。潮に晒して匂いを飛ばす。証拠は残す」
「奉行所に?」歩美が尋ねる。「今はまだ早い」
「うん。空の段取りと合わせる。証拠は、順番を変える最後の一押しに使う」
作業が終わるころ、東の空が淡く割れ始めていた。潮の匂いが、夜の終わりを告げる。結花は簪の細工針を拾い上げ、空に掲げるようにして一度だけ眺めた。細くて、よく曲がる。折ろうとすれば、すぐ折れる。折らずに使い続ければ、いずれは髪を傷める。
「折る」結花は小さく言い、針の先を石に当てた。ぴし、と乾いた音。針は二つに割れ、朝の光がその断面で一度だけ跳ねた。
帰り道、結花は港の縁で立ち止まった。「エヴァン、これが私の返事。—壊す道は選ばない。でも、折るべきものは折る」
潮は静かで、波は二度、三度、同じ場所に寄せては返した。彼女の言葉が正しいかどうかを測るのは、いつだって次の行動だ。行動は、拍を持つ。拍が揃えば、橋は掛かる。
夜が明ける。港の空は薄青く、帆の影が動き始める。結花は仲間と目を合わせただけで、それぞれの持ち場へ散った。言葉は倉に預け、拍だけを胸に残して。
明け方の薄闇、賭場の裏手の桟橋で、結花はひとり立ち止まった。板の継ぎ目から潮が置き土産のように白く浮き、縄の結び目には夜露が鈍く溜まっている。背後で足音。「—君は、時々こわい」エヴァンだった。どこから見ていたのか、袖口は雨ではなく汗で濡れている。
「こわいのは、私じゃなくて“決めること”の方」結花は振り向かずに言った。「決めないと、誰かが決める。誰かが決めた順番は、たいてい、後ろに並ぶ人を踏む」
「君は、順番の話をよくする」
「だ…を抜いた。「わかった。次の紙には、私の時間を書こう。君が読める字で」
「ありがとう」結花は軽く会釈し、桟橋から跳び降りた。板の裏側の湿り気が、足裏にひやりと移る。彼女は走り出した。港はもう、朝の音に切り替わるところだ。
その日、昼前。空が開いた帳場で、結花と空は地図を挟んで向き合った。「段取りを増やすな」と空。「増やすと破綻点も増える」
「段取りを増やすのは、渡れる人の数を増やすため」結花は即答する。「一本の縄橋より、二本の綱。人は、揺れに強い方と弱い方がいる」
「強い弱いの前に、資格と許可だ」空は木札を並べる。「港の中で誰がいつどこへ入れるか、帳面で決まる」
「帳面で決まらない拍もある」結花は笑う。「だから帳面と拍、二本で行こう」
言い合いは、いつものことだった。二人の会話は、喧嘩というより調律に近い。最後には必ず、二つの線がどこかで交わる。交わる点さえ決めれば、あとは各自の拍で走れる。
夕刻前、歩美が書役の机を叩いて「間に合う」と言った。「条目の下書きは準備できた。『橋は公共の道と認む』—あとは証拠」
「証拠はある。匂い付きでね」結花は囮の雲母板と薬壜と革枷を見せ、観音開きの箱に丁寧に並べた。「匂いは時間の印。誰がいつ触れたか、鼻は覚える」
「鼻に頼る条目は書けないが—鼻に頼って集めた証拠は、紙にできる」歩美は微笑む。「紙の重さで、橋の板を増やそう」
宵の口、再び賭場の前を通ると、暖簾は取り外され、店の中は静かだった。昼までに奉行所の手が入ったのだ。勇気が片眉を上げる。「俺たちのせいじゃないが、俺たちのせいでもある」
「責任を分けたからね」結花は軽口で返す。「ほら、簪を折ったら髪がほどけた。ほどけた髪は、洗える」
「また比喩」華が笑い、扇を鳴らす。「でも好きよ。その言い回し」
夜、灯が浅くなるころ、結花は再び井戸端に立った。水面に、昼の自分が少し遅れて落ちてくる。遅延は、記憶の深呼吸だ。今日一日で決めたこと、折ったこと、折らなかったこと。指を水に浸すと、冷たさが骨に伝わる。
「—よし」彼女は短く言い、井戸の縁を軽く叩いた。拍の確認。次は、砂の上に線を引く。白砂に、道を。誰のためでもない道を。
翌朝、港の端で、エヴァンが紙を一枚差し出した。筆致は拙いが、読みやすい和文。「『私は、三更から五更まで、倉の裏で時間を伸ばした。理由は、君の言った“拍”を聴きたかったから。遅らせたことは罪だが、罪は私が持つ』」
結花は紙を折り、袖に仕舞った。「ありがとう。罪は一緒に分ける。責任も」
エヴァンは驚いたように瞬き、そしてほんの短い笑みを見せた。「君は、いつも折る。そして、もう一度、留める」
「留めるよ。落ちない角度で」結花は言い、背を向けた。空が待つ帳場へ向かう足音に、港の朝の拍が重なる。—進む。

